ep2:錆びる刃、剥がれる鎖
娼館の重い扉が背後で閉まり、喧騒と媚薬の匂いが遮断された。
外の夜気は冷たく、肺に吸い込む空気がやけに刺々しい。少年は袖で口元を拭い、先ほどまで身体にまとわりついていた他人の情欲の熱を振り払った。
向かう先はすでに決まっている。少年は僅かばかりに残った銅貨の枚数を数え、苦々しい気持ちで懐にしまう。
変わると思っていた。いや、変えられると思っていた。男になることで、今までの常識から逸脱することで、この飢えにも似た渇きが絶え間なく襲い来るくだらない人生からただ逃げ出したかった。
街の端、陽の光さえ届かぬような狭い路地に、少年の目的地の鍛冶はある。
並べられた武器はどれもひどく古びていた。
少年は迷わず、棚の隅に埃を被っていた一本のナイフを指差した。刃は欠け微かな錆が浮き、柄に巻かれた革は剥げかけている。
「これをくれ」
提示された銅貨は、彼がこれまで泥にまみれて稼いだ賃金のほとんど全てだった。店主はニヤリと笑い、少年の痩せた手から躊躇なく金を受け取った。
「まいど……返品はきかないぜ」
店主の言葉を背に店を出ると、懐は驚くほど軽くなった。
だが、奇妙なことに、心はまるで羽が生えたように浮き上がった。
これまで、少しずつ積み上げてきた硬貨の重みは、彼にとって「農夫の息子」という決して消えない呪いそのものだった。それが今、このひどく頼りない、錆びついた鉄の塊へと姿を変えた。
懐が軽くなるたび、少年を縛り付けていた鎖が、音を立ててちぎれていくのがわかった。
――ああ、ようやく、空っぽになれた。
少年は重たい足取りを捨て、音も立てずに歩き出した。
目指すは街の門の外。始まりの神アインスの祝福が届かず、終わりの神ツヴァイトが産み落とした獣が蠢くという郊外の森だ。
背後に残してきた裏路地の灯りが、遠ざかるにつれてぼやけていく。
少年は握りしめたナイフの冷たさを掌に刻み付けながら、澱んだ森の死臭を追い求めて、夜の闇へとその身を沈めていった。
森への道は驚くほどに何もなかった。まるで今までの少年の人生を象徴するかのように、暗闇の中でもただ平坦で、危険と呼ばれるものはそこにはない。
道端の石ころ一つ、草の揺れ一つ、そこに意味などなかった。ただ繰り返されるだけの時間。彼が必死に逃げ出したかった「農夫の息子」としての日常が、そのまま道になって続いているかのようだ。
しかし、森との境界に近づくにつれ、纏わりつくような深い不安感が少年の心でじわりと鎌首をもたげ始める。
それは恐怖とは違う。かつて娼館で嗅いだ、他人の業が腐敗した匂いに似ている。
境界の向こう側――そこにはアインスの定めた秩序など存在しない。
少年は境界で立ち止まり、錆びついたナイフの柄を握り直した。掌に食い込む粗末な革の感触だけが、ここが夢でも幻でもない、確かな現実であると告げている。
「ははっ……」
無意識に、喉の奥から乾いた笑いが漏れた。
踏み出す足先が小さく震え、背筋を冷たい汗が伝う。日常の理から切り離されるという切迫感は、恐怖などという生ぬるい言葉では言い表せなかった。むしろ、心臓を直接指先で弄ばれるような、ゾクゾクとするほどの高揚感が少年の内側を塗り潰していく。
十五年という、何も積み上がらなかったはずの生。その全てもが、今この瞬間の命のやり取りの前では、あまりに脆い紙屑に過ぎない。
――消えてしまえばいい。無為に帰せばいい。
積み重ねてきたはずの人生が剥がれ落ち、代わりに底知れぬ飢えと死の予感が流れ込んでくる。少年の空っぽの器は、その不吉な熱量を貪るように受け入れていた。
森に足を踏み入れてから数分、結果だけを言えば、何も起きてはいない。
だが、その静寂は不自然なほど濃密だった。じわりと鼻腔をくすぐる死の香りは、腐った土の匂いなどではなく、かつて誰かが抱いた「生への強烈な執着」が腐敗した異臭だ。
ガサリ――。
自らが立てたのではない物音が、少年の耳朶を打つ。
張り詰めた緊張の糸が、警鐘を鳴らすように鼓動を早めた。周囲を見渡しても、木々の影が揺れるばかりで姿は見えない。しかし、確かな気配がある。湿った獣の吐息が首筋を撫で、グルグルと少年の周囲を回る足音が、死の円環を描いていた。
少年はナイフを握る手に力を込めた。
見えない。だが、そこに「いる」。
この森の摂理を我が物顔で占有し、侵入者を値踏みする傲慢な視線。少年は薄く笑みを浮かべ、その気配が最も濃厚な闇の深淵へと、ゆっくりと視線を合わせる準備を始めた。
闇の濃度が揺らぎ、輪郭が浮かび上がる。
現れたのは、影そのものを切り取って獣の形に仕立て上げたような、漆黒の狼だった。
その存在を目にした瞬間、少年の身体は激しく震え始めた。
歯がカチリと音を立てて打ち鳴らされ、膝が折れそうになる。それは、骨の髄まで冷え切るような原始的な死への恐怖だった。
だが、その震えを内側から食い破るように、黒い悦びがせり上がってくる。
(――ああ、これだ)
娼館の狭い部屋で、どれほど身体を重ねても、どれほど他人の熱をなぞっても、決して満たされることのなかった渇き。
あの安っぽい香水と媚薬の匂いに覆われた、虚無のような生。
すべてが、目の前の獣が放つ圧倒的な「業」の前に、どうでもいい塵芥へと変わっていく。
少年は笑った。今度は、先ほどのような乾いた笑いではない。口角が裂けんばかりに歪み、視界が熱を帯びる。
全身を支配する恐怖と、それ以上に膨れ上がる充足感。
傲慢を体現したような、禍々しくも美しい漆黒の獣。こいつを傷つけ、その傲慢な魂を錆びついた刃で掻き回せば、自分の空っぽな腹の底も、ようやく何かで満たされるはずだ。
獣が低く唸る。その響きが、少年の鼓動と共鳴する。
少年は獣に向かって、踊るように足を踏み出した。もう、自分が何者かなどどうでもいい。
ただ、この獲物の喉元を切り裂くことだけが、今の少年のすべてだった。
「来いよ……!」
精いっぱいの虚勢を振りかざしながらナイフを獣に向ける。
それに呼応するかのように獣が低く構える。
その瞬間、周囲の空気が重く澱んだ。獣の周囲に立ち昇る揺らぎが、まるで毒のように周囲の景色を灰色に染め上げていく。獣はただそこにいるだけで、世界の理を自分の色に塗り替えようとしていた。
少年の心臓が、破裂せんばかりに激しく打ち鳴らされる。
恐怖。それも圧倒的な、蹂躙される側が抱く正当な恐怖。
だが、少年の口元には、その恐怖を裏切るような凶悪な笑みが浮かんでいた。今まで一度も感じたことのない、生命の奔流。
自分が確かにこの場所に存在し、そして今から「何か」を変えるのだという、残酷なまでの実感。
獣の筋肉が、鋼のように引き絞られる。
獲物を殺すという目的にのみ洗練された、無駄のない動き。
少年は、その死の跳躍を待ちわびるように、錆びついたナイフの切っ先をわずかに下げた。
世界が止まったかのような静寂。
次に動くのはどちらか。
獣が踏み込んだ。
地面が抉れ、木々が悲鳴を上げて軋む。
傲慢なる漆黒が、少年の視界を塗り潰さんとばかりに弾け飛んだ。




