ep1:泥の境界、砂の渇き
薄暗く汚れた室内を淡黄色の輝きが、ふわりと風にもてあそばれるように揺らめく。その輝きを生み出すろうそくの外炎が、吸い寄せられるように飛んできた小さな命を音を立てて焦がしていく。
ギッ! ギシィッ――
ろうそくの明りに照らされる室内に木材の擦れあう音が静かに響く。
虫の焦げるかすかな臭いは、部屋に淀む安物の白粉と、湿った寝具の埃っぽい匂いに容赦なく混ざり合っていった。
二人の間に、言葉はない。交わされるはずの挨拶も、感傷的な囁きも、この這いつくばるような沈黙の前には無意味だった。ただ、衣服が擦れ合う微かな衣擦れの音だけが、互いの物理的な距離だけが狭まっていくことを告げている。
少年は、差し出された女性の手に視線を落とした。都市の垢に塗れ、幾人もの男を迎え入れてきたであろうその指先は、ろうそくの光を浴びて、どこか冷ややかな艶を帯びている。少年のまだ未成熟で、強張った肩にその手が触れた。
躊躇うような優しさはそこにはない。だが、拒絶を許さない確実な重みがあった。
ギシッ、と再び床が鳴る。
引き寄せられるまま、少年は視線を上げた。向けられた女性の瞳は、濁った夜の底のように深く、少年の困惑も、浅い覚悟も、すべてをあらかじめ知っているかのように静まり返っている。その眼差しに射すくめられ、少年はただ、自身の心臓が早鐘を打つのを耳の奥で聞くしかなかった。
今日、少年は成人を迎えた。
生まれ落ちた時から決まっていた、泥に塗れて土を耕し、そのまま衰えて死んでいく農夫としての人生。そんな、あらかじめ決められていたような退屈な未来にどうしても耐えかねて、彼はこれまで必死に貯め込んできた硬貨を握りしめ、この都市の最果てへとやってきたのだ。
男になれば、この得体の知れない焦燥から解放されると信じて。
薄汚れた漆喰の壁に、二人の影が重なり合う。
炎の揺らめきに合わせて、引き伸ばされた黒い影が、まるでひとつの生き物のように壁の染みの上でのたうった。
女性の手が少年の細い首筋から、剥き出しになった鎖骨の窪みへと滑り落ちていく。その指先の容赦のない冷たさに、少年は小さく息を呑んだ。声にならない吐息が、二人のわずかな隙間に白く消えていく。
パチ、と再び外炎が小さな命を弾いた。
その微音を合図に、少年はただ、目の前の深い闇と、肌に伝わる生々しい熱の中に身を投じた。
――だが、どれほど肌を重ねようとも、期待していたような狂おしい歓喜は訪れなかった。
押し寄せる情欲は、少年の胸に空いた空洞を通り抜けていくだけだった。相手の体温を感じれば感じるほど、自分を包み込むのは満ち足りた感覚ではなく、底の知れない虚しさ。
金を払い、あらかじめ決められた人生の境界線を踏み越えたはずなのに、ここにいる自分は相変わらず何者でもないままだった。少年を苛んでいた焦燥は消えるどころか、喉を焼くような、より深い渇きへと姿を変えて、彼を静かに侵食していった。
――こんなものか。どこか冷めたような感情が胸に開いた穴からゴポリと音をたてて溢れ出す。先ほどまで感じて居た情欲も、どこかうすら寒い冗談のように引き延ばされていく。
「……やめだ」
少年の掠れた声が、狭い室内を打った。
動きを止めたのは、少年自身だった。重ねようとしていた体を強引に引き剥がし、女性の冷たい指先を振り払うようにして、湿った寝具の上に這い退く。
衣服が激しく擦れ合い、沈黙を引き裂くような床の軋みが、ギィ、と一度だけ高く鳴って途絶えた。
部屋には再び、ただの薄暗がりと、ろうそくの芯が爆ぜるかすかな音だけが戻ってくる。
唐突に拒絶された女性は、怒るでもなく、驚くでもなく、ただ乱れた衣服の間から露わになった白い肌をそのままに、静かに少年を見つめていた。その瞳は相変わらず、すべてをあらかじめ知っているかのように深く、そして酷く冷ややかだった。
少年は、荒い呼吸を繰り返しながら、自分の両手を見つめた。
汗に塗れた掌には、まだほんのりと、都市の女の生々しい熱が残っている。しかし、喉の奥をじりじりと焼くような渇きは、先ほどよりも確実に、その深度を増していた。
「金は、払う……」
ポン、と金貨の入った革袋を女に向かって放り投げる。
これまで泥にまみれ、爪を黒くしながら必死に貯め込んできた、彼の過去そのもののような重みを持った袋。それがベッドの端に転がる乾いた音を聞きながらも、少年はそれが女の手に受け取られたかどうかを確認することすら拒んだ。確認してしまえば、自分が何に敗北したのかを突きつけられるような気がしたからだ。
少年はただ、乱れた衣服を乱暴に整えていく。
ボタンを留める指先が、怒りと、情けなさと、自嘲のせいで微かに震えていた。
女は何も言わなかった。
投げ出された革袋を拾い上げる肉擦れの音も、少年を責めるような言葉も聞こえない。ただ、衣服の隙間から覗く白い肌と、濁った底のような瞳だけが、暗がりのなかでじっと少年の背中を凝視している。その沈黙が、今の少年にはどんな罵倒よりも鋭く突き刺さった。
首元まで衣服を押し込み、最後の手留めを終えたとき、少年はまだ自分が激しく肩で息をしていることに気づいた。
部屋を出るため、薄汚れた漆喰の壁へと一歩を踏み出す。
足元の床板が、ギシ、と場違いなほど間の抜けた音を立てた。
背後からは、依然としてろうそくの炎が小さな虫を焦がすパチ、パチという微音だけが聞こえている。
少年は振り返ることなく、ただひたすらに、己の喉を焦がす未知の渇きだけを道連れにして、部屋の扉へと手をかけた。
――この日以降、少年が家に帰ることは無かった。
薄汚れた娼館の扉を押し開けると、夜の冷気と、澱んだ都市の喧騒が容赦なく少年の顔を叩いた。見上げる空は狭く、煤煙に汚れて星一つ見えない。
自分が何を求めているのか、まだ分からない。情欲でも、金でも、あらかじめ用意された平穏でも満たされなかったこの胸の空洞に、一体何を注ぎ込めばいいのか、今の彼には知る由もなかった。
ただ、一つだけ確かなことがある。
あの土の匂いしかしない退屈な村へ戻っても、この渇きが癒えることは決してないということだ。
少年は、ポケットの中で空になった両手を強く握りしめた。
まだ見ぬ世界のどこかにあるはずの、自らの渇きの正体を知るために。
彼は都市の濁流へと、そしてその先へと続く、あてのない闇の中へ向かって、迷うことなく歩き出し始めた。
「路銀を稼ぐあては、ある……」
押し寄せる不安を吹き飛ばすようにつぶやくと、先ほどまでは無かった未来への期待感のようなものが押し寄せる。
そうだ、自分にはまだ手札がある。あらかじめ決められた人生を飛び出すために、密かに積み重ねてきた確かな「あて」が。
その思考が呼び水となったのか、喉を焼いていたはずの渇きが、いまや彼の胸を突き動かす奇妙な熱量へと変質していくのを感じていた。ポケットの中で空になった両手を、少年は強く握りしめた。
自らの渇きの正体を知るために。
少年は都市の濁流へと、そしてその先へと続く、あてのない闇の中へ向かって、力強く一歩を踏み出した。




