ep.3:獣の喉元、泥濘の業
宵闇の帳が、わずかに残った薄明かりを消し去る。森は少年と獣だけを置き去りにしていた。
永遠にも思える刹那。引き延ばされた緊張は、獣の跳躍によってあっさりと破られた。
弾かれるように飛びかかる漆黒の影。襲い来る野生の殺気に対し、少年が突き出した錆びたナイフはあまりにも無力だった。
獣はその軌道を容易くかわし、少年の肩を深々と食い破る。
鈍い肉の千切れる音が頭蓋に響く。肩に牙が深く沈み、鮮血が獣の毛並みを汚した。
だが、少年は叫びもしない。痛みを噛み殺すことさえ放棄したかのように、彼は肩に食い込む牙の痛みを利用し、獣の首へと強引に自身の身体を引き寄せた。
牙に繋がれたままの少年の腕が、獣の喉元に回る。
——冷たい。
獣の体温が、少年の頬に伝わる。
唸り声に耳を貸さず、ただ機械的に、少年の右手が獣の頸の付け根へとナイフを突き立てた。
そこに感情も、ドラマもない。ただ、肉が裂ける痛みと、鉄が筋を断つ感触だけがあった。
少年はただ、自分の空っぽな腹の底に、獣の命が零れ落ちるのを感じていた。
ナイフは吸い込まれるように頸の付け根へと突き刺さったが、致命傷には程遠い。
獣は怒り狂ったように頭を振り回した。肩を貫いたままの牙が少年の肉を大きく抉り、少年は木の幹に叩きつけられる。視界が明滅する。肩を失ったかのような激痛が走るが、少年は獣の首から腕を離さない。
「――がッ、ぁ……!」
獣は前足で少年を地面に叩き伏せ、そのまま引き摺り回す。
少年は泥と落ち葉に顔を埋め、獣の膂力に翻弄されながらも、右手のナイフを何度も、何度も無様に突き立てた。
そこに狙いなどない。ただ皮膚を破り、滴る生命の熱を浴びたい一心で、錆びた鉄塊を振り下ろす。
やがて黒い毛皮が鮮血に染まり、森の空気が「傲慢」の腐敗臭から、鉄と体液の匂いへと塗り替えられていく。
獣が首元を狙い直そうと牙を剥くたび、少年はあえて負傷した肩を顎の間にねじ込んだ。
骨が軋む音が森に響く。少年は笑っていた。痛みで歪んだ表情のまま、獣の牙が自分の骨を砕く感触を愉しむように、さらにもう一撃、肋骨の隙間へとナイフを捻じ込む。
技巧も美学もない。あるのは、獣の肉を削ぎ、その生命の灯を自分の空っぽな身体へ無理やり注ぎ込もうとする、泥臭い執着だけだった。
獣が咆哮を上げる。しかしその声は、傲慢な支配者の威厳を失い、死を悟った獣の悲鳴に成り果てていた。
咆哮が森の木々を揺らし、やがて虚ろな気泡のように消えた。
巨躯は地面に崩れ落ち、熱を失いゆく肉塊として横たわる。
だが、少年は止まらなかった。
瞳から傲慢な光は消え、鼓動も停止している。すでに死体となって久しいにもかかわらず、少年はそれに気づかない。獣の首に跨がり、錆びついたナイフを何度も、何度も、無様に叩き込み続ける。
刺す。抜く。また刺す。
泥と獣の血が混ざり合い、黒く濁った泥濘となって指を伝う。皮が裂け、内臓がはみ出しても、少年はただ機械的に腕を動かした。肩の痛みも、失血による眩暈も、すべてを突き動かすための燃料に変えて。
殺したという自覚はない。ただ、刃を突き立てるたびに弾け飛ぶ血の感触こそが、自分の空っぽな身体を満たしてくれると信じ、その動きを繰り返す。
やがて――。
何度目かの刺突の後、少年の手が止まった。
獣の肉が、ピクリとも動かない。何度刺しても、温かな熱が自分の手に戻ってこない。
ふらりと身体を揺らし、少年は血に染まったナイフを落とした。獣の喉元には、無残に抉られた幾多もの穴だけが残されている。
獣の亡骸を見下ろした瞬間、今まで感じたことのない、凍りつくような静けさが少年の内側に落ちた。
そして次の瞬間、その静寂を突き破るように、腹の底から焼けつくような熱が込み上げてくる。
震える指先。血に汚れた掌。
少年は大きく息を吸い込んだ。それはこれまでどんな女を抱いた時にも味わえなかった、世界を塗り替えるほど強烈な達成感と、高揚感だった。
「……あ、あぁ……」
口から漏れたのは歓喜か、絶望か。
彼は血にまみれた手で自分の顔を覆い、狂ったように笑い続けた。
自分は今、確かにここにいる。世界を殺し、その一部を、自分の中に取り込んだのだ。
暫くして、少年はふらりと立ち上がった。肩の傷からは絶え間なく血液が滴り、地面を赤く染め上げる。
しかし、少年はそれを意に介さず獣の尾を無造作に鷲掴みにすると、そのまま泥の中へと引きずり出した。
数歩進むごとに、力尽きたように足がもつれる。
転倒するたびに泥と汚水が傷口に染み入り、意識が遠のくほどの激痛が走る。
だが、少年は止まらない。一度獣を放してしまえば、内側から溢れ出すこの高揚感が霧散してしまうのではないかという恐怖が、彼を泥の中から何度も立ち上がらせた。
森を抜け、石畳の街並みへと足を踏み入れる。
街の住人たちは、突如現れたその異様な影に硬直した。
血まみれの少年が、漆黒の毛並みを持つ巨大な獣を、死体を引き摺るようにして運んでいる。それが放つ禍々しいまでの死の残滓に、住人たちは悲鳴を上げ、あるいは忌まわしきものを見る目つきで道を開けた。
少年はそれらの視線に、一切反応を示さない。
かつて彼が求めていた「他者の関心」など、今の彼には砂粒ほどの価値もなかった。
ただ、獣の尾を握る指先の確かな感触と、自分の腹の底にある重厚な充足感だけが、ここが現実であると証明し続けていた。
やがて、目的の場所が視界に入る。
石造りの重厚な建物。この街で最も忌み嫌われ、同時に誰もがその門を叩く場所。
少年は、ずっしりと重い木製の扉に肩をぶつけ、それを乱暴に開け放った。
室内には湿った空気と、古い書物や保存食の匂いが立ち込めている。
人々の驚愕の視線が突き刺さる中、少年は引きずってきた獣の尾を床に放り捨てた。
乾いた音が、静まり返った室内に響く。
少年は肩の激痛に顔を歪めながらも、血に濡れた獣を見下ろし、かすれた声で告げた。
「……俺はヨルグ。獣を狩ってきた。買い取ってくれ」
重厚な木の扉がゆっくりと軋みを上げて閉じ、周囲のざわめきを遮断した。
石造りの拠点に漂うのは、長年蓄積された血と、焼けた獣脂の臭い。集まっていた業狩りたちが、泥と血にまみれた少年の姿に唖然として足を止める。
その奥から、足音を響かせて一人の女が現れた。
赤銅色の髪を無造作にかき上げ、片目に深い眼帯を嵌めた褐色の肌の女。彼女は、床に転がる漆黒の獣の亡骸と、それを持ち込んだ少年の姿を、値踏みするように冷ややかな視線で舐め回した。
「買い取る? そのみすぼらしい獣をかい?」
女の唇が、侮蔑を孕んだ弧を描く。彼女にとって、それはただの死に損なったゴミに過ぎないという嘲笑だった。
しかし、少年は無言で首を振った。
かつて娼館で愛を乞うていた、虚ろな目ではない。獣の魂を喰らい、その残滓を己の器に流し込んだ今、少年の瞳には、獲物を射抜くような強烈な意志が宿っていた。
「いや、買って欲しいのは俺だ」
少年――ヨルグの言葉が、拠点に静寂を運ぶ。
ただの物乞いか、狂人の戯言か。周囲が呆気にとられる中、女だけがその瞳の奥に、かつて自分が捨てたはずの「渇望」の色を見た。
彼女は、まるで面白い玩具を見つけた子供のような、嗜虐的で愉悦に満ちた笑みを浮かべる。
「ハハッ、こいつはいいね!」
女はヨルグのすぐ目の前まで歩み寄ると、血と泥にまみれたその頬を、遠慮なく指先でなぞった。
「いいよ、買ってやるよ。――そして飼ってやるよ」
その言葉と共に、ヨルグの視界が歪む。肩の激痛が臨界点を超え、意識が暗転しかける。
だが、その極限状態の中で、ヨルグは確かな充足感を感じていた。
ここは食卓だ。この女こそが、己の尽きることのない飢えを弄び、そして満たしてくれる飼い主なのだと。
ヨルグは倒れ込む直前、女の眼光を真っ向から見据えた。
少年は死に、今、ここで「ヨルグ」が産声を上げた。




