ep.7:灰の朝、群狼の円陣
朝霧が草原を白く覆う中、金属が空気を裂く鋭い音が響いた。
ヨルグが最後に振り抜いた大剣は、初日のような無様な膨らみを見せず、最短距離で一直線に宙を薙ぐ。剣身が空を切る風の音は、もはや湿った泥をえぐる鈍い音ではなく、研ぎ澄まされた刃の鳴動に近い。
荒い息を吐き、ヨルグは剣先を地面に突き立てて支えにする。以前ならその場で崩れ落ちていたはずだが、今は膝の踏ん張りが効いている。
「……六十二回目」
ヨルグが吐き捨てるように数えた瞬間、背後から足音が重なった。アッシュの重厚な歩みとは対照的な、静かで淀みのない歩調。
「……今日は調子がいいな、ヨルグ」
声をかけてきたのはランスだった。金髪を短く整え、常に感情を排した冷ややかな眼差しを持つ青年だ。背中には、その名――「ランス」の由来となった、手入れの行き届いた長槍が背負われている。
彼はアッシュより前からこの集団に身を置く古参の一人だ。本名や過去を一切語らず、ただひたすらに槍で獣を貫くことだけに長けた男。そのミステリアスな佇まいから「ランス」と呼ばれるようになった彼は、ここ数日、早朝の訓練に決まって顔を出していた。
ランスはアッシュの隣に腰を下ろすと、淡々とした表情でヨルグの動きを追っている。
「ランス、また来たのか。お前も物好きだな」
アッシュが呆れたように眉を寄せるが、ランスは涼しい顔で肩をすくめた。
「暇を持て余しているだけだ。……アッシュがどれほど非効率な教育をしているか、あるいはこの新入りがいつまでこの退屈な日常に耐えられるか。見物するのは悪くない」
相変わらずの皮肉屋だが、その瞳にはヨルグの成長を計算式でも解くような知的な好奇心が宿っている。アッシュもまた、ランスの毒のある物言いを、長く死線を共にしてきた相棒として完全に受け入れていた。
「……ま、そうだな。少なくとも、一週間前みたいに剣に引きずり回される間抜け面はしなくなった」
そう言ったランスの言葉に、アッシュはどこか自慢げにフンと鼻を鳴らし、ヨルグの訓練風景を静かに見つめた。アッシュがヨルグを彼らと同じ「こちら側」の住人として認めたという、無言の証明でもあった。
「……ありがとう、ランス。アッシュの指導のおかげだ」
ヨルグは剣を地面に預け、荒い息を整えながら答えた。ランスはわずかに口角を上げると、冷めた眼差しで荒野の向こうを指し示す。
「礼を言うのはまだ早い。……だが、動きは悪くない。今の振りなら、少なくとも自分を斬り落とすような真似は避けられるだろう」
ランスの短くも的確な評価に、アッシュは満足げに目を細めた。アッシュが立ち上がり、ヨルグの肩をポンと力強く叩く。その瞳に宿るのは、冷たくも温かい、兄弟のような情だ。
「……聞いたか。あのランスが褒めるなんて珍しいこともあるもんだ。おいヨルグ、今日は槍でも降るかもな?」
アッシュはそう言って、ヨルグの肩に手を乗せたままニヤリと笑って見せる。こうした軽口も、気安く触れてくるようになった関係も、この七日間で手にした確かな信頼の証だった。
「ああ。そうかもな」
ヨルグの短い返しに、三人の間に静かな連帯の空気が流れる。
荒野の霧は依然として濃いが、かつてのような不透明な不安は消えていた。ヨルグは剣を握り直し、改めて荒野の先を見据えた。
訓練場から拠点へと戻る足取りは、先ほどまでの重苦しさとは打って変わって、どこか締まった空気を纏っていた。しかし、拠点まであと数十メートルの距離に近づいた時、三人は同時に足を止めた。
普段なら獣の死臭とカビた土の匂いしかしないはずの場所から、怒号と悲鳴が入り混じった騒音が漏れ聞こえていたからだ。
「……何だ? この騒ぎは」
アッシュが眉をひそめ、剣の柄に手をかける。ランスもまた、背中の槍を僅かにずらし、警戒態勢に入った。ヨルグも無意識に大剣の重心を確かめ、三人は無言のまま拠点の重い扉を押し開いた。
薄暗い拠点の中は、平時の澱んだ空気とは異なる熱気を帯びていた。中央では、ボロ布のような服を纏った数名の村人が、すがりつくようにしてビクトリアに詰め寄っている。その中心にいた村人の老人が、ひときわ大きく、ひび割れた声で叫んだ。
「獣が出たんじゃ! 村人も何人か食われ……このままでは村が滅びてしまう! どうか、どうか助けてくれ!」
老人が絞り出すような声で訴える。ビクトリアは苛立ちを隠そうともせず、しかし獲物を値踏みするような冷徹な眼差しで、老人の汚れた服をなぞるように見つめた。
「……落ち着きな。どんな獣だ? 特徴を言え」
ビクトリアの問いに、老人は恐怖で震えながら言葉を継ぐ。
「……狼じゃ。それも、通常の倍はあろうかという巨体で……群れをなしておる。一匹だけでも恐ろしいというのに、あいつらは連携して村を囲い込んできたんじゃ……!」
「狼、か……面白い」
ビクトリアは短く呟くと、つまらなそうに鼻を鳴らした。だが、その緑色の瞳の奥では、何かを算段するように鋭い光が明滅している。
「助けてくれるのか……? このままでは、村の皆が喰い殺されてしまう……」
老人が再び膝を折らんばかりに頭を下げる。ビクトリアはふっと息を吐き、無造作に大きく頷いた。
「……ああ、任せろ。あんたらの村まで、その『獣』を狩りに行こうじゃないか」
その約束を聞き、村人たちは涙を流して安堵の声を上げた。彼らが感謝の言葉を繰り返しながら拠点から去っていくと、先ほどまでの騒がしさが嘘のような静寂が戻る。
ビクトリアは扉が閉まる音を確認すると、拠点の中心に座り込んでいたヨルグたちに向き直った。
「聞いたな。狼型だ。……ヨルグ、覚えてるかい? あんたが最初に狩った獣も狼型だ」
指すような視線にヨルグは息を呑みながら小さく頷く。
「狼型は群れで行動する。……以前、あんたが殺したのは、運良く群れからはぐれた『間抜け』だったようだな」
ビクトリアは壁に背を預け、冷めた目でヨルグを見据えた。眼帯の下に隠された右目が、まるでその決意の重さを測りにかけるかのように細められる。
「……前回の幸運は二度とない。次は、飢えた獣の群れが、あんたの喉元を直接狙ってくることになる」
ビクトリアは指先で短く宙を切り、ヨルグを指差した。
「ヨルグ。お前も来るか? ここで留守番をして、死体処理の仕方を学ぶという手もあるが……」
その問いかけが耳に届いた瞬間、ヨルグの心臓が大きく跳ねた。七日間の地獄のような訓練、朝霧の中での反復、アッシュやランスと交わした言葉のすべてが、この一瞬のためにあったかのように感じられた。
「……行かせてくれ!」
ヨルグの迷いのない即答に、ビクトリアは口角を吊り上げた。獰猛で、どこか満足げな笑みだった。
「……ふん、いい返事だ。その意気なら、すぐに死ぬこともないだろう」
ビクトリアは手近にあった地図を広げ、荒くテーブルを叩いた。その音に、それまで静観していたアッシュとランスも同時に立ち上がる。アッシュは愛剣の柄を締め、ランスは背後の槍を抜き放ち、その穂先を冷徹に一点へと向けた。
「全員で山狩りを行う。連中は連携を好む。ならばこちらも囲い込む。逃げ場をなくし、一匹残らず叩き潰すぞ」
ビクトリアはニヤリと不敵に笑い、言い放った。
「……野垂れ死にたい奴は、準備を整えて外に出ろ!」
彼女の皮肉混じりの号令が、澱んだ拠点に鋭く響き渡る。
一人の新入りが、正式に「業狩り」の狩場へと足を踏み入れる。ヨルグは、初めて自分から荒野の彼方を見つめた。その扉を開ける時が、今、来たのだ。




