ep.9:死闘の終わり、静寂の行軍
霧が晴れゆく森の中で、ヨルグとアルファ・ウルフが対峙する。
アルファは骨の軋む音を鳴らしながら、低く唸った。それは単なる威嚇ではない。戦局を読み、狩人たちの死角を突き、円陣を崩壊させた戦術家の唸り声だ。
――呼吸を整えろ。
ヨルグは剣を構える。だが、アルファは動かない。まるで、ヨルグの呼吸が乱れるのを待ち構えているかのように。
暫くのにらみ合いの末、じれたように獣が動いた。その速度は、先ほどまでの群れとは次元が違った。
激突。
ヨルグの大剣とアルファの強靭な前足がぶつかり合い、火花が散る。ヨルグは剣の重量を利用して受け流そうとするが、アルファはそれを予見していたかのように、空中で身体を捻り、尾でヨルグの脇腹を叩き打った。
「ぐっ……!」
吹き飛ばされたヨルグが着地する間も与えず、アルファは猛追する。その一撃一撃が重く、かつ理知的にヨルグを追い詰めていく。わずかなスキを見つけてヨルグの大剣がアルファの脇腹を切り裂くが、獣は構わずヨルグの利き腕を食いちぎろうと牙を剥く。
森中に、剣と牙がぶつかる金属音と獣の鳴き声が木霊する。それはまさに互いに譲らぬ、死の舞踏。
ヨルグの身体には、すでに数多の傷跡が刻まれていた。だが、アルファの左眼にもヨルグの剣による傷が深々と突き刺さり、暗赤色の血が絶え間なく流れ出ている。
――今だ。
アルファが致命的な一撃を放とうと、大きく身体を預けた瞬間。ヨルグは自らの左肩を餌にして、獣の懐へ深く踏み込んだ。
肉を食い破る音が響く。アルファの牙がヨルグの肩を貫通する。だが、それと同時にヨルグの大剣が、アルファの首筋に深く、深くめり込んだ。
両者がもつれ合い、激しく地面に倒れる。
アルファの喉から断末魔が漏れ、その巨大な瞳から光が消えていく。
「……殺った……か」
ヨルグは肩から溢れる血を抑え、荒い息を吐く。
激闘の果て。ようやく支配者を討ち取った。そう確信し、緊張を解いた、まさにその刹那だった。
死んだはずのアルファの背後から、まだ息のあった一頭の若い狼が、ヨルグの無防備な背中を狙って跳躍していた。
「――避けろ、ヨルグ!」
ロイドの怒号が響いた。
だが、ヨルグの反応は遅れた。致命的な爪がヨルグの頸動脈を捉えようとした刹那――。
鈍い衝撃と共にロイドがヨルグを突き飛ばした。
代わりに、鋭い刃のような爪がロイドの脇腹を深く抉り、続けてその牙が肩口を食い破る。
「グアッ……!」
ロイドの体が、重い斧を落とすと同時に崩れ落ちる。突き飛ばされたヨルグの目の前で、彼を助けた恩人は獣の餌食となっていた。
「ロイドッ!」
ヨルグが叫ぶよりも早く、横から影が躍り出た。アッシュだ。
その顔は、普段の冷徹さなど微塵もない、鬼のような形相に歪んでいる。アッシュは長剣を唸らせ、ロイドを襲った獣の首を、執念を込めた一撃で粉砕した。
戦場が一瞬、沈黙に包まれる。
アッシュは獣の死骸を蹴り飛ばすと、血まみれになって倒れるロイドの元へ駆け寄った。
ヨルグもまた、肩から血を流しながら這い寄る。ロイドの腹部は無残に裂け、そこから大量の赤黒いものが溢れ出していた。
「……おう、新人。お前、最後は悪くない剣を振ってたな」
吐き出される言葉には、酒の臭いと、鉄の臭いが混じっていた。
「俺の斧は……もう重い。……最後に、若者の未来を守れたなら……いい人生だ」
ロイドの視線が、どこか遠くを向く。
満足そうに口角を歪めると、飲んだくれの業狩りは、そのまま静かに息を引き取った。
「ロイド……ロイド!」
ヨルグはロイドの冷たくなった手を握りしめるしかなかった。
アルファを倒した達成感など、どこにもない。そこにあるのは、自らの油断によって奪われた仲間の命と、その重すぎる代償だけだった。
アッシュの咆哮に近い叫びと獣の死骸が、深い森の静寂を塗り替えた。
散開していた業狩りたちが、次々と木々の間から駆けつけてくる。
レオが巨大な棍棒を地に突き立て、信じられないものを見る目でロイドの亡骸を見下ろした。エイダは弓を握る手を小刻みに震わせ、カッシュはあの軽薄な笑みを完全に消し去って、ロイドの死に顔を硬い表情で見つめている。
最後に到着したビクトリアは、血に濡れた剣を納刀すると、ロイドの傍らに膝をついた。
場には、張り裂けんばかりの沈黙が支配している。
レオが荒々しく背を向け、レオなりの作法でこぼれそうな涙を隠した。エイダは口元を押さえ、その場に崩れ落ちる。カッシュは静かに目を閉じ、胸の前で何かを祈るように指を組んだ。
ビクトリアは震える手で、ロイドの無精髭が生えた頬に触れた。普段の荒くれ者としての姿ではなく、長い時間を共に死線を越えてきた仲間としての顔がそこにあった。
「……ロイド」
ビクトリアの声は、戦場を統率していた時とは別人のように細く、掠れていた。
「……順番を間違えるなよ、アンタより先に死ぬのは私のはずだろ……。私の次はアンタがリーダーになれって、何度も言ったじゃないか」
誰も何も言わない。森の木々が風に揺れ、梢が悲鳴を上げているようだった。
ヨルグは、握りしめた剣の柄から伝わるロイドの血の熱が、急速に冷めていくのを感じていた。彼はただ、ロイドが最後に言い残した若者の未来という言葉の重さに、自らの魂が押し潰されそうになっていた。
一時の安息の後、アッシュが静かに立ち上がる。
「……行くぞ」
その言葉は、悲しみではなく、業狩りとして生きるための再始動の合図だった。
彼らはロイドの遺体を布に包み、慎重に担ぎ上げる。アルファ・ウルフの首は無造作に放り出された。今の彼らにとって、獣の価値など、ロイドの命一つ分にも満たないゴミに過ぎなかった。
奪った命の重さと、失った命の重さ。
数の差はあれど、彼自身の中でその重さの天秤はどちらに傾いていたのか。
自問しても答えは出ない。ただ、一つだけ確かなことは、ロイドの死がヨルグの胸中で静かに「何か」を腐敗させ始めているということだった。
森を抜け、平原に出る頃には、空はすでに薄暮に染まりかけていた。
前方に見えてきたのは、討伐を依頼した村の灯りだ。獣の脅威から解放された村人たちは、今頃、自分たちが死線を越えてきたことも知らずに、安寧を祝う宴の準備でもしているのだろうか。
ロイドを背負うレオの背中が、わずかに震えた。
歩調を合わせるアッシュの顔は、石像のように冷酷で、感情が削ぎ落とされている。誰も口を開かない。沈黙そのものが、一人の男の死を弔うための唯一の作法であるかのように。
村の入り口に差し掛かったとき、焚き火の明かりの中で村人たちの姿が見えた。彼らは、狩人たちの姿を認めると、駆け寄ってくる。その表情には、獣が去ったことへの歓喜と、自分たちの生活が守られたことへの安堵が浮かんでいた。
だが、彼らはまだ気づいていない。
その安堵の代償として、誰が死に、誰が血を流しているのかを。
ヨルグは、握りしめた剣の柄に指をかけた。
これからの数分間で、自分がこの世界の理をどう書き換えることになるのか、まだ知る由もないまま、彼は村人たちの笑顔に向けて、一歩、また一歩と足を進めた。
天秤は、まだ釣り合っていない。
ただ、それがどちらに傾くかによって、ヨルグという男の運命は決定的に変わろうとしていた。




