ep.4:鉄の洗礼、業狩りの夜
どれほどの時間が経ったのか。意識が浮上したヨルグが最初に感じたのは、石材の冷たさと、肩から伝わる鈍い痛みだった。
視界の端に、椅子に腰掛けて獣の骨を削っている女の姿がある。彼女はヨルグが身じろぎしたのを見て、手を止めた。
「起きたか」
彼女の声は、先ほど彼を値踏みしていた時と変わらぬ、落ち着き払った響きだった。どこからか漂うの古い血と脂の臭いの中で、彼女は削っていた骨を放り出し、手元の布でナイフを拭いながら、興味深げにこちらを見下ろしている。
「あの獣を、一人で引きずり込んでくるとはね。血だらけの泥まみれで、死にそうな顔して……まあ、根性は認めよう。随分と泥臭い名刺だったよ」
彼女は立ち上がり、ヨルグのすぐそばに歩み寄ると、身を屈めて視線を合わせた。
「それで、ヨルグって言ったか。家は?」
唐突な問いだった。ヨルグは痛みで歪む表情のまま、彼女の片目を真っ直ぐに見据える。
「……帰る場所は、捨ててきた」
間髪入れずに返したその言葉に、嘘はなかった。かつて娼館で愛を乞うていた場所も、少年としての生も、森の中で獣を狩った瞬間にすべて焼き払った。
彼女はその答えを聞くと、ふっと小さく息を吐いた。納得したかのように、あるいは最初からそうだと分かっていたかのように、彼女は肩をすくめる。
「なるほどね。……アンタも、正道では生きられない性質ってヤツかい」
彼女は隠れていない片目を細め、どこか仲間を見るような、しかし冷徹な眼差しをヨルグに向けた。
「面白い。……それなら、私らがアンタの新しい家族になるかもしれないな」
彼女はそう言うと、ニヤリと獣のような笑みを浮かべた。
赤銅色の髪を無造作に一つに束ね、その隙間から覗く褐色の肌が、拠点の薄明かりの中で低く光る。彼女はわざとらしく自分の胸を叩き、緑色の瞳をぎらりと輝かせた。
「私の名はビクトリア。この街ブラスで、食い詰め者やはみ出し者――つまり、業狩りの連中を束ねている『長』だ」
彼女は立ち上がり、拠点全体を見渡すように両手を広げた。その動作に合わせて、彼女の右目を覆う眼帯がわずかに揺れる。
拠点には、影のある男や女たちがそれぞれの時間を過ごしており、彼らはヨルグを一瞥すると、すぐに興味を失ったかのように視線を外した。
「見ての通り、堅気が憧れるような場所じゃない。獣の汚物と血の臭いにまみれて、明日死ぬかもしれない連中ばかりが溜まっている」
ビクトリアは再びヨルグの正面に戻り、少しだけ声のトーンを落とした。
「家族といっても、温かいスープや優しい言葉が出るような場所じゃない。ここにいるのは、食い扶持を求めて互いに牙を剥き出し合う、少しばかり『狂った』連中だけだ。それでも、アンタが帰る場所を捨てたというのなら、ここは悪くない揺り籠になるはずだ」
彼女はヨルグが横たわる石床のすぐそばにしゃがみ込み、至近距離でその顔を覗き込んだ。緑色の瞳が、獲物の核心を射抜くように静かに揺らめく。
「どうだ、ヨルグ。それでもいいというなら、私がお前を飼ってやる」
その表情に慈しみはない。あるのは、新しく手に入れた興味深い「家族」が、このブラスの街でどれほど面白く壊れ、あるいは生き残るのかを見届けたいという、純粋な狩人の好奇心だけだった。
彼女はヨルグの反応を待つかのように沈黙を置いた後、唐突に問いを投げかけた。
「ところで、ヨルグ。アンタは『業狩り』が何をしている連中か、どこまで知っているんだい?」
ヨルグは痛みで熱を帯びた頭を少しだけ動かし、彼女の緑色の瞳を見つめ返す。
「獣を殺して、その死体を処分して金を稼いでいる。……それくらいだ」
ビクトリアは、その答えを耳にすると薄く笑った。
「正解だ。ただ、少し違うな」
彼女は一呼吸置き、ヨルグの首筋に漂う血の匂いを確かめるかのように、ゆっくりと言葉を継いだ。
「私たち業狩りは、殺すことで稼いでいる。獣も、人も、な」
拠点に漂う澱んだ空気が、彼女の言葉で一層冷ややかに張り詰めた。
ビクトリアは楽しげに喉を鳴らし、眼帯の下に隠された右目があるであろう場所を、手袋をした指先で軽く叩く。
彼女が語ったのは、単なる仕事の定義というよりも、この街で生きるための根源的な宣告だった。
「要は仕事の内容次第だ。傭兵みたいなもんさ。獣を殺せといわれりゃ殺すし、人を殺せといわれりゃ……」
ビクトリアが含みを持たせて言葉を切ると、ヨルグは痛む身体を横たえたまま、短く問いを返した。
「……殺す、のか」
その言葉に迷いはなかった。ヨルグの瞳に宿る、どこか乾いた静けさを確認したビクトリアは、満足したように目を細め、バチリと音を立ててヨルグの背中を叩いた。
「そういうことだ」
彼女は軽快に立ち上がり、そのまま建物の奥へと背を向ける。雑多な道具が積み上げられた闇の中へ、彼女は迷いのない足取りで進んでいった。
「おい、アッシュ! 新人の面倒を見てやんな!」
彼女の声が石造りの空間に響き渡る。ビクトリアは振り返ることもなく、そのまま奥の闇へとその身を溶け込ませて消えていった。
静寂が戻った拠点に、奥から重々しい足音が近づいてくる。
ヨルグは痛む肩を抱えながら、自分に割り当てられたであろう「新しい家族」の気配を、静かに待ち構えていた。
拠点内に響く重苦しい足音の主は、銀髪の男だった。
無造作に伸びた髪を鬱陶しそうにかき上げながら、男はヨルグを見下ろす。その顔には、隠しようのない不機嫌さが貼り付いていた。
「ったく、面倒な役回りを押し付けるなよ……」
彼はわざとらしく大きな溜め息をつくと、ヨルグのすぐそばに腰を下ろした。
手には使い古された砥石と、銀色の光を静かに放つ長剣が握られている。使い込まれてはいるものの、その刃には淀みがなく、手入れの行き届いた刀身は鏡のように周囲の影を映し出していた。
銀髪の男――アッシュは、ヨルグの肩の包帯を横目で一瞥すると、興味を失ったように視線を自分の剣へ戻した。
「おい、新入り。ビクトリアが何を言ったかは知らねえが、期待はするなよ。俺たちは家族ごっこをしに来たんじゃない。……この街で死なないための『術』を、嫌でも叩き込まれるだけだ」
彼は無愛想に言い放つと、鋭い音を立てて剣に砥石を当てた。冷徹なその態度は、先ほどまでのビクトリアの獰猛な期待とは対照的に、死の匂いが染み付いた日常の味を濃く漂わせていた。
「わかった」
ヨルグがぎこちなくそう答えると、アッシュはそれまでの冷徹さが嘘のように、肩を揺らして吹き出すように笑いだした。
「そんな緊張すんなって、取り合えず宜しくな」
そう言って立ち上がったアッシュが、無造作に手を差し出す。ヨルグはその手を取り、痛む肩をかばいながら力を込める。アッシュは見た目に反した力強さで、ヨルグをぐいと引き起こした。
立ち上がったヨルグの様子を確認すると、アッシュは剣を腰の鞘へ収め、面白がるような光を瞳に宿して問う。
「それで、お前武器は?」
アッシュは腕を組み、ヨルグの全身を舐めるように見回した。その視線が、ヨルグの腰元――手の中に握りしめられていた短剣で止まる。
無造作に打ちのめされ、刃の至る所が欠けた無骨な短剣。アッシュはそれを見ると、露骨にいぶかしげな表情を浮かべた。
「まさか、ソレか?」
ヨルグが短く、しかし力強く無言で頷くと、アッシュは深い溜息を吐きながら頭を抱えた。
「……マジかよ」
絞り出すような小さな呟きには、呆れと、隠しきれない困惑が混じっていた。アッシュはヨルグの短剣と、まだ痛々しく包帯の巻かれた肩を交互に見比べ、やがて苛立ち混じりに首を振った。
「ちょっと待ってろ」
ぶっきらぼうに言い捨てると、アッシュはヨルグの返答を待たずに背を向ける。その足取りは速く、ビクトリアが先ほど消えていった方向へと迷いのない歩調で消えていった。
「おい、ビクトリア! あいつの武器を用意してやってくれ、あんな鉄くずじゃすぐに死ぬぞ!」
暗闇の奥からアッシュの怒鳴り声が響いた。ヨルグが短剣を握り直して待っていると、少しの間の後、アッシュと共にビクトリアが戻ってくる。彼女はアッシュに引きずり出されたのか、心底面倒くさそうな顔をしていた。
「ったく……手間の掛かる奴だ。ついて来い。まずはアンタの相棒探しだ」
不機嫌そうに歩き出したビクトリアの背中を、アッシュとヨルグは黙って追う。
拠点の暗闇へ続く通路に、三人の足音が重なっていく。鉄屑のような日常から、ようやく次の段階へ足を踏み入れる音がした。




