ep.6:鉄の重み、錆びついた誓い
夜明け前の冷気が、鉄の錆びた臭いとともに部屋を満たしていた。
不意に、枕元で硬い音が鳴った。アッシュが蹴り飛ばしたのだろう、ヨルグの寝台の縁に何かがぶつかる音が響く。
「起きろ。……日が昇ってから動くような奴に、明日はないぞ」
アッシュの冷たい声が降ってくる。ヨルグは朦朧とする意識の中で、反射的に起き上がろうとして――右肩に激痛が走った。昨夜の手当てでは到底庇いきれない、深い傷の痛みだ。息を呑み、思わず顔をしかめて右腕を抱える。
「……ッ」
「怪我? あぁ、そうだな。あるな」
アッシュは痛みで硬直するヨルグを一瞥したが、慈悲の欠片も見せることはなかった。彼は己の武器を腰に吊るすと、ベッドに立てかけられていたヨルグの大剣を指先で軽く叩いた。
「だが、獣はお前の右肩が治るまで待ってくれるほどお人好しじゃない。死にたくないなら動け。その剣を担いで外へ出ろ」
アッシュは返事すら待たずに、背中を向けて部屋を出ていく。
ヨルグは額に滲む冷や汗を拭い、床に転がる大剣に手を伸ばした。重い。昨日よりも明らかに重く感じるのは、傷のせいか、それともこの新しい「日常」という重圧のせいか。
彼は奥歯を噛み締め、軋む右肩を無理やり動かして剣を拾い上げる。剣身が床と擦れる鈍い音が、暗い四人部屋に虚しく響いた。
「……わかった、行く」
ヨルグは掠れた声で自分に言い聞かせ、アッシュの背中を追う。傷口が焼けるように熱い。だが、ここで立ち止まれば、昨日選んだこの剣はまたあの倉庫に送られるだろう。
重すぎる鉄塊を肩に担ぎ、ヨルグはまだ夜の明けない通路へと踏み出した。アッシュの足音だけが、今の彼を導く唯一の道標だった。
「はっ、意外とタフじゃないか。……これで無理って言うなら追い出すところだったぜ」
アッシュは振り返りもせず、前を歩きながら軽口を叩く。その声には毒気こそあれど、突き放した響きは消え失せていた。おそらくヨルグが死なずに朝を迎えたこと、そして何より指示に従い剣を背負ってついてきたことに対して、最低限の「品定め」を終えたのだろう。
二人は拠点の重い扉を抜け、冷え切った朝の空気が漂うブラスの街へと出る。
道中、他の住人たちとすれ違うことはなかった。この街の住人は誰しもが自分の生き残りに必死で、朝から他人の不幸を覗き見るような暇は持ち合わせていない。
やがて、街を囲む崩れかけた石壁の裂け目から、吹きさらしの外へと出る。
視界が開け、霧に煙る荒涼とした草原が広がっていた。街の石錆びた臭いは消え、代わりに湿った土と、どこか生臭い野生の匂いが鼻を突く。
「ここが訓練場だ。……と言っても、ただの何もない草原だがな」
アッシュは広大な草の海を見回し、足を止めた。
昨夜の部屋よりも遥かに広いこの場所は、逃げ場がない分、より一層残酷な練習場に見えた。
「んじゃヨルグ。その剣、振ってみろ」
アッシュは腰の剣には手をかけず、ただ面白がるような、それでいて獲物を観察するような冷めた目でヨルグを見つめた。
「自分の背丈ほどの大きな剣、扱えなきゃただの鉄屑だ。……まずは、それが鉄屑じゃないってところを俺に見せろ」
ヨルグは一度深く息を吐き、右肩の痛みを意識の外へと追いやった。痛みは消えない。だが、今はそれよりもこの鉄塊を動かすことの方が遥かに重要だった。
彼は踏み込み、大剣の柄を両手で握りしめる。背負っていた時とは比べものにならないほどの重量が、重力に従って腕を下方へと引きずり込もうとする。右肩の古傷が悲鳴を上げ、鋭い火花のような痛みが背中を駆け抜けた。
「――っ!」
うめき声を殺し、ヨルグは全身の筋肉を強引に連動させる。腰を落とし、大剣の慣性を味方につけるようにして、荒っぽく剣身を宙へと薙いだ。
風を斬る音が、湿った草原の空気を切り裂く。
大剣は狙った軌道よりも大きく膨らみ、振り切った勢いでヨルグの体勢は大きく崩れ、剣が大地をえぐる。右肩が耐えきれずに震え、踏ん張った足元が一瞬空を踏みしめる。
格好などつかない。無様で、隙だらけの剣技だった。
だが、剣先が空を切り、鈍い音を立てて風を切り裂いたとき、ヨルグの瞳には確かな光が宿っていた。
「……ハァ、ハァ……どうだ」
荒い息を吐きながら、ヨルグはアッシュを睨みつける。
アッシュは腕を組んだまま、少しだけ目を細めた。嘲笑ではない。かといって賞賛でもない、冷徹な値踏みだ。
「……ああ、なるほどな」
アッシュはゆっくりと歩み寄ると、崩れた姿勢のまま固まっているヨルグの肩先を、コツリと指先で小突いた。
「当てることすら考えてねえな。……自分の腕ごと相手に叩きつけるつもりか」
アッシュの口元が、わずかに吊り上がる。
「でも、その無様さは、悪くない。生き残るための最低限の適性だ。……しっかし、そんな振り方じゃ、二回目には肩が持たないだろ。もっと効率よく、重さを利用して振る方法を覚えろ」
アッシュはヨルグの手から大剣をひったくるように奪い取ると、重さを一切感じさせない流麗な所作でそれを構えた。彼が持つと、あれほど厄介な鉄塊が、まるで身体の一部であるかのように静かに馴染む。
「いいか。剣を腕で動かすんじゃない。重心を動かせ」
アッシュが重心を深く沈めると同時に、剣が重力に引きずり出されるような軌道を描いて弧を描いた。腕の筋力に頼った荒っぽい斬撃ではない。彼の身体の捻りが起点となり、大剣はその自重を最大限に活用して、空気を鳴らして唸りを上げる。
振り抜いた剣が停止したとき、アッシュの姿勢は驚くほど安定していた。無駄な力は微塵も入っていない。
「剣を振るんじゃねえ。身体の重みを剣の先端に乗せ、転がすんだ」
アッシュは重い剣先を泥濘に突き刺したまま、ヨルグを静かに見据えた。ヨルグとそう歳も変わらないはずの彼の瞳には、幾多の死線を越え、生き残るためだけに研ぎ澄まされてきた「踊り方」の残滓が冷たく宿っている。
「まずは毎日、自分が満足できる一撃を叩き込めるようになるまで、ここで振り続けろ」
アッシュは剣をヨルグの足元へ放り投げると、軽く欠伸をしながら背を向けた。
「日が暮れる前に、その大剣に教わっておけ。……お前がこいつを従えるか、こいつにお前が磨り潰されるか。決めるのは、その腕と腹の底の覚悟だけだ」
アッシュは去る様子もなく、数歩離れた岩場に腰を下ろした。
彼は何を言うわけでも無く、どこか達観したような、それでいて年相応の優しさが滲む瞳でヨルグを静観している。口は悪く、指導は過酷だが、その視線の底には「どうにかして生き残らせよう」という、優しさを肌で感じ取れるような気がした。
ヨルグは泥に塗れた剣先を掴み、泥ごと引き抜いた。
ずっしりと沈み込む鉄の質量。それは単なる武器ではなく、この過酷な日常そのもののようにヨルグの腕を支配し、骨を軋ませる。肩の傷口が再び裂け、熱い血が服を濡らしていくのがわかった。
「……ッ、ぐっ……!」
痛みで視界が歪む。だが、ヨルグは剣を握る指先に、死に物狂いの力を込めた。ここで倒れれば、獣に食われるか、あるいは死に損ないとしてこの街から消えるだけだ。
「……やってやる。その重さごと、俺の一部にしてやる」
それは叫びではなく、呪詛に近い独り言だった。
ヨルグは泥をぬぐうこともせず、血に染まり始めた剣の柄を握り直す。その無様な、しかし必死な姿を見守るアッシュは、ふと口の端を緩め、からかうように言葉を投げた。
「そうだ、その顔だ。……死ぬ気でやれ、ヨルグ。お前がくたばる前に、俺がその鉄屑を使い物になるまで叩き直してやるからさ」
ぶっきらぼうな激励に、ヨルグは一度だけ鋭く息を吸い込む。呼吸を整え、重心を落とす。アッシュが示した「踊り方」をなぞるように、彼は軋む身体で再びその鉄塊を持ち上げた。
荒野に、重苦しい金属の唸りが響き始める。
ヨルグの地獄のような新しい日常は、こうして幕を開けた。




