SKY -Missing -
セレスタ共和国ーーー春
春の陽射しが、墓地の石畳を優しく照らしていた。
風が木々を揺らし、葉が擦れる音が静かに響く。遠くで鳥の鳴き声が聞こえる。
ミラ・アステリアは、娘の墓の前に立っていた。
白い花束を手に、膝を折って墓石の前に置く。関節が軋む音が小さく聞こえた。
七十代の身体は、もう若い頃のようには動かない。
墓石には、シンプルな文字が刻まれている。
ルナ・アステリア
享年20歳
ミラは、墓石に手を添えた。冷たい石の感触が、掌に伝わる。
「ルナ……また来たわよ」
声が、風に溶けていく。
「もう二十年以上経つのね……」
ミラは目を閉じた。娘の笑顔が、まぶたの裏に浮かぶ。優しく、朗らかで、いつも誰かを気遣っていた娘。
「財団は順調よ。あなたが生きていたら、きっと喜んでくれたと思うわ」
風が、ミラの白い髪を優しく撫でた。
その時、背後で足音が聞こえた。
ミラは振り向く。
一人の男性が、墓地の入口から歩いてきた。四十代半ば。スーツを着て、白い花束を手に持っている。
顔には疲れが刻まれているが、その目は穏やかだった。
男性は、ミラに気づいて立ち止まった。
そして、小さく頭を下げる。
「……ミラ様」
ミラは、その声に記憶を辿った。
「あなたは……」
男性は、静かに微笑んだ。
「アーロン・ウィルシュです。ご無沙汰しております」
ミラの目が、少しだけ見開かれた。
「アーロン……」
二十年。
あの時、娘の恋人だった青年は、今、中年の男性になっていた。
アーロンは、ミラの隣に並んで、墓石の前に花束を置いた。
「毎年、この日に来ているんです」
ミラは頷いた。
「……そう」
二人は、しばらく無言で墓石を見つめていた。
風が吹き抜け、花びらが一枚、舞い落ちる。
ミラが、静かに口を開いた。
「アーロン……あなた、今は西方艦隊にいると聞いたけど……結婚は?」
アーロンは、少しだけ驚いた顔をした。
「いえ、独身です」
「……そう」
ミラの胸が、きゅっと痛んだ。
アーロンは、墓石を見つめたまま答えた。
「彼女が、僕の全てでした」
ミラは、何も言えなくなった。
アーロンは続ける。
「他の誰かと、家庭を築くことは……できませんでした」
「二十年以上も……?」
「はい」
ミラの目が、潤んだ。
アーロンは、静かに微笑む。
「でも、後悔はしていません。彼女と出会えて、良かった。彼女を愛せて、良かった」
「……アーロン」
「ミラ様も、お元気そうで。財団の活動、いつも拝見しています」
ミラは頷いた。
「ありがとう」
アーロンは、墓石に手を置き、愛おしそうに優しく撫でた。
そして、花束を置いたまま、墓石の前でしばらく指を止めていた。
春の風が、墓地の木々を揺らす。葉が擦れて、かさり、かさりと乾いた音が落ちる。遠くで鳥が鳴いた。
ミラ・アステリアは、横顔だけを彼に向けた。
言葉を探すように、唇がわずかに動く。けれど、声は出ない。
アーロン・ウィルシュは、静かに息を吸った。
スーツの袖口が、ほんの少しだけ震える。指先で、墓石の縁をなぞる仕草が——なぜか「確かめる」みたいに慎重だった。
「……ミラ様」
呼びかける声は小さく、風に持っていかれそうな温度だった。
ミラは、ゆっくりと頷く。目は墓石から離さない。
アーロンは一度、喉を鳴らした。
言いたい言葉があるのに、飲み込む癖が染みついているみたいに。
「私は、毎年……“ちゃんと話そう”と思って来るんです」
彼は、かすかに笑った。笑顔というより、顔の筋肉の置き場所を思い出すための表情だった。
「でも、来るたびに……言えることが減ります」
風が強くなり、花びらが一枚、墓石の上を滑った。
ミラは反射的に手を伸ばし、その花びらを押さえる。指先が冷たい石に触れて、微かに震えた。
「減る、というのは……」
ミラの声がやっと出た。掠れているのに、芯だけは折れていない。
アーロンは、目を伏せたまま頷いた。
「謝る言葉も、約束も、“守れなかった”って言葉も……全部、もう、彼女の前では古い気がして」
少し間を置いて、彼は墓石を見つめ直す。
そこには、変わらない名前と、変わらない年齢が刻まれている。
「自分だけが歳を取って、……彼女だけが、ずっと二十歳のままです」
その瞬間、ミラの胸の奥がきゅっと縮む。
老いた身体が、痛みを覚える時みたいに、心が遅れて反応する。
ミラは、息を吐いた。
吐いた息が白くならない季節なのに、なぜか冷たい。
「……あなたが、そんなふうに言うのは」
ミラは一度言葉を切り、視線だけをアーロンに向けた。
彼はまっすぐ見返さない。墓石の字に目を合わせたまま、背筋だけが無駄に正しい。
「——ルナが、あなたを置いていったみたいに聞こえるから、嫌だわ」
言い切ったあと、ミラ自身が驚いたみたいに瞬きをした。
きつい言い方になった自覚が、遅れて頬に熱を灯す。
アーロンは、やっと顔を上げた。
驚きと、少しの痛みと、そして——妙な安堵が混ざった目をしている。
「……すみません」
謝罪の言葉は、反射みたいだった。
ミラは首を振る。白い髪が、風で揺れて頬にかかった。
「謝らなくていい。……そういう言い方をしたのは私」
ミラは、墓石に手を置いたまま、小さく付け足す。
「でもね。置いていったんじゃない。……奪われたのよ」
“奪われた”の一語が、墓地の空気を少しだけ重くする。
鳥の声が遠ざかり、風の音だけが残った。
アーロンは、唇を噛んだ。
そして、噛んだまま、ゆっくりと頷く。
「……はい。分かっています」
視線が落ちる。
指先が、墓石の上をもう一度だけ撫でる。今度は“確かめる”じゃなく、“別れの合図”みたいに。
「だからこそ、私は……」
言いかけて、止める。
言葉が形になる前に、喉の奥で崩れてしまう。
ミラは、その沈黙を急かさなかった。
急かしたら、二十年以上積もったものが、崩れ落ちてしまいそうだったから。
アーロンは、最後に一度だけ、墓石に向かって息を吐く。
それは祈りにも、報告にも聞こえない。ただの「今日」という一日の終わりみたいだった。
「……それでは、失礼します」
言葉と一緒に、彼は小さく頭を下げる。
動作が丁寧すぎて、逆に痛い。礼儀で痛みを包んでいるみたいで。
ミラは頷いた。
その頷きが、許しなのか、見送りなのか、自分でも分からないまま。
「ええ。……また」
“また”と言ってしまったことに、ミラは内心で息を詰めた。
アーロンの肩が、ほんのわずかに揺れる。振り向かずに、彼は歩き出す。
石畳に、靴音がひとつずつ落ちていく。
その音は、遠ざかるほどに静かで、最後には風の中に溶けた。
ミラは、その後ろ姿をじっと見つめていた。
疲れた背中。でも、まっすぐに歩いていく足取り。
その後ろ姿が、誰かと重なった。
(……古賀ケイ)
ARCLINE統領。
彼もまた、妻を失って、独身のまま。
アーロンの後ろ姿が、古賀ケイと重なった。
二人とも、愛する人を失って——
それでも、生き続けている。
ミラは、墓石に手を置き、そっと目を閉じた。
(残された者からも、未来を奪っていくのが戦争…)
(時間は流れていくのに、ルナとの時間は、止まったまま)
風が、また吹き抜けた。
*
――二十三年前
大学のキャンパスは、春の陽気に包まれていた。
桜が満開で、学生たちが笑いながら歩いている。芝生の上では、グループが輪になって話し込んでいる。空気は柔らかく、未来が手の届くところにあるような、そんな空気だった。
ルナ・アステリアは、図書館の前のベンチに座っていた。
法学部の教科書を広げて、ノートに何かを書き込んでいる。肩まで伸ばした茶色の髪が、風に揺れる。
「ルナ!」
声がして、ルナは顔を上げた。
アーロン・ウィルシュが、手を振りながら走ってくる。明るい笑顔。人当たりの良さが、表情に溢れている。
「アーロン! 遅い!」
「ごめんごめん! 教授に捕まっちゃって」
アーロンは、ルナの隣に座った。
「何勉強してたの?」
「憲法。来週テストだから」
「真面目だなぁ」
ルナは笑った。
「あなたも勉強しなさいよ」
「してるって。俺だって、一応経済学専攻だからね」
二人は笑い合った。
二人が付き合い始めたのは、大学に入ってからすぐの事だった。
明るく人当たりのいいアーロンに、ルナはすぐに恋に落ちた。
卒業後も首都にある会社に就職して、ずっとアーロンのそばにいるのだと、
戦争が始まり、世界情勢が不安定な中であっても、自分の目の前の世界には関係しないと、
ルナは信じていた。
けれど、世界はそれを許さなかった。
*
――二十三年前・秋
大学のキャンパスは、秋の冷たい風に包まれていた。
ルナは、図書館の前のベンチに座っていた。
でも、今日は教科書を開いていない。ただ、じっと空を見上げている。
アーロンが、ゆっくりと歩いてきた。
足元を銀杏並木から落ちた、黄色い落ち葉が埋め尽くしている。
「ルナ」
ルナは振り向いた。
「アーロン……」
アーロンは、ゆっくりとルナの隣に腰を下ろす。
しばらく、二人は無言だった。
アーロンが、静かに口を開いた。
「……徴兵令が来た」
ルナの身体が、小さく震えた。
「嘘……いつ?」
「来月」
ルナは、アーロンの手を握った。
「私の母に頼めば……アステリア財閥の力で、あなたを徴兵から逃れさせることができるかもしれない」
アーロンは首を振った。
「それは、できない」
「なんで!?」
「俺だけ逃げるわけにはいかない」
ルナの目から、涙が溢れた。
「でも……!」
「ルナ」
アーロンは、ルナの頬に手を添えた。
「俺には、俺の正義がある。みんなが戦っているのに、自分だけ逃げるなんて、できない」
「正義って……! そんなもののために、あなたは……!」
「ルナ、泣かないで」
アーロンは、優しくルナを抱きしめた。
「必ず帰ってくるから」
「……約束して」
「約束する」
ルナは、アーロンの胸で泣いた。
秋の風が、二人を包んでいた。
*
――二十三年前・冬
駅のホームは、出征する兵士たちと見送る家族で溢れていた。
ルナとアーロンは、人混みの中で向き合っていた。
アーロンは軍服を着ている。まだ着慣れていない軍服が、彼を少しだけ遠い存在に見せた。
「ルナ」
アーロンは、ルナの手を握った。
「お前は、ここにいてくれ」
「……アーロン」
「安全な場所で、俺を待っていてくれ」
ルナの目から、また涙が溢れた。
「戦争が終わったら、必ず帰ってくる」
「……本当に?」
「本当だ。約束する」
ルナは頷いた。
「……分かった。待ってる」
アーロンは、ルナを抱きしめた。
「愛してる」
「私も……愛してる」
汽笛が鳴った。
アーロンは、ルナから離れて、列車に乗り込んだ。
窓から、アーロンが手を振る。
ルナも、手を振り返した。
列車が動き出す。
アーロンの姿が、どんどん遠くなっていく。
ルナは、その場に立ち尽くしていた。
涙が、頬を伝って落ちた。
*
――二十三年前・冬から春へ
ルナは、大学で勉強を続けていた。
法学部の講義に出席し、図書館で本を読み、レポートを書く。いつもの日常。いつもの場所。
でも、心の中には、いつもアーロンがいた。
週に一度、アーロンから手紙が届いた。
たわいもない軍での日常。マメではないアーロンの愛情が、その文面には詰まっていた。
ルナは、その手紙を何度も読み返した。
そして、返事を書く。
なるべく心配や不安だということをわからせないように、明るい文面で綴っている。
ルナは、その手紙を投函した。
そして、また日常に戻る。
講義、図書館、レポート。
アーロンが帰ってくるまで、ここで待つ。
ルナは、そう決めていた。
*
――二十三年前・春
春の陽気が、キャンパスを包んでいた。
桜が咲き始め、学生たちが笑いながら歩いている。
ルナは、いつものベンチに座って、教科書を読んでいた。
誰もが、ここは安全だと思っていた。
戦争は遠い場所の出来事で、ここには関係ないと、信じていた。
大学のキャンパスは、戦場から何千キロも離れている。
首都からも離れた郊外。軍事施設も近くにはない。
誰もが、ここは安全だと。そう思っていた。
でも——
その瞬間、空が震えた。
爆音。
ルナは顔を上げた。
空に、無数の飛行機が見えた。
敵機だ。
周りの学生たちが、空を見上げて立ち尽くしている。誰も、何が起きているのか理解できない。
そして、次の瞬間——
爆弾が、落ちてきた。
爆発。
地面が揺れる。
悲鳴が響く。
ルナは立ち上がろうとした。教科書が地面に落ちる。ページが風に煽られて、パラパラと音を立てた。
周りで、学生たちが走り出す。
ルナも走ろうとした。
でも、その瞬間——
目の前が、白く染まった。
爆風。
熱。
痛み。
そして——
世界が、静かになった。
ルナの最後の記憶は、桜の花びらが舞い落ちる光景だった。
アーロンの笑顔が、脳裏に浮かんだ。
(……ごめんね、アーロン)
(……約束、守れなかった)
そして、ルナの意識は、そこで途切れた。
*
――二十三年前・前線基地
アーロンは、前線基地の兵舎にいた。
疲れた身体を休めながら、ルナからの手紙を読んでいた。
その時、上官が急いで駆け込んできた。
「全員集合! 緊急事態だ!」
兵士たちが慌てて外に出る。
上官が、暗い顔で言った。
「本土が空襲を受けた」
アーロンの心臓が、止まった。
「被害は甚大だ。大学のキャンパスも、直撃を受けた」
アーロンの手から、手紙が落ちた。
紙が、ゆっくりと地面に落ちる。
アーロンの耳に、上官の声が遠くなる。
「ウィルシュ二等兵」
アーロンは、上官を見た。
唇が動いている。何かを言っている。
「お前の……婚約者、ルナ・アステリア嬢が……」
上官は、言葉を詰まらせた。
「……空襲で亡くなった」
世界が、音を失った。
アーロンの膝が、力を失う。
その場に、崩れ落ちた。
地面が冷たい。
でも、それよりも、胸の奥が冷たかった。
何も感じない。
何も考えられない。
ただ、喉の奥から、声にならない叫びが溢れた。
「ああ……ああああ……!」
アーロンは、地面を叩いた。
拳が痛む。
でも、それよりも、心が痛かった。
「ルナ……ルナ……!」
涙が、止まらなかった。
周りの兵士たちが、ただ黙ってアーロンを見ていた。
誰も、何も言えなかった。
アーロンは、ルナからの手紙を拾い上げた。
手紙には、明るい文面が並んでいる。
でも、もう、ルナはいない。
二度と、手紙は来ない。
二度と、会えない。
アーロンは、手紙を胸に抱いた。
そして、泣き続けた。
*
それから、二十三年という月日が風のように流れていった。
ミラは、墓石の前に座っていた。
アーロンが去ってから、もう一時間が経っている。
でも、ミラは動かなかった。
ただ、娘の墓を見つめている。
「ルナ……」
ミラは、静かに話し続ける。
「誰もが、あなたは安全な場所にいると思っていた」
「戦争に巻き込まれることのない場所にいると信じていた」
ミラの声が、震える。
「けれど、どの場所が、いつ、戦場になるかなんて」
「誰にもわからなかった」
風が、また吹き抜けた。
「アステリア財閥を、医療と教育の財団に変えた」
「戦争で儲かった金は、戦争で壊れたものに返す」
「それが、私の償いよ」
ミラは、墓石の前で一度だけ唇を噛んだ。
「……でも、返し方を間違えたら、また同じ側に立つ」
声が掠れる。彼女は言い聞かせるように、ゆっくりと言葉を重ねた。
「武器には出さない。兵器の研究にも、戦場のための情報にも、関わらない。
寄付の出どころが血で濁っているなら、どんなに大金でも受け取らない」
風が墓前の花を揺らす。ミラはその揺れを見つめたまま続けた。
「“例外”を作った瞬間、私たちは正しさじゃなく都合で動き始める。
……ルナ、私は、都合のためにあなたを失ったわけじゃないって、そう言い切れる場所に立っていたいの」
ミラは、目を閉じた。
「でも、それだけじゃ足りないわね」
ミラは息を吸って、吐いた。
「正しいことを選ぶたびに、救えない人も増えるの」
喉が震えるのを押さえ、彼女は言う。
「……それでも、武器の金で命を救うなら、結局また“奪う側”の秤で人を選んでしまう」
「あなたを失った悲しみは、消えない」
「大切な人を失った人たちの悲しみも……」
ミラは、涙を流した。
(戦争は、こうやって人を壊し続ける)
(死んだ者だけじゃなく、残された者も地獄を味わう)
ミラは、アーロンと同じように、優しく墓石に手を添えた。
「ルナ、見守っていて頂戴」
ミラは、立ち上がった。
膝が痛む。でも、まだ歩ける。
「また来るわね」
ミラは、墓地を去っていく。
その背中は、まっすぐだった。
*
アステリア財団の本部ビルは、夕日に照らされていた。
ミラは、自分のオフィスで窓の外を見ていた。
机の上には、ルナの写真が飾られている。
笑顔の写真。
ミラは、その写真を手に取った。
「……あなたは、幸せだったかしら」
写真の中のルナは、笑っている。
「アーロンと出会えて、幸せだったかしら」
ミラは、写真を胸に抱いた。
机の端には、分厚い書類の束が置かれている。
表紙には、黒い文字でこう記されていた。
――アステリア財団 倫理規程(改訂案)
ミラは椅子に腰を下ろし、ペンを取った。
その手は老いても、署名の線はぶれなかった。
扉がノックされる。
「ミラ理事長。よろしいでしょうか」
秘書の声の向こうに、もう一つの気配がある。遠慮のない足音。
「入って」
入ってきたのは、財団の運営責任者だった。顔色が良くない。
資料を胸に抱え、早口になりかけた言葉を飲み込み、慎重に口を開く。
「軍需関連の企業から、共同研究の打診が来ています。名目は“救急医療の前線転用”。
資金は、こちらの年間支援計画を――二倍にできます」
ミラは返事をせず、窓の外の夕焼けを見た。
赤い光が、街を美しく塗っている。美しさはいつだって、現実の痛みを隠す。
「断るわ」
運営責任者は言葉を詰まらせた。
「ですが理事長……断れば、今期の紛争地医療支援は――」
「削ることになるわね」
ミラは静かに続けた。責任者の言葉を奪うのではなく、受け取った上で自分の口で言った。
「分かっているわ。誰かが救われなくなる。……その痛みを、私が引き受ける」
机の上の写真が、夕日の中で柔らかく光る。
ミラは写真に目を落とし、まるで娘に叱られるのを待つみたいに小さく笑った。
「でも、武器の金で救った命は、別の場所でまた命を奪う燃料になる。
そういう循環に、“私たちが”加担したら終わりよ」
運営責任者は苦しそうに眉を寄せた。
「敵を作ります」
「ええ。もう作ってる」
ミラはペン先で倫理規程の一文を指す。
「だから制度にするの。私がいなくなっても、誰かの気分で“例外”が増えないように」
「外部委員会の件も、進めますか」
「進めて。遺族も、現場の医師も入れる。財団の人間だけで“正しさ”を決めたら、いつか必ず歪む」
責任者は資料を握り直し、ゆっくり頷いた。
「……承知しました」
扉が閉まる。
残ったのは、紙の匂いと、夕日が消えていく気配だけだった。
ミラはもう一度、写真の縁に指を置く。
「ルナ……私は、正しさで誰かを切り捨てることもある。きっと、あなたなら怒るわね」
ミラは立ち上がり、窓の外の暗くなりかけた空を見た。
まだやることがある。
戦争が奪った未来のぶんだけ、生き残った者が、未来を奪い返すために
*
アーロン・ウィルシュは、自分のアパートに戻っていた。
一年のほとんどを海の上で過ごし、この街に来るのはルナの命日のこの時期だけの
アーロンが、一人で暮らすにはちょうど良い小さな部屋。
窓際には、ルナの写真が飾られている。
大学時代の二人で笑っている写真。
アーロンは、その写真の前に立ちながら、軍服に身を包む。
あれから二十年、徴兵で軍隊に入隊した自分も、気づけば海上戦艦の艦長として立っている。
軍隊の中では、人を階級で呼ぶ。
しかしアーロンは、目の前にいる人間を名前で呼ぶ事に決めている。
ルナの名前を呼べなかったあの時を、決して忘れないように。
戦闘の中で、必ず生きて戻ってくると、本人が諦めないように。
ふと写真に目を向けると、ルナが写真の中から、
「真面目すぎるわ」と、笑っているように見えた。
「笑うなよ。これでも艦長なんだ」
アーロンは目尻に皺を寄せて微笑みながらルナに話しかける。
今も昔も、アーロンの心の中にはルナがいる。
ーーー
戦争は、突然やってくる。
誰もが信じていた日常が、一瞬で消える。
二人が描いた未来は、消えた。
でも、二人が愛し合った事実は、消えない。
戦争は、未来を奪う。
でも、愛を奪うことはできない。
残された者たちは、今日も生きる。
愛する人の分まで、生きる。
それが、彼らの選択だった。




