ep.8:牙の旋律、霧中の包囲網
都市国家ハースト、ブラスの街。ビクトリアが率いる業狩りたちの拠点は、今朝は異様な熱気に包まれていた。
ビクトリアがテーブルを強く叩き、地図を指し示す。そこに集まっているのは、ビクトリアやヨルグ達を含む八名の業狩りたち――つまり、この街の業狩り全戦力だ。
「いいか、今回の相手は狼型。相手が群れで来るならこちらも群れで攻める。……このメンバーで仕留められなきゃ、村ごと全滅だと思え」
ビクトリアの号令に応え、それぞれが愛用の武器を手に取る。
背の高いレオは、巨大な棍棒をいとも容易く肩に担ぎ、その巨躯で出口を塞ぐようにして立っていた。その隣では、飲んだくれのロイドが腰の革袋を揺らしながら、両手斧の刃を無造作に砥石で撫でている。
弓を背負ったエイダは、鏡の前で艶やかに髪を整えながら、誰よりも早く準備を終えていた。鏡越しに目が合うと、彼女はヨルグに向かって妖艶に微笑んでみせる。
「ヨルグ、あんたも顔つきが変わってきたじゃない。……死にたくなきゃ、私の矢の後ろを歩きなさいよ?」
「……ああ、頼む」
ヨルグが短く答えると、拠点の奥から、貴族のような衣装を纏ったカッシュが細剣を腰に下げて現れた。彼は鼻歌混じりに、最後の一人として列に加わる。
八名の業狩りが、重厚な扉を開け放つ。朝日が差し込み、死を孕んだような濃霧が拠点の中に流れ込んでくるような気がした。
出発してしばらくは、沈黙のまま街道を突き進んでいた。先頭を行くビクトリアの背中は、獲物を狙う狩人そのものだ。その後ろには、無口なレオ、酒臭いロイド、妖艶なエイダが続き、最後尾には気取ったカッシュが歩いている。
その列の半ば、ヨルグは重苦しい歩調で大地を踏みしめていた。七日間の訓練とは比較にならない死の予感が、全身の筋肉を強張らせている。
「……ヨルグ、もう少し力を抜いた方がいい。肩がこわばっているよ」
横に並んだカッシュが、細剣をステッキのように操りながら軽薄に笑った。
「それじゃ戦場へ向かう足取りじゃない。獲物を狩るのではなく、獲物に自ら首を差し出しに行くような歩き方だ」
「……余計なお世話だ」
ヨルグは剣を握り直す手に力を込めた。カッシュの言葉は、まるで今の自分の精神状態を見透かされているような不快感があった。
「失礼。元貴族の僕としては、淑女や名馬の扱いには長けているつもりだが、どうやら荒くれ者の扱いには疎いようでね」
カッシュは細剣の鞘で、ヨルグの大剣を軽く小突いた。わざとらしく気取った雰囲気をまとっているが、その動作には研ぎ澄まされた余裕があるように見える。
「君のような無骨な剣士は、どうしてこうも生存を急ぐのかな」
「生き残るために必死なだけだ」
「そう、その必死が一番の死の招待状さ」
カッシュの瞳は、皮肉を言いながらも、ヨルグの剣の重心や足さばきを冷徹に観察していた。それは、新入りがいつ倒れるかを予測する、狩人特有の残酷な視線だ。
「剣とは、己の命を守るための最後の慈悲である、と騎士団ではよく言われたよ。……君のその剣は、君自身を守るものなのか、それとも誰かを切り刻むための狂気なのか。この山狩りで、じっくり見せてもらうとしよう」
やがて草原を抜け、森が近づくにつれて周囲の霧は濃さを増していった。
木々が影を落とす森へと足を踏み入れた瞬間、八人の空気が一変する。
先頭のレオとランスが、ほぼ同時に足を止めた。
二人の古参が放つ張り詰めた空気が、周囲の会話を一瞬で凍りつかせる。
ビクトリアが不意に右手を挙げ、拳を握る。
――全員が、無言で散開する。
湿った空気の中に、獣特有の生臭い熱気と、獲物を囲い込もうとする明確な殺意が混じり合っている。
「……いるな」
ランスの低い呟きを合図に、業狩りたちは円陣のように間隔を広げ、森へ続く入り口を塞ぐように配置についた。
霧の向こう、木々の合間で、青白い眼光がいくつも揺らめく。
――彼らは、狩人たちが来るのを待ち構えていたのだ。
ビクトリアが周囲を見渡し、低い声で鋭く命じる。
「いいか、集中しろ。群れの中央に指揮官がいる。そいつが陣形を組ませている。……雑魚に気を取られれば、私たちが逆に飲み込まれる」
霧の奥から、低く地を這うような唸り声が響いた。
八名の狩人たちの視線が、一斉に霧の闇へと注がれる。死闘の幕が上がる、その直前の静寂だった。
しかし、その静寂はまもなく一発の獣の咆哮によって切り裂かれた。
森に渦巻く霧を震わせるような地鳴りとともに、木々の奥から黒色の影が躍り出る。通常の狼の倍はあろうかという巨躯。飢餓に歪んだ筋肉が、バネのように跳ねる。
「来たぞ……配置につけ!」
ビクトリアの鋭い号令とともに、八人の連携が火を吹いた。
先陣を切ったレオが、巨大な棍棒を振り下ろす。乾いた骨の砕ける音が響き、飛びかかってきた一頭がぐしゃりと潰れた。ロイドの両手斧が旋風となって荒れ狂い、獣の首を次々と刎ね飛ばす。
ヨルグは、円陣の南端を守る配置で大剣を構えた。
視界の端で、銀色の軌跡が走る。ランスの槍だ。霧を貫く閃光のような一撃が迫りくる獣の喉元を正確に貫き、そのまま勢いを殺さず二頭目を怯ませる。
「――あいつだ! あいつを見失うな!」
戦況のただ中で、ビクトリアの凍りつくような声が響いた。
「群れの中心に一回り大きい狼がいる。あれが指揮官だ。あいつの動向に注意しろ!」
その言葉の示す先、十二体はいるであろう狼の群れの中に一際巨大な影が見えた。
毛並みは赤黒く染まり、その瞳には獣とは思えない理知的な光が宿っている。他の狼たちが狩人たちを撹乱するために動き回る中、その個体だけは、静かに戦局全体を俯瞰するように立ち止まっていた。
「……なるほど、あいつが支配者かい」
隣でカッシュが細剣を優雅に振るい、ヨルグの死角を狙った獣の目を射抜く。だが、その表情からは先ほどまでの余裕が消えていた。
「どうやらアレが、僕たちの陣形を外側から食い破ろうとしている。……君、運が悪かったね。どうやら指揮官は君をご指名みたいだよ」
カッシュの言葉通りだった。狼の群れは、ただ力任せに襲ってくるのではない。一頭が突撃し、それに呼応した業狩りが剣を振るったその瞬間を狙って、アルファがヨルグの背後へ回り込もうとする。
戦線は徐々に歪み始めていた。エイダが放つ矢も、アルファの冷徹な誘導によって回避され、手応えを得られない。
「アッシュ、ランス! 私がアルファに肉薄する。二人で左右を固めろ!」
ビクトリアが二刀を交差させ、地を蹴る。
しかし、アルファはビクトリアの動きを予見していたかのように、低く唸って群れ全体を急旋回させた。
翻弄されるように狩人たちの円陣が崩れ、ヨルグが孤立する。
――来る。
アルファ・ウルフの青い瞳が、ヨルグを射抜いた。
群れをなした狼たちが一斉に、ヨルグの頸動脈を狙って跳躍する。
心臓が早鐘を打ち、大剣の重みが指先に食い込む。
ヨルグの渇望、アッシュの指導、ランスの視線――それら全てが、今この瞬間の「斬撃」へと集約される。
ヨルグは叫ぶことなく、ただ静かに重心を低くした。
空中で交差する獣の爪。死の臭いをまとった突風が、ヨルグの肌をかすめる。
――呼吸を止めるな。最短距離で、一直線に。
脳裏にアッシュの罵声と指導が蘇る。ヨルグはアルファが跳躍の頂点に達する刹那、大剣を握る腕にすべての神経を集中させた。力任せの振りではない。大剣の重量そのものを利用し、敵の運動エネルギーを殺すような鋭い踏み込み。
「――っ!」
ヨルグの体が低く沈み込み、大剣の刃が弧を描く。
先陣を切った狼の喉元を真っ二つに裂き、その勢いのまま、死骸を盾にするようにして迫りくるアルファ・ウルフの軌道へ剣を突き出した。
ガギィッ! という金属音にも似た凄まじい衝撃。
アルファ・ウルフの堅牢な前足が、ヨルグの剣身を叩き落とそうと激突する。しかし、ヨルグの踏み込みは崩れない。膝のバネが獣の突進力を受け流し、ヨルグはそのまま剣を逆手に返して、アルファの脇腹へ強烈な打撃を叩き込んだ。
「……ッあぁぁあああ!!」
重厚な剣身がアルファの脇腹にめり込む。獣の口から悲鳴ともつかぬ叫びが漏れ、巨躯が横へ吹き飛んだ。
戦場が一瞬、静まり返る。
支配者が地に伏した瞬間、連携していた狼たちの動きが目に見えて鈍った。
「今だ! 陣形を立て直せ!」
ランスの鋭い号令が響く。アッシュがその隙を見逃さず、長剣を煌めかせて孤立していたヨルグの背後をカバーした。
「おいヨルグ! いい面構えだ、まだ油断するなよ!」
アッシュの笑い声に呼応するように、レオが棍棒を振るって囲い込みを強化し、エイダがその隙を突いて獣たちの眼を次々と射抜いていく。
「お見事、というべきかな」
カッシュが背後でふっと微笑んだ。その細剣は、すでに次の獲物を仕留めるべく、優雅に弧を描いている。
「君のその剣……いや、その狂気かな。……だが、まだ終わりじゃない。獲物はまだ息がある」
土煙の中で、赤黒い毛並みのアルファが、先ほどの打撃で折れたであろう肋骨を鳴らしながらゆっくりと立ち上がる。その瞳には、先ほどまでの理知的な冷静さは消え、ただ剥き出しの飢えと、ヨルグに向けた個人的な殺意が滾っていた。
ヨルグは再び剣を構え直す。握りしめた柄からは、もはや恐怖の汗は消えていた。
霧が晴れ始める中、狩人と獣、互いの命を賭した死闘が、この殺伐とした森の深奥で始まろうとしていた。




