ちゃんと、帰ってきた
ハンスさんに油の仕入れについて相談してから、数日が経った。
マヨネーズを使ったパンは、相変わらずミラの店で一日八個ほど作っている。売れる時間にはばらつきがあるけど、大きく売れ残ることもなく、今のところは順調だ。
油については、ハンスさんから連絡を待つことになっている。
だから俺にできることは、特にない。
「……暇だな」
いや、暇なのはいいことだ。
石鹸も俺が毎回作る必要はない。
カバンもダリオさんたちが作っている。
マヨネーズのパンも、俺が毎朝店にいなくてもミラが作れるようになってきた。
自分がいなくても回るようにする。
ずっと目指してきた形のはずだ。
なのに暇になると、何か新しいことを始めたくなる。
「これが危ないんだよな」
暇。
何かしたい。
新しいものを思いつく。
試す。
金を使う。
昔から何度も見た流れだ。
「今日は大人しくしよう」
そう決めて、市場を歩く。
……大人しくする人間が市場に来る必要があったかは、考えないことにした。
◇ ◇ ◇
何か面白いものがないか探すつもりはない。
本当にない。
ただ歩いているだけだ。
少し珍しい香辛料を見つけても、立ち止まらない。
見たことのない木の実が並んでいても、値段を聞かない。
細工の入った小さな革袋があっても――。
「……いらない」
危なかった。
俺にはカバンがある。
しかも自分で考えたやつだ。
革袋なんて必要ない。
「成長したな、俺」
誰も褒めてくれないので自分で褒める。
そのまま市場の東側まで歩いてきたところで、見慣れた店が見えた。
ハンスさんの店だ。
「油の話、何か進んだかな」
まだ数日しか経っていない。
急かすつもりはないけど、近くまで来たなら聞いてもいいだろう。
そう思って店へ近づく。
そこで。
「お?」
店の前に停まっている荷車が目に入った。
見覚えがある。
いや、荷車そのものを細かく覚えていたわけじゃない。
でも、積まれている荷物。
使い込まれた布。
そして店の中から聞こえてくる声。
「だから言っただろ。帰りは一月くらいだって」
俺は足を止めた。
この声。
知ってる。
◇ ◇ ◇
「ベルク?」
店を覗く。
日に焼けた顔。
短い茶色の髪。
少し伸びた無精ひげ。
前と変わらない、旅慣れた格好。
「おお」
ベルクが俺に気づいた。
「ちょうどいいところに来たな」
「帰ってきたの?」
「見りゃ分かるだろ」
「いや、そうだけど」
思わずベルクの後ろを見る。
いる。
ちゃんといる。
当たり前だけど。
「何だその顔」
「本当に一月くらいで戻ってきたなって」
「俺を何だと思ってる?」
「帰ってこない可能性もある行商人」
「ひでえな」
ベルクが笑う。
でも、少しだけ本当にそう思っていた。
旅だ。
予定通りに進むとは限らない。
道が悪ければ遅れる。
商売の都合で別の町へ行くことだってある。
何かあれば、もっと長く帰ってこないこともある。
「一月より少しかかったけどな」
「何かあった?」
「大したことじゃねえよ。帰りに寄る場所が一つ増えただけだ」
「商売?」
「商売」
やっぱり行商人だ。
◇ ◇ ◇
「それより」
俺は店の中へ入る。
「どうだった?」
「何が?」
「何がって、石鹸とカバン!」
「落ち着け」
「一月待ったんだけど」
「俺は一月働いてきたんだぞ」
「お疲れさまです」
「急に素直だな」
ベルクが笑いながら、ハンスさんの店の奥に置いた荷物へ目を向ける。
俺もそっちを見る。
「カバンは?」
「あるぞ」
「壊れた?」
「先に結果を聞こうとするな」
「それを聞きに来たんだけど」
「お前はたまたま来ただけだろ」
そうだった。
油の話を聞きに来ただけだった。
でも今はもう油なんてどうでも――。
いや、どうでもよくはない。
後でちゃんと聞く。
「石鹸は?」
「それも話す」
「売れた?」
「話すって言ってんだろ」
焦らすなあ。
俺が不満そうにしていると、ハンスさんが呆れたように笑った。
「ベルク、先にこいつの話を聞いてやれ。さっきからそれしか頭にない」
「十三歳ってのはせっかちだな」
「一月待ってましたからね?」
「分かった分かった」
ベルクが荷物の横に腰を下ろす。
「ただ、その前に水飲ませろ」
「どうぞ」
「お前の店じゃねえだろ」
ハンスさんが言う。
俺は大人しく座って待つことにした。
◇ ◇ ◇
水を飲みながら、ベルクはハンスさんと少し話をしていた。
道中で何が売れたとか。
どこの町で何が高かったとか。
帰りに荷を増やしたとか。
俺には分からない話も混じっている。
でも、聞いているだけでも面白い。
「エルダは?」
俺が聞く。
「行ったぞ」
「三日?」
「行きは三日。道も悪くなかった」
「帰りは?」
「まっすぐ帰ってねえから数えても意味ないな」
「ああ、そっか」
ベルクはエルダへ行って、そのまま同じ道を戻ってきたわけじゃない。
商品を売り、別の商品を買い、また別の場所へ運ぶ。
その途中でリーネへ戻ってきた。
俺が町の中で商品を売っているのとは、やっぱり全然違う。
「それで」
ベルクが俺を見る。
「お前から預かったやつな」
「うん」
「ちゃんと試してきたぞ」
その言葉を聞いて、背筋が伸びる。
「本当に?」
「何のために持ってったと思ってる」
「いや、途中で面倒になって普通に売るとか」
「借り物のカバンを勝手に売るか」
「石鹸は?」
「あれは買ったから俺のだ」
「そうだった」
三個で9リル。
石鹸はベルクが買い取った。
カバンは一月だけ貸した。
そこは違う。
「石鹸はエルダで見せた。カバンは俺が実際に使った」
「肩は?」
「聞くの早えよ」
「雨は?」
「だから待てって」
「取り出しやすさは?」
「レイン」
ハンスさんに名前を呼ばれた。
「はい」
「ベルクに喋らせろ」
「はい」
反省。
◇ ◇ ◇
「まあ、話したいことはいくつかある」
ベルクが言う。
「いい話?」
「いい話もある」
「悪い話も?」
「そりゃある」
当然か。
町の外へ持っていけば、全部上手くいく。
そんな都合のいい話はない。
「まず石鹸からでいいか?」
「うん」
「三個ともエルダまで持っていった」
「壊れてない?」
「石鹸はそう簡単に壊れねえよ」
「欠けたり」
「細けえな」
ベルクが笑う。
でも、その顔は前にリーネを出たときより少し楽しそうに見えた。
「向こうで何人かに見せた。店をやってるやつにもな」
「店?」
「雑貨を扱ってるところだ」
心臓が少し速くなる。
俺の商品が、初めて別の町の店に持ち込まれた。
俺自身はリーネから一歩も出ていないのに。
「反応は?」
「それを今から話す」
「はい」
また先走った。
ベルクが荷物の中から、小さな包みを取り出す。
「その前に、こっちだ」
「何それ?」
「エルダで買ってきたもんだ」
「俺に?」
「違う。売り物」
「なんだ」
「残念そうな顔するな」
別に欲しかったわけじゃない。
……ちょっとだけ期待しただけだ。
「お前、町の外の商品に興味あるんだろ?」
「ある」
「なら話が終わったら見せてやるよ。買うなら金は取るけどな」
「見るだけなら?」
「タダだ」
「じゃあ見る」
「即答か」
買わない。
今日は見るだけ。
たぶん。
◇ ◇ ◇
ベルクが帰ってきた。
それだけなのに、思っていた以上に嬉しかった。
一月前。
石鹸を三個。
カバンを一個。
俺の商品が初めてリーネの外へ出た。
その結果が、ようやく戻ってきた。
売れたのか。
売れなかったのか。
何が良くて、何が駄目だったのか。
聞きたいことはいくらでもある。
「じゃあ、石鹸の話からな」
「うん」
俺は帳面を開いた。
「……何で帳面出すんだ?」
「忘れないように」
「話しづらいな」
「気にしないで」
「気になるわ」
ハンスさんが笑っている。
俺は帳面の一番上に、大きく書いた。
『エルダ――石鹸』
町の外へ出た俺の商品が、どう見られたのか。
ようやく、その答え合わせが始まる。




