五個だけ、売ってみよう
翌朝。
俺はいつもより少し早く、ミラのパン屋へ向かった。
店に入ると、当然もう仕事は始まっている。焼けたパンの匂いが店の奥から漂っていて、ミラは作業台の前で忙しそうに動いていた。
「おはよう」
「おはよう。来たね」
「手伝いに来ました」
「珍しい」
「俺の商品でもあるからね」
「まだ商品じゃないよ」
「今日からなる予定」
「売れたらね」
朝から厳しい。
でも、その通りだ。
今日は白いソースを使ったパンを五個だけ作る。
五個。
それ以上は作らない。
売れても追加しない。
まずは本当に客がお金を出してくれるのかを見る。
◇ ◇ ◇
「じゃあ混ぜて」
「俺?」
「昨日、楽になったって喜んでたでしょ」
「ミラが使うために作ったんだけど」
「言い出した人がやる」
「またそれ?」
結局、俺が混ぜることになった。
卵と酢を合わせ、そこへ油を少しずつ加えていく。
昨日作った二本棒の道具を使うと、木べらよりは楽だった。
楽ではある。
ただし。
「……やっぱり疲れるな」
「まだ五個分だよ」
「売れすぎない方がいいかもしれない」
「昨日まで売りたがってた人が言う?」
「商売って難しい」
ミラが笑う。
でも、冗談だけでもない。
五個分なら問題ない。
これが毎朝何十個分になったら、やっぱり別の方法を考えないと厳しい。
出来上がったソースをミラが確認する。
「昨日と同じくらいだね」
「味は?」
「ちょっと待って」
少しだけ舐める。
「うん。大丈夫」
「よし」
まず一つ。
毎回同じような味にできるか。
そこは今のところ問題なさそうだった。
◇ ◇ ◇
パンに肉と野菜を挟み、白いソースを加える。
一個。
二個。
三個。
四個。
五個。
並べてみると、普通に美味そうだ。
「値段どうする?」
俺が聞くと、ミラが昨日計算した材料を確認する。
「いつもの肉と野菜を挟んだパンより、少し高くしないと厳しいかな」
「ソース分?」
「卵と油を使ってるからね。それに作る手間もあるし」
「手間も値段に入れるんだよね」
「入れないと、忙しくなったときに困るでしょ」
その通りだ。
材料費だけ回収できればいいわけじゃない。
作る人の時間も必要だ。
今回は試験販売だから、利益を最大にする必要はない。それでも最初から無理な値段をつけて、「売れたから成功」と判断するのは違う。
ミラと相談し、普段の似たパンより少しだけ高い値段をつけることにした。
「これで売れるかな」
「分からない」
「もうちょっと励ましてよ」
「売れる売れる」
「急に雑」
まあいい。
答えは客が出してくれる。
◇ ◇ ◇
開店してしばらく。
いつもの客が入ってくる。
仕事へ向かう途中らしい男がパンを二つ選び、そのまま会計へ持っていった。
白いソースのパンは見た。
でも買わなかった。
「……見たよね?」
「見たね」
「なんで買わないの?」
「知らないよ」
「聞いてきて」
「嫌だよ」
当然だった。
次の客。
女性が二人。
一人が白いソースのパンを指差す。
「これ、何?」
来た。
俺が前へ出ようとすると、ミラに服をつかまれた。
「私が説明する」
「なんで?」
「店員だから」
「はい」
俺は引っ込む。
「肉と野菜に、新しいソースを合わせたパンです。今日、五個だけ試しに出してるんですよ」
「白いのがソース?」
「はい。卵と油とお酢を使ってます」
「へえ」
女性は少し迷った。
値段を見る。
隣のパンも見る。
また戻る。
俺は心の中で祈った。
買え。
いや、買ってください。
「じゃあ、一個もらおうかな」
よし。
心の中で拳を握った。
◇ ◇ ◇
一個売れた。
残り四個。
「売れた」
「まだ一個」
「最初の一個が大事なんだよ」
「そうなの?」
「たぶん」
前世で何かそれっぽいことを聞いた気がする。
根拠はない。
それから何人か客が来た。
いつものパンだけ買う人。
白いソースを見て、何も言わず別のパンを選ぶ人。
「これ何?」と聞いたけど、結局買わない人。
「思ったより難しいな」
俺が小声で言う。
「知らないものだからね」
「美味しいのに」
「食べるまで分からないでしょ」
「あ」
それもそうだ。
俺とミラは味を知っている。
ミラのお父さんも食べた。
でも客から見れば、パンの間に見慣れない白いものが入っている。
しかも、いつものパンより少し高い。
美味しいかどうか分からないものに金を出す。
それだけで小さな壁がある。
◇ ◇ ◇
少しして、最初に買った女性が店の前を通った。
もうパンは食べ終わっている。
ミラが声をかけた。
「さっきの、どうでした?」
「ああ、あれ?」
俺も聞き耳を立てる。
「美味しかったよ。あの白いの、いいね」
「本当ですか?」
「うん。お肉と合ってた。またあったら買うかも」
「ありがとうございます」
女性はそのまま歩いていった。
俺はミラを見る。
「聞いた?」
「聞いた」
「また買うかもって」
「『かも』ね」
「そこ大事?」
「大事でしょ」
厳しい。
でも嬉しい。
少なくとも一人目は当たりだった。
◇ ◇ ◇
二個目が売れたのは、その少し後だった。
今度は若い男。
「さっき女の人が食べてたの、これ?」
どうやら近くで見ていたらしい。
「たぶんそれです」
ミラが答える。
「うまいって言ってた?」
「そう言ってもらえました」
「じゃあ一個」
口コミ。
早い。
前世なら広告とか評価とか、そういうものがあった。
ここでは、近くにいた人の「あれ美味しかった」がそのまま宣伝になる。
「俺、何もしてないのに売れた」
「作るとき混ぜたでしょ」
「そうだった」
忘れるところだった。
◇ ◇ ◇
朝の客足が落ち着いた頃。
残りは二個になっていた。
「三個売れた?」
「売れた」
「あと二個」
「どうする?」
「そのまま置いとく」
「昼まで?」
「うん。でも今日中には絶対使う」
ミラの方針は変わらない。
俺も賛成だ。
売れなかったら自分たちで食べる。
だから五個にした。
「でも、三個売れたなら悪くないよね」
「そうだね」
「値段で文句言った人いた?」
「いない」
「じゃあもう少し高く――」
「レイン」
「冗談」
「顔が本気だったよ」
危ない。
売れると分かった瞬間、利益を増やしたくなる。
人間は欲深い。
俺だけかもしれない。
◇ ◇ ◇
昼前。
四個目が売れた。
買ったのは、朝の二個組をよく買うという荷運びの男だった。
「今日はこっちにしてみる」
「二個組は?」
「もう朝食ったよ。昼の分」
なるほど。
朝だけじゃない。
肉と野菜を挟んでいるから、昼飯にもなる。
これは覚えておこう。
そして最後の一個。
俺とミラは何となく棚を見る回数が増えていた。
「売れるかな」
「レイン、さっきからそればっかり」
「最後の一個って気になるじゃん」
「売れなかったら食べるんでしょ?」
「売上になってほしい」
「正直だね」
当然だ。
食べるより金になってほしい。
◇ ◇ ◇
最後の一個が売れたのは、昼を少し過ぎた頃だった。
買ったのは、店に時々来る職人だった。
「これ、朝はもっとあったよな?」
「五個だけ出してたんです」
「もう最後?」
「はい」
「じゃあそれ」
理由、それだけ?
俺は思わずミラを見る。
ミラも少し笑っている。
最後だから買う。
そんなこともあるらしい。
「五個、完売」
客が出ていってから、俺は小さく言った。
「完売だね」
「よし」
「嬉しそう」
「そりゃ嬉しいよ」
売れるか分からなかった。
見たことのないソース。
いつもの似たパンより少し高い。
それでも五個全部売れた。
これは普通に嬉しい。
◇ ◇ ◇
「じゃあ明日十個?」
「待って」
ミラに即答された。
「なんで?」
「昨日、自分で言ってたでしょ。ちゃんと続けられる形にしてからって」
「言ったね」
「今日一回売れただけだよ」
「五個全部だけど」
「五個全部でも」
正しい。
俺は一度落ち着く。
今日分かったことを整理する。
味については、今のところ悪い反応はない。
最初の女性はまた買うかもしれないと言った。
値段を見て買わなかった人はいたけど、高すぎると文句を言った人はいない。
朝だけでなく、昼用に買った人もいた。
そして、知らないソースだから説明を求める人が多かった。
「……もう一回五個?」
「私はそれがいいと思う」
「同じ数?」
「今日たまたま売れただけかもしれないでしょ」
「なるほど」
もう一度やる。
それでも売れるなら、少し増やす。
いいと思う。
「じゃあ次も五個」
「毎日はまだやらないよ」
「なんで?」
「他のパンも作るんだから」
「そっか」
俺はこの商品しか見ていない。
でもミラの店には他の商品がある。
新しいものを一つ増やせば、その分だけ仕事も増える。
売り場も使う。
材料も使う。
俺が「売れたから増やそう」と言うだけでは駄目だ。
◇ ◇ ◇
「それと、材料費」
ミラが言う。
「もう少し下げたいね」
「やっぱり油?」
「油が安くなればかなり違うと思う。でも、味が変わるなら嫌」
「そこは調べる」
「どうやって?」
「カラムから来た商人探す」
「また市場?」
「最近の俺の仕事場だから」
「仕事場は持ってないでしょ」
「気持ちの話」
カラムの油。
今まではただの情報だった。
でも今は違う。
本当に安くて、料理に使えて、味にも問題がないなら。
このパンの原価を下げられる。
そして、それができれば利益を増やすだけじゃなく、無理に値段を上げなくても済む。
「……外の町とつながってきたな」
「何が?」
「こっちの話」
ベルクが石鹸と背負い鞄を持って、リーネの外へ出た。
俺はその間、外から来るものを調べ始めた。
そこで知った油が、今度は新しいパンにつながりそうになっている。
外へ売る。
外から買う。
その間に、新しい商品を作る。
「面白いな」
「また何か考えてる?」
「うん」
「お金使う?」
「まだ使わない」
「じゃあいいよ」
信用がない。
でも今回は本当に、まだ使わない。
まずはもう一回。
五個だけ。
その次に、油。
売れたからといって急がない。
……たぶん。
最後のところだけは、まだ少し自信がなかった。




