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SKY〜Harbor Nights〜   作者: RUI


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9/13

SKY-The Promise Keeper -

 



 ノイ・フェルン王国に春がやってきた。


 レオンと出会った舞踏会から1年半が過ぎていた。

 秋の夜会から冬を越し、春が来て、また春が巡った。


 季節が二度変わる間、エマは何度も手紙を書きかけては、ペンを置いた。


「お元気ですか」

 たった一行すら、重すぎた。

 返事が来ないことが怖かったから。


 舞踏会で出会った後、数ヶ月経って西方から、一度だけ手紙が届いた。

 西方基地の任務は1年であること。

 今度ノイフェルンに戻ってきたら、しばらく移動はないこと。

 

 彼はパイロットでも、陸軍の地上部隊でもなく、西方本部の内部の仕事をしていること。

 

 手紙には仕事の内容しか書いておらず、エマは返事を書くときに何を書いていいのか悩み、

 

 当たり障りのない事柄と身体に気をつけて、と書き添えるのが精一杯だった。


 手紙のやり取りは、その一度だけだった。


 この1年半、母は時折、社交界の話題を持ち出した。


 「エマ、あなたももうお相手を決めてもいい歳なのだから」

 

 そのたびにエマは曖昧に笑ってやり過ごしていた。

 

 母が求めているのは「良い結婚」だと分かっていたから。

 

 でも、エマ自身が何を求めているのかは、まだ分からなかった。


 あの日のことは、もう忘れられてるのだろうとエマは半分、夢だったのかもしれないと思うようにしていた。

 そうでないと、期待してしまった自分が恥ずかしかったから。

 

 そして、エマは、新しく専攻した大学の授業に追われる毎日を送っていた。


 *


 窓から差し込む陽射しが、教科書の白いページを眩しく照らしている。

 エマは二階の自室で、大学の課題に向かっていた。

 ペンを走らせる音だけが、静かな部屋に響く。

 

 庭からは、鳥の声。

 風に揺れる木の葉が、窓ガラスに影を落とす。


 その時、一階で呼び鈴が鳴った。

 

 エマは顔を上げた。来客の予定はなかったはずだ。

 階段を降りると、すでに母親であるスーザンが扉を開けていた。

 

 玄関ホールの大理石が、午後の光を反射している。


 エマは、階段の途中で足を止めた。

(……まさか……)


 扉の外に立っている男性は、軍服を着たレオンだった。

 紺色の軍服が、春の陽射しの中で輪郭をはっきりと見せている。

 肩章が、光を受けて鈍く光った。


 スーザンがエマに振り返り、嬉しそうな笑顔で呼んだ。

「エマ、お客様がいらしたわよ」


 エマの胸が鳴った。

(本当に……来てくれた)


「…サルマさん…」


 レオンは軍帽を取ると、帽子を胸元に置いて軽く会釈をする。

 その仕草が、やけに丁寧で、緊張しているようにも見えた。


「突然、すみません。少しお話しできますか」


 エマは自分の耳が熱を持って赤くなっていることに気づいた。

「…はい…」


 *


 扉を閉めると、二人は家の前の小さな玄関ポーチに出た。

 春の風が、庭の花を揺らしている。

 白いバラが、まだ蕾のまま枝に並んでいた。

 石畳の上に、レオンの影が長く伸びる。

 午後の陽射しが、二人の間に柔らかく降り注いでいた。


 エマは袖口を指先でつまんだ。

 落ち着かない癖みたいに。


「帰国が遅くなってしまって、申し訳ない」

 レオンはエマを見ながら謝った。

 その声は、手紙と同じように丁寧で、でも、今は声に温度があった。


 エマは、レオンを直視できなかったが、視線だけはレオンに向いていた。

「いえ、そんな…無事に帰って来れてよかった…」


 レオンは少し微笑むと、話を続けた。

「本当は、先に連絡すべきでした。……でも、まず確認したいことがあって」

「お誘いする前に、ご迷惑じゃないか先に聞いておきたかったんです」


 エマは、不思議そうに答える。

「…迷惑?何を確認されたかったんですか?」


 レオンの帽子を持つ手に力が入った。

 手袋をした指が、帽子の縁を少しだけ強く握る。


「…もし、もう他にお相手がいたら、失礼かと」


 エマは、初めてレオンに焦点を合わせた。

 風が、レオンの髪を少しだけ揺らす。

 真面目な顔で、真っ直ぐこちらを見ている。


(…この人…わざわざ、家に来て…それを確認するの?)


 エマが手を口元に当てて笑う。

 それを見てレオンは少し眉を寄せた。


「…何か変なことを言いましたか?」


 エマは笑いを抑え込み、軽く咳払いをした。

「…ごめんなさい。あの、すごく誠実な方だなって」


 息を整えてから続ける。

「私、大学の授業が忙しくて、他の方と親しくなる時間なんて全然なかったです」


 レオンは、その答えを聞くと、少しホッとしたような顔をした。

 肩の力が、ほんの少しだけ抜ける。


「そうですか、それは安心しました」

「では、改めて、次の休日に、お誘いしてもいいですか?」


「はい。大丈夫です」


 エマは嬉しかった。

 目の前のこの人は自分が思っている以上に、もしかしたら、自分以上に不器用で生真面目なのかもしれない。


 約束は、まだ生きていた。

 庭の白いバラが、風に揺れる。

 まだ咲いていないのに、もう春の匂いがした。


(夢じゃなかった)

 エマは、胸の奥でそっと呟いた。


 *


 扉を閉めて家の中へ入ると、玄関ホールの冷たい空気が肌に触れた。

 スーザンが待っていたみたいに、すぐにエマへ向き直った。

 大理石の床に、母の靴音が小さく響く。

 顔が、嬉しそうに輝いている。


「今の方、軍の方よね? どこで知り合ったの? それに……立派な軍服だったわね」


 矢継ぎ早の声。

 母は心から嬉しそうだった。

 娘に良い出会いがあったことを、純粋に喜んでいる。


 でも――。


 さっきまで胸の奥に残っていた温度が、急に指先からこぼれ落ちた気がした。


(お母様は……)


 エマは、母の言葉を聞きながら、小さく息を吐いた。


(あの人の、何を見ているんだろう)


 母が見たのは、軍服だった。

 階級章だった。

「立派な」という言葉の意味を、エマは理解していた。

 下級士官ではない、と母は瞬時に判断したのだ。


 アンは天才少女。

 屋敷に"軍の客"が増えた理由も、母が妹のことを誇らしげに話す様子も、エマは分かっている。

 母は悪気があるわけじゃない。

 ただ、娘の幸せを願っているだけ。


 でも――レオンの軍服を見た瞬間、母が「良い縁」と判断して喜んだことが、分かった。

 それが、少しだけ複雑だった。


「お母様、落ち着いて。……まだ何も知らない方なの」


 エマはそれだけ言うと、返事を待たずに階段へ向かった。

 階段の手すりが、冷たい。

 触れた指先から、さっきまでの温かさが消えていく。


(お母様は、私の幸せを願ってくれている)

(分かってる)


 エマは二階へ上がりながら、唇を噛んだ。

 窓の外では、さっきと同じ風が吹いている。

 庭の花が揺れている。


(でも――)


 エマは、自分の部屋の扉に手をかけた。


(私が知りたいのは、そこじゃない)


 あの人は、私の何を見ているんだろう。

 階級? 家柄?

 それとも――。


(私を、見てくれているのかな)


 芽生えたばかりの感情が、まだ形にならない。

 でも、確かめたかった。


(あの人が、本当に私という人間を見てくれているのか)


 それを、自分の目で確かめたいと思った。


 *


 数日後、レオンがエマを迎えに来た。

 その日は、朝から空が高く晴れていた。

 雲一つない青空に、春の陽射しが眩しい。


 扉の呼び鈴が鳴り、エマが開けると、レオンが立っている。


「……少し早かったですか?」


 軍服を着ていないレオンは、いつもより少し若く見えた。

 シャツにパンツというシンプルな服装なのに、どこか洗練されている。

 白いシャツが、陽の光を受けて柔らかく見えた。


「いえ、大丈夫です」


 エマは扉を閉め、レオンと並んで歩き始める。

 石畳の道を抜けると、街路樹の影が二人を包んだ。

 新緑の葉が、風に揺れて光を散らす。


 その日は天気が良く、柔らかい春の日差しに包まれていた。

 街は穏やかだった。

 遠くで子供の声がして、窓から料理の匂いが漂ってくる。

 日曜日の、ゆったりとした空気。


 隣を歩くレオンは、そんなエマの葛藤に気づいている様子もなく、ただ穏やかに歩いている。


(この人は……)

(私の何を見て、ここに来てくれたんだろう)


 エマは、それを確かめたかった。


 二人は街の中心にある公園まで来ると、何をするわけでもなく、ただ歩いた。

 公園の並木道は、緑のトンネルになっていた。

 木漏れ日が、石畳に模様を描いている。

 ベンチに座る老夫婦。

 芝生で遊ぶ子供たち。

 噴水の水音が、遠くで響いている。


「……手紙は、一度しか出せませんでした」

 レオンはエマの速度に合わせて、歩幅を小さくしながら言う。


「いえ……西方は激務だと聞いています」


 エマは、合わせてくれる歩幅が少しだけ嬉しかった。


 レオンは静かに言った。

「……そうですね。あそこはちゃんと"戦地"でした」

「人を、道具として見る場所です」


 エマは舞踏会の夜の会話を思い出す。

 人を道具として見る場所が嫌いだと、レオンは言っていた。


「……サルマさんの、嫌いな場所でしたか?」


 直球の問いに、レオンはわずかに頬を緩める。

「そうですね。居心地は良くありませんでした」


 それから、少し間を置いて。


「……早く、あなたに会いに来たいと、よく考えていました」


 エマの耳が赤くなる。

 目を逸らして、誤魔化すようにバッグの紐を握った。

 木漏れ日が、エマの頬を照らす。


 レオンは、その横顔をじっと見ていた。


「……そういうこと、さらっと言うんですね」


 レオンは淡々と返す。

「伝えておかないと、明日どうなっているか分からない仕事です」


 エマは、息を整えてから小さく言った。

「……サルマさんは、どうして軍に?……あの、あまりお好きではないように見えます…」


「そうですね……、大きな大義名分などはありません」

「ただ、私はこの国を美しい場所だと思っています」


 レオンは日差しを受けて少し眩しそうに目を細める。


「自分の好きな場所くらいは、守れるようにしておきたいと思いました」


 その答えを聞いた瞬間、エマの胸の奥で何かが温かくなった。


(ああ……)

(……暖かい人なんだ)


 レオンはエマの方を見ながらちょっと恥ずかしそうに微笑んだ。

「今日は、あなたの話を聞きに来たのにな」


 それから、レオンが足を止め、エマの前に立つ。

 噴水の水音が、少し遠くなる。

 木々の葉が、風に揺れる音だけが聞こえた。


「レオン。と呼んでください」


 エマが見上げると、視線が重なった。

 舞踏会のときと同じ、まっすぐなグリーンの瞳。

 木漏れ日が、その瞳を透かして見せる。


「貴女に、会いたかったです。本当に」


 その声は、丁寧で、押し付けがましさがない。


(――この人は"待ってくれる人"だ)


 そして――。


(私に、会いに来てくれた)


 その確信が、胸の奥に静かに広がった。


「大学では、何を専攻しているんですか?」


 ただの問いかけなのに、急かす響きはなかった。


 エマは、さっきよりも半歩近づいて、ゆっくりと自分の話を始めた。


「歴史を、専攻しています」


「歴史ですか」

 レオンの目が、わずかに輝いた。

「どの時代に興味が?」


「戦前の……平和だった頃の文化史です」

 エマは少し恥ずかしそうに続けた。

「軍の方に言うのも変ですけど……戦争じゃない時代の、人々の暮らしとか」


 レオンは真剣な顔で頷いた。

「いえ、素晴らしいと思います」

「戦うのは、そういう時代を守るためですから」


 エマの胸が、また温かくなった。


 大学のこと。

 授業のこと。

 難しいと感じた課題のこと。

 友人が少ないこと。


 話しながら、エマは気づいた。


(この人、話しやすいな)


 レオンは頷くだけで、遮らない。

 急かさない。

 評価もしない。

 ただ、聞いている。

 エマの話を。

 エマのことを。


 母も父も、エマを愛している。

 それは分かっている。


 でも――。


 まっすぐに、エマだけを見てくれる人は、今までいなかった。


(ああ……)


 エマの胸が、温かくなる。

 風が、二人の間を通り抜ける。

 春の匂いを運んで、また去っていく。


(私、この人のこと……)


 自分でも驚くほど、自然にその言葉が胸に落ちた。


(好きなんだ)


 1年半、待っていた。

 夢じゃないかと思っていた。

 でも、今、隣にいる。

 この気持ちは、本物だった。


 エマは、その気持ちを胸に抱きしめた。


 *


 公園を出る頃には、空の色が少しだけ柔らかくなっていた。

 日差しは傾き、舗道に落ちる影が長くなる。

 建物の壁が、夕陽を受けてオレンジ色に染まり始めていた。


「……もう、こんな時間ですね」

 レオンが時計を見るでもなく言う。


 エマは頷いた。

「ええ。思ったより、歩いていました」


 二人は並んで、家の方角へ向かう。

 街は、夕暮れの色に変わり始めていた。

 窓から漏れる灯りが、一つ、また一つと増えていく。


 話題は大学の授業のこと、街の変わらない景色のこと。

 深い話はしないのに、沈黙も重くならなかった。


 石畳の道が、夕陽を受けて赤く見える。

 二人の影が、長く長く伸びている。


 家の門が見えたところで、エマが足を緩める。

 門の向こうに、白い屋敷が見える。

 窓にはもう灯りが点っていた。


「ここまでで大丈夫です」


 レオンは一拍だけ考えてから、穏やかに首を振った。

「……家まで送らせてください。今日は、そのつもりで来ました」


 断る理由が、思いつかなかった。

 エマは小さく笑って、歩き出す。


 門の前に着くと、レオンは立ち止まった。

 距離は近いのに、触れない。

 門の鉄格子が、夕陽を受けて影を作っている。

 庭の白いバラが、この数日で少しだけ開いていた。


「今日は、ありがとうございました」

「こちらこそ……」


 言葉が途切れる。

 けれど、気まずさはない。


 レオンは静かに続けた。

「また、会えますか」


 疑問形なのに、揺れがない。


 エマは少し驚いて、それから頷いた。

「……はい」


 その返事だけで、十分だったみたいに、レオンは小さく微笑んだ。


 エマがふと思って言う。

「……今日は、"散歩"でしたよね?」


 レオンは真面目な顔で頷いた。

「ええ。とても良い散歩でした」


 それから、少しだけ言葉を探すように間を置いて。

 夕陽が、レオンの顔を横から照らす。

 その表情が、いつもより少しだけ柔らかく見えた。


「……エマさん」

「はい」


「ご両親に、ご挨拶をさせていただけますか」


 エマは一瞬、言葉の意味が分からなかった。

 風が止まった。

 庭の花も、影も、すべてが静止したみたいに感じた。


「……え?」


 レオンは、いつもの穏やかな声で続ける。

「今日中に、お伝えするべきだと思いまして」


 エマの心臓が跳ねる。


(今日? 今日、ご挨拶?)


 早い…けど…

 まだ二度目のデート。

 まだ、レオンのことを知り始めたばかりだけど…


 でも――。


(断りたくない)


 エマは、自分の気持ちに正直になった。

 なぜなら、エマ自身が望んでいるから。

 この人と、一緒にいたいから。


(お母様は、きっと喜ぶだろう)

(お父様も、安心するだろう)


 でも――。


(それが理由じゃない)


 私が、この人と一緒にいたいから。


「……今日、ですか?」

「はい。もし、ご迷惑でなければ」


 エマは、自分の顔が熱くなるのを感じた。

 夕陽が、二人を包む。

 門の影が、石畳に長く伸びている。


(まだ、結婚するわけじゃないし……)


 エマは、小さく息を吐いた。


「……わかりました」


 エマは扉に手をかけて、ゆっくりと開けた。


(私が決めた)

(私が、この人を選んだ)


 その決意が、胸の奥で静かに固まった。


 *


 玄関に入ると、家の中は外よりも少し暗かった。

 シャンデリアの灯りが、大理石の床に反射している。

 廊下の奥から、夕食の支度をする音が聞こえた。


 母が先に気づいたように顔を上げた。

 居間から出てきた母の手には、刺繍の途中の布が握られていた。


 父も新聞から視線を外し、来客を見る目になる。

 読みかけの新聞を、ゆっくりと膝に置いた。


 レオンはいつもの穏やかな声で言った。

「突然すみません。少しだけ、お時間をいただけますか」


「ええ……どうぞ」

 母が言い、父が黙って頷く。


 エマは横に立ったまま、指先が少しだけ震えている。


(お母様は、きっと喜ぶ)

(お父様も、安心する)


 でも――。


(それが理由じゃない)


 私が、この人を選んだ。

 私が、この人と一緒にいたいと思った。

 それが、全てだから。


 レオンは迷わず父の前に立つ。

 姿勢も言葉も、余計な溜めがない。


 玄関ホールに、静寂が降りる。

 シャンデリアの灯りだけが、揺れもせずそこにあった。


「エマさんと結婚したいと考えています。ご許可をいただけますか」


 ――間。


 父が瞬きをした。

 新聞を持つ手が、止まる。


「……え?」


 母も同じタイミングで声が漏れる。

 刺繍の布を、取り落としそうになった。


「……え?」


 エマも遅れず、息を飲んだまま口だけ動く。


「……え?」


 三人、同時に。


 誰も怒らない。

 誰も止めない。

 ただ、処理が追いついていない。


 シャンデリアの灯りが、静かに揺れる。

 廊下の奥で、鍋の音がした。


 エマだけが一拍遅れて、顔に出た。


(え、今日"散歩"じゃなかった?)

(お付き合いの挨拶じゃないの?)


 でも――。


 レオンの声が、父に向けられている。


 父はようやく喉を鳴らして、言葉を探す。

「……えっと、君は……」


「レオン・サルマです」


 レオンは淡々と答えた。

 名乗り直すというより、確認するみたいに。


 母はエマを見る。

 エマは母を見る。

 父はその往復を眺めたまま固まっている。


 レオンは首を傾げもしない。

 笑いもしない。

 ただ、穏やかに続ける。


「改めて申し上げます。エマさんと結婚させていただきたいと思っています」

「階級は少佐。西方本部での任務を終え、今後はノイフェルンでの勤務が続く予定です」

「エマさんを、幸せにします」


 その言葉を聞いた瞬間、エマの中で何かが動いた。


(ああ、本当なんだ)

(この人は、本気なんだ)


 1年半、待っていた。

 手紙は一度だけ。

 でも、レオンは覚えていた。

 約束を。

 私のことを。


(私も……)


 エマは、自分の手を握りしめた。


(私も、この人なら)


 その言葉が、玄関ホールに静かに響く。


 父は、口を開いて、閉じて、もう一度開いた。

 新聞を、完全に膝に置いた。


「……あの、君たちは、いつから……」


 エマが小さく声を出す。

「……お父様、1年半前の舞踏会で、お会いしました。

 ……私…私も同じ気持ちです」


 母が目を見開く。

 刺繍の布を、胸に抱きしめた。


「あの時の……」


 レオンは頷いた。

「はい。その節は、ありがとうございました」


 父は、娘と、レオンと、妻を順番に見て、それから深く息を吐いた。


「……サルマさん、と言ったね」

「はい」

「娘は……大学を続けたいと言っていたが」


 レオンは即答した。

「もちろん、続けていただきます。エマさんの学びを止める理由はありません」


 エマは、その言葉に胸が熱くなった。


(ああ、この人は……)

(本当に、私を見てくれている)


 父はレオンの目を見つめた。

 その目は、厳しくはなかったが、真剣だった。


「……君の、ご家族は?」


「父は軍の技術顧問をしていました。すでに退役しています」

「母は健在です。兄が一人、商社に勤めています」


「収入は?」


「少佐の俸給です。決して裕福ではありませんが、エマさんと二人、不自由なく暮らせる程度には」


 父は静かに頷いた。


「……そうか」


 それから、もう一度エマを見る。


「エマ、お前は……本当にいいのか?」


 エマは、父の目をまっすぐ見た。

 その視線に、迷いはなかった。


「はい。お父様」


 母が父の腕を掴む。

「あなた……」


 父は肩をすくめた。

「スーザン、エマはもう子供じゃない」


 それから、レオンを見る。


「……娘を、頼みます」


 レオンは深く頷いた。

 背筋が、さらに伸びる。


「はい。必ず」


 エマは、横で聞きながら、目の奥が熱くなるのを感じた。


(私が、選んだ)

(母のためでも、父のためでもなく)

(私が、この人を選んだ)


 シャンデリアの灯りが、揺れている。

 玄関ホールの大理石が、冷たい光を反射している。


 でも、エマの胸は温かかった。


 窓の外では、夕陽が沈みかけていた。

 空が、オレンジから紫へと変わっていく。


 目の奥が、じんわりと熱くなった。


 *


 宇宙コロニー。

 薄い照明の下、アンは端末を開いた。

 人工的な光が、部屋を均一に照らしている。

 窓の外には、星と、地球の青い影。


 一行だけのメール。


「お姉様が、結婚するそうです」


 アンは一瞬フリーズした。

 まばたきが止まり、指も止まる。

 端末の画面が、青白い光を放っている。


 次の瞬間。


 椅子から立ち上がる。

 背筋が伸びる。

 声量が、いきなり最大になる。


「はあーーー!?」


 その声が、コロニーの静かな廊下に響き渡った。

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