混ぜるだけじゃ、駄目らしい
翌日、朝の忙しい時間が終わるのを待って、俺はミラのパン屋へ向かった。
店に入ると、ちょうど最後の客が出ていくところだった。棚のパンは朝よりかなり減っていて、奥ではミラが作業台を片づけている。
「来たね」
「ちゃんと来たよ」
「途中で怖くなって逃げるかと思った」
「何作ると思ってるの?」
「十一歳のときの鍋」
「もう忘れてよ」
あれから二年経っている。
そろそろ時効にしてほしい。
作業台には、すでに卵と油、それから酢と塩が用意されていた。全部少量で、失敗しても店に大きな損は出ない程度だ。
「材料代は?」
「あとで計算する」
「俺が払うんだよね」
「言い出した人だからね」
「分かってます」
必要経費。
これは必要経費だ。
◇ ◇ ◇
「それで、どう作るの?」
ミラが聞く。
「混ぜる」
「それだけ?」
「……たぶん」
「不安になってきた」
「俺も」
前世でマヨネーズを作ったことはない。
卵と油と酢を使うことは知っている。何かで作り方を見た記憶もあるけど、真面目に覚えてはいなかった。
だって、買えばよかったから。
まさか異世界で自作するとは思わない。
「まず少しでやろう」
「それは賛成」
卵を器に割る。
そこへ油を入れて、酢を少し。
塩もほんの少し。
「で?」
「混ぜる」
「どれくらい?」
「白っぽくなるまで?」
「聞かないでよ」
「俺も知らないんだって」
ミラが呆れながら木べらを持った。
「じゃあ混ぜるよ」
「お願いします」
「レインもやるんだよ」
「はい」
二人で交代しながら混ぜる。
混ぜる。
さらに混ぜる。
「……白くならないね」
「ならないね」
油っぽい黄色い液体が器の中で揺れている。
俺の知っているマヨネーズではない。
「もうちょっと?」
「やってみる」
ミラがさらに混ぜる。
でも、変わらない。
少しとろみが出たような気もするけど、気のせいかもしれない。
「これ、完成?」
「違う」
「なんで分かるの?」
「俺が知ってるやつはもっとこう……なめらかで、ちゃんとソースっぽい」
「これは?」
「油に卵がいる」
「そのままだね」
失敗した。
◇ ◇ ◇
問題は、何が悪かったのか。
材料?
分量?
混ぜ方?
全部?
「味見する?」
ミラが聞く。
「する」
「言い出した人から」
「そこは一緒じゃないの?」
「完成形知らないもん」
「ずるいな」
木べらの先に少しつけて舐める。
「……うん」
「どう?」
「酸っぱい油」
ミラも少し舐めた。
「あ、本当だ」
「でしょ?」
「でも、食べられなくはない」
「十一歳のときより進歩した」
「基準そこなんだ」
最低ラインが低い。
でも大事なことだ。
少なくとも父さんが水を三杯飲むような味ではない。
「何が足りないんだろ」
俺は器を見つめる。
マヨネーズ。
卵。
油。
酢。
混ぜる。
何か忘れている。
「そういえば……」
記憶の端に、何か引っかかった。
「油、一気に入れたら駄目だったような」
「先に言ってよ」
「今思い出したんだって」
「どれくらいずつ?」
「少しずつ……だった気がする」
「気がする?」
「かなり」
「どっち?」
「七割くらい」
「信用しづらいなあ」
仕方ない。
前世の俺は料理人じゃない。
◇ ◇ ◇
「じゃあ、もう一回やる?」
ミラが新しい器を出す。
「いいの?」
「材料代はレインでしょ?」
「そうでした」
優しさではなかった。
でも、試してくれるならありがたい。
今度は卵と酢を先に混ぜる。
「油、少しだけ入れてみて」
「これくらい?」
「もっと少なくてもいいかも」
ミラがほんの少し油を加える。
俺が混ぜる。
また少し。
混ぜる。
さらに少し。
「……さっきより面倒だな」
「レインが言い出したんだから頑張って」
「腕疲れる」
「まだ始めたばっかり」
交代する。
ミラが混ぜて、俺が少しずつ油を入れる。
しばらく続けていると、変化が出てきた。
「あれ?」
「ちょっと違う?」
「うん」
さっきより明らかにとろみがある。
色も少し白っぽくなってきた。
「これこれ!」
「本当に?」
「近い!」
「じゃあもっと入れる?」
「待って。急に入れて失敗したら嫌だ」
「急に慎重になったね」
「材料代、俺だから」
「そこ?」
大事だ。
◇ ◇ ◇
少しずつ油を加えて混ぜ続ける。
腕が疲れてきた。
「マヨネーズってこんな大変だったのか……」
「その、まよねーずっていうのがこれ?」
「そう」
「変な名前」
「俺がつけたんじゃない」
「じゃあ誰がつけたの?」
「……知らない」
危ない。
また説明できないところへ行きそうになった。
「名前は後でいいよ」
「売るなら名前いるでしょ?」
「まだ成功してないから」
「それもそうだね」
ミラが器を覗き込む。
かなりそれらしくなってきた。
少なくとも最初の「酸っぱい油」とは別物だ。
「味見する?」
「今度は一緒に」
「いいよ」
二人で少しずつ取る。
「……あ」
思わず声が出た。
「どう?」
「近い」
前世で食べていたものと全く同じではない。
酸味が少し強い。
塩気も足りない気がする。
でも、方向は完全に合っている。
「ミラは?」
「うん……面白い」
「美味しい?」
「そのまま舐めるより、何かにつけたい」
「それ!」
俺も同じことを思った。
◇ ◇ ◇
ミラが残っていたパンを一つ切り、少量の野菜を挟んだ。
「これにつける?」
「肉ない?」
「あるけど、まずこれでいいでしょ」
「はい」
作ったばかりの白っぽいソースを少しだけ塗る。
二人で半分ずつ食べる。
「……うま」
思ったよりちゃんと美味い。
油のコク。
卵。
酢の酸味。
野菜だけだったら少し物足りないパンが、一気に食べやすくなった。
「これ、肉にも合いそう」
ミラももう一口食べる。
「合うと思う」
「塩もう少し?」
「俺もそう思った」
「酢は?」
「ちょっと減らしたい」
「じゃあ次は変えてみようか」
「おお」
ここからはミラの方が早かった。
俺は完成形を知っている。
でも、どう近づけるかはミラの方が分かる。
これでいい。
十一歳の失敗から、ちゃんと学んでいる。
◇ ◇ ◇
三回目。
塩を少し調整する。
酢も減らす。
油はさっきと同じように少しずつ。
今度は最初からミラが混ぜ方を変えていた。
「なんか上手くなってない?」
「さっき二回やったからね」
「料理できる人ずるい」
「毎日やってるから」
当たり前だった。
俺が前世の記憶を持っていても、十三歳の俺よりミラの方が料理経験は圧倒的に長い。
しばらくして、三回目が完成する。
味見。
「……これじゃない?」
「私もこれが一番好き」
「パンいこう」
「待って。今度は肉も入れてみる」
ミラが少量の焼いた肉と野菜を用意した。
パンを切る。
肉。
野菜。
白いソース。
挟む。
「なんか普通に商品っぽい」
「まだ売らないよ」
「分かってる」
半分に切って、一つ受け取る。
食べる。
「……うまい」
「うん」
ミラも頷く。
さっきよりいい。
肉の脂っぽさを酸味が少し軽くして、野菜にも味がつく。
前世のサンドイッチに近い。
かなり近い。
「これ売れるんじゃない?」
俺が言う。
ミラはすぐには答えなかった。
もう一口食べて、しばらく考えている。
「美味しいとは思う」
「でしょ?」
「でも、いくらになる?」
「あ」
「卵も油も使ってるよ」
「……そうだった」
味だけ見ていた。
商売にするなら原価がある。
◇ ◇ ◇
俺たちは作業台の上に残った材料を見る。
卵。
油。
酢。
塩。
パン。
肉。
野菜。
「これ、一個作るのにいくらかかる?」
「ちゃんと計算しないと分からない」
「油、結構使ったよね」
「使ったね」
思っていたより多い。
マヨネーズって、ほとんど油なんじゃないか?
前世では気にしたこともなかった。
「……油、安くしたいな」
「急に商売の顔になった」
「だって、これ毎日作るなら結構使うよ」
「まあね」
「カラムの油」
「昨日言ってたやつ?」
「そう」
つながった。
外から来た商人に聞いた話。
カラムでは、油が比較的安い。
もし料理に使える油を今より安く仕入れられるなら、このソースの原価を下げられるかもしれない。
ただし。
「いきなり買わないよ」
「偉い」
「まず同じように使える油か確認する」
「うん」
「それから値段」
「うん」
「運ぶ分も」
「うん」
「あと、どれくらい使うか」
「ちゃんと考えてるね」
褒められた。
十三歳になって初めてくらい素直に嬉しい。
◇ ◇ ◇
「それと」
ミラが残った白いソースを見る。
「これ、今日中に使おう」
「やっぱり?」
「卵入ってるからね。どれくらい持つか分からないものを明日まで置きたくない」
「賛成」
そこは試さない。
食べ物で危ない実験をする必要はない。
「じゃあ残りどうする?」
「今日のパンに使ってみる?」
「もう売るの?」
「売らないよ」
ミラが笑う。
「私たちと、お父さんたちで食べる」
「なるほど」
「評判よかったら、次に少しだけ売ってみる」
「いいね」
急がない。
一回作れたからといって、すぐ商品にする必要はない。
まず味。
次に材料費。
それから少量販売。
「……俺、ちゃんと商売してない?」
「自分で言わなければ格好よかったのに」
「言いたくなるじゃん」
「そういうところは昔のままだね」
ミラが笑いながら片づけを始める。
俺も約束通り手伝った。
油のついた器は、思ったより洗うのが面倒だった。
「これも考えないとな」
「何が?」
「作る手間と片づける手間」
「そこまで考えるなら、ちゃんと働いてね」
「はい」
新しいソースはできた。
でも、まだ商品ではない。
美味しいだけじゃ商売にならない。
いくらで作れて。
いくらなら売れて。
毎日無理なく作れるのか。
そして、材料を無駄にしないで済むのか。
「まず原価計算だな」
「明日にしない?」
「なんで?」
「レイン、混ぜすぎて腕震えてるよ」
言われて手を見る。
確かに少し震えていた。
「……手で作るの、大変じゃない?」
「今さら?」
また一個。
考えることが増えた。




