SKY-Distance-
手紙を渡してから、一週間が経った。
LAAの訓練場は、いつも通り騒がしかった。
シミュレーターの駆動音と、教官の怒鳴り声と、生徒たちの足音が混ざり合う。
サラは訓練棟の二階、見学用の通路から下を見下ろしていた。
手すりに肘をついて、眼下のSKYシミュレーターが並ぶ光景を眺める。
その中に、ミュラーがいた。
特別コースの訓練生は、一般の生徒とは別の区画で動いている。
機体に乗り込む彼の背中は、どこか機械的で、余計な動きが一切ない。
(……あの人、本当に飛ぶんだ)
サラは、その背中をただ見ていた。
*
数日後。
LAAの食堂は、昼休みになると人で溢れた。
長テーブルが並び、生徒たちが笑いながらトレイを運んでいる。
サラは窓際の席で、書類を広げていた。
父の秘書業務の手伝いで、資料の整理をしている。
そこへ、誰かが隣の席に座った。
音もなく、気配だけが近づいてくる。
サラが顔を上げると——ミュラーがいた。
トレイには、パンとスープだけ。
彼は何も言わずに、黙々と食べ始める。
「……なに?」
サラが先に口を開いた。
ミュラーは視線を上げない。パンを齧りながら、ぼそりと言う。
「……別に。空いてたから座っただけ」
「他にも席、空いてたでしょ」
「……めんどくせぇ」
いつもの口調。
でも、サラは少しだけ口元を緩めた。
「……そう」
それだけ言って、サラは書類に視線を戻す。
ミュラーは黙ってスープを飲む。
二人の間に、特別な会話はない。
でも、気まずくもない。
ただ、同じ空間にいるだけ。
それが、少しずつ当たり前になっていった。
*
ある日の放課後。
サラは図書室で勉強をしていた。
試験が近く、机の上には教科書と参考書が積まれている。
窓の外は、もう夕暮れに染まり始めていた。
(……そろそろ帰らないと)
そう思った時、図書室の扉が開いた。
入ってきたのは——ミュラーだった。
彼は、サラに気づくと少しだけ眉を寄せる。
「……お前、まだいたのか」
「……勉強してたの。貴方こそ、図書室なんて珍しいわね」
ミュラーは何も言わずに、サラの斜め前の席に座った。
机の上に、一冊の本を置く。
『SKY操縦理論 応用編』
サラは、その表紙を見て少しだけ驚く。
(……勉強、してるんだ)
ミュラーは本を開いて、黙々と読み始める。
サラも、自分の教科書に視線を戻した。
図書室には、ページをめくる音と、時計の秒針の音だけが響く。
窓の外の空が、オレンジから紺色に変わっていく。
ふと、サラが顔を上げると——
ミュラーが、こちらを見ていた。
目が合う。
ミュラーは慌てて視線を外す。
「……なんだよ」
「……別に。こっちのセリフよ」
サラは、少しだけ笑った。
ミュラーは、また本に視線を落とす。
でも、耳の端が少しだけ赤くなっているのを、サラは見逃さなかった。
*
ある夜。
サラは学生寮の自室で、書類の整理をしていた。
端末に、通知が入る。
『訓練管理室より:明日の実技訓練について』
サラは、ふと手を止めた。
(……あの時の手紙も、こうやって誰かに届けられたんだ)
あの日、廊下で呼び止められて。
ミュラーに手紙を渡して。
あれが、全部偶然だったとしても——
サラは、端末を置いて窓の外を見上げた。
宇宙コロニーの夜は、地球の夜とは違う。
人工的な光が、規則正しく明滅している。
(……ミュラー、どこにいるんだろう)
そう思った瞬間、端末が震えた。
新着メッセージ。
差出人は——
『ミュラー・エリス』
サラは、少しだけ目を見開いた。
メッセージを開く。
『明日、屋上。昼休み。』
それだけ。
サラは、ほんの少しだけ笑った。
(……相変わらず、素っ気ないわね)
それでも、返信を打つ。
『分かった。行く。』
送信ボタンを押してから、サラは少しだけ胸の奥が温かくなるのを感じた。
*
翌日の昼休み。
サラは屋上に上がった。
扉を開けると、ミュラーがいつもの場所に立っていた。
柵にもたれて、空を見上げている。
「……来たのか」
ミュラーが、振り向かずに言う。
「……呼んだのは貴方でしょ」
サラは、彼の隣に立った。
風が、二人の髪を揺らす。
しばらく、沈黙が続いた。
ミュラーが、ぽつりと言う。
「……俺、飛び級で卒業することになった」
サラの手が、柵を掴む。
「……いつ?」
「三学期前。来月には配属される」
サラは、何も言えなかった。
ミュラーは、まだこちらを見ていない。
「……まあ、そういうことだ」
言葉が、風に消える。
サラは、ゆっくりと息を吐いた。
「……そう」
それだけ言って、サラは空を見上げた。
青い空。
雲が、ゆっくりと流れていく。
(……こんなに早く、いなくなるんだ)
そう思うと、胸の奥が少しだけ痛んだ。
でも、サラは何も言わない。
ただ、隣に立っているだけ。
ミュラーも、何も言わない。
二人は、ただ同じ空を見ていた。
*
それから数週間。
ミュラーとサラは、いつも通りの日常を過ごした。
食堂で隣に座ること。
図書室で一緒に勉強すること。
屋上で、ただ空を見上げること。
特別なことは、何もない。
でも、その何もない時間が——
二人にとって、かけがえのないものになっていた。
*
そして、その日が来た。
LAAの屋上は、夜になると別の場所みたいに静かだった。
昼間は訓練棟から響く警報音や教官の号令が跳ね返るのに、
今は、柵に当たる風の「さぁ」という擦過音と、遠くの港の低い機械音だけが薄く届いてくる。
足元のコンクリートは昼の熱をもう失っていて、靴底から冷たさがじわりと上がってくる。
フェンス越しの街灯は星みたいに滲み、空は深い藍に沈んでいた。
そこに、ミュラー・エリスがいた。
いつも通り、壁際に背を預けている。
制服の襟元は乱れていないのに、立ち方だけが少し投げやりで、空だけを見上げていた。
屋上扉が、きぃ、と小さく鳴った。
サラ・ブライトンは静かに出てきて、扉が風で戻らないように手を添えてから、ゆっくり歩いた。
髪が風に撫でられて頬にかかる。手袋の指先でそれを直しながら、背中に向かって声を投げる。
「ミュラー。……またここにいたの? 先生が探してたわよ」
ミュラーは振り向かない。鼻で息を吐いて、短く答える。
「……ちっ。うるせーのが来やがった」
サラは眉を寄せない。寄せたら負けだと知っているみたいに、淡々と言い返す。
「……うるさくない。明日、出発なんでしょ? 準備は終わったの?」
ミュラーの肩がわずかに揺れる。面倒くさそうに、ようやく首だけをこちらへ回した。
「別に。荷物なんてそんなにないし。カバン一つで十分だ」
その言い方が、妙に本気だった。
“十分”という言葉が、ここに置いていくものを数えないための蓋みたいに聞こえて、サラの胸の奥が小さく軋む。
サラはミュラーの前で立ち止まった。
屋上の白い照明が、彼の金髪の端を薄く浮かせる。青い目はいつも通り冷静で、なのに今夜だけ、どこか遠い。
ミュラーの視線がサラを捉える。
見られた瞬間、サラは逃げる気持ちを捨てた。逃げると、言えなくなる。
「……こんなに早く卒業しなくても、良かったのに」
サラの声は小さい。けれど揺れない。
風が強くなって、フェンスが軽く鳴った。二人の間の沈黙を押し広げるみたいに。
ミュラーは、ほんの一瞬だけ目を細めた。
そして——サラの頬へ、手を伸ばしかける。
指先が空気を切り、肌の熱に届きそうになって、そこで止まった。
伸ばした手は、行き場を失って、結局、柵に置かれる。金属がかすかに鳴る。
「なに?」
ミュラーが、いつもの調子を無理に引っ張り出す。
「寂しくなった?」
サラは笑わない。口角を上げないまま、息だけをゆっくり吐く。
「……そうね」
一拍置いて、サラは続けた。声が少しだけ低くなる。
「貴方、すぐ無茶しそうだから」
ミュラーが眉を上げる。
苛立ちの形を取らないと落ち着かないみたいに、言葉だけを尖らせる。
「どういう意味だよ」
サラは視線を外さない。
目の奥にあるものを、ちゃんと見ているという顔で言う。
「帰ったら、いちばん最初に連絡して」
ミュラーは鼻で笑ってみせる。軽く、雑に。
「……やだよ。めんどくせぇ」
サラは一歩も引かない。
その言葉が本心じゃないのを知っているから、攻める必要がない。
「……約束して、ミュラー」
名前を呼ぶときだけ、ほんの少し声が柔らかくなる。
それを誤魔化すみたいに、サラは言葉を最後まで言い切った。
「生きてるって、知らせて」
真っ直ぐな視線。
風がサラの髪を揺らして、瞳の中の光が一瞬だけ揺れた。
ミュラーは、その目を受け止めたまま、息を止める。
止めた呼吸が、少し遅れて戻る。
「……気が向いたらな」
言った直後、制服の胸ポケットから端末を出した。
ミュラーが不機嫌そうに言葉を投げる。
「……番号」
サラがミュラーから目を逸らさずに聞く。
「……え?」
「覚えるのめんどくせぇ。送れ」
屋上の上を、夜風が通り抜けた。
二人の間の距離は変わらない。触れてもいない。
それでも、今夜だけは——もう一歩近づいた気がした。
*
翌朝。
ミュラーは、LAAを出発した。
サラは、見送りには行かなかった。
行けば、きっと言葉が出なくなる。
ただ、教室の窓から——
遠くの空を見上げた。
(……ミュラー)
名前を、心の中で呼ぶ。
(……約束、忘れないでよ)
風が、窓を揺らした。
空は、どこまでも青かった。
*
離れることで、初めて分かることがある。
触れなかったからこそ、残るものがある。
二人の物語は、ここから——
本当に、始まる。
――fin.




