こいつら、町の外へ行くらしい
翌日の夕方。
俺は約束通り、ダリオの工房へ向かった。
扉を開けると、いつもの革の匂いと作業音。その奥でダリオが背負い鞄を持ち上げ、肩紐の付け根を確認していた。昨日見たときにはまだ途中だったはずなのに、見た目だけなら店に並んでいる物とほとんど変わらない。
「できた?」
「見りゃ分かるだろ」
「いや、最後の確認とかあるかもしれないじゃん」
「ある。だから触るな」
伸ばしかけた手を引っ込める。
「完成してないじゃん」
「ほぼ完成だ」
「じゃあまだ触っちゃ駄目じゃん」
「うるせえな」
ダリオは笑いながら、肩紐を何度か強く引っ張った。
弟子の一人も縫い目を確認している。急ぎで仕上げてもらったとはいえ、適当に作ったわけではないらしい。
「見た目、普通に売れそうだけど」
「当たり前だ。俺の名前で外に出るんだぞ」
「試験用だよ?」
「関係あるか」
こういうところは、やっぱり職人だ。
俺なら「試験用だし多少はいいか」と考えそうになる。
いや、商品なら駄目だけど。
たぶん。
「ほら」
最後の確認を終えたダリオが、背負い鞄を俺へ渡す。
「一月、普通に使わせろ。丁寧に扱えなんて言うなよ」
「分かってる」
「壊れたら、どこがどう壊れたか聞け」
「うん」
「壊れなくても、擦れた場所は見たい。戻ってきたら先に俺んとこへ持ってこい」
「了解」
ダリオはもう、壊れることを怖がっていない。
むしろ壊れるなら今のうちに壊れてほしそうだ。
俺も少しだけ、その気持ちが分かるようになっていた。
問題があるなら、売れまくったあとより今見つかった方がいい。
「あとベルクさん本人の感想ね」
「そっちも忘れんな」
「欲しくなったかも聞く」
「そこはお前の仕事だ」
そう言って、ダリオが俺の肩を軽く叩いた。
「頼んだぞ、商売人」
「任せて、革職人」
「なんだその返し」
工房に笑い声が響いた。
◇ ◇ ◇
家に帰ってから、俺は紙を一枚用意した。
ベルクに聞きたいことを、忘れないように書いておく。
肩は痛くならなかったか。
紐は緩まなかったか。
底や縫い目はどうだったか。
荷物の出し入れはしやすかったか。
雨の日はどうだったか。
使わなかった日はあったか。
そして最後に、
『自分の金で欲しいと思ったか』
ここだけ少し大きく書いた。
「それ、一番大事なの?」
横から母さんの声がする。
「うわっ」
「さっきからいるわよ」
「急に読まないでよ」
「机の上に大きく書いてあるんだもの」
母さんは笑いながら、横に置いてある背負い鞄を見る。
「これ、売るの?」
「貸す。行商人の人に一月使ってもらう」
「行商人?」
「ベルクさんって人。ハンスさんも知ってる」
母さんの表情が少し変わった。
「レインも一緒に行くの?」
「行かないよ」
「あら、そう」
「何その安心した顔」
「してないわよ」
「してたよ」
絶対してた。
俺が十三歳になって、昔より自由に市場を歩くようになっても、母さんにとってはまだ子供らしい。
まあ実際、見た目は十三歳なんだけど。
「商品だけ行く」
「どこまで?」
「エルダ。そのあとベルクさんは別の町にも行くって」
「ずいぶん遠くまで行くのね」
「うん」
そう答えながら、俺も背負い鞄を見る。
明日の朝には、こいつはこの家どころかリーネからもいなくなる。
なんだか妙な感じだ。
◇ ◇ ◇
翌朝。
市場は普段より少し静かだった。
店を開け始めている人はいるけど、昼間ほど人はいない。朝の冷たい空気の中、ベルクの荷馬車だけがすでに出発できる状態になっていた。
「おはよう」
「遅えぞ」
「時間通りだよ」
「行商人は時間より早く動くんだ」
「知らないよ、そんなルール」
「今知ったな」
ベルクは朝から元気だった。
荷馬車にはリーネで仕入れた荷物がいくつも積まれている。布、木工品、それから俺には中身の分からない箱や袋。
その中に、昨日買い取ってもらった石鹸三個も入っている。
「鞄持ってきたぞ」
「お、それか」
俺が渡すと、ベルクはすぐに受け取った。
表を見る。
底を見る。
肩紐を引っ張る。
「ちゃんとしてんな」
「ダリオさんに言ったら喜ぶよ」
「革屋だったな」
「うん。戻ってきたら一回ダリオさんのところにも持っていくから」
「俺が返すんじゃねえの?」
「俺が持ってく」
「そこは働くんだな」
「そこはね」
ベルクが笑いながら背負い鞄を背負った。
「どう?」
「まだ分からん」
「ちょっとくらい感想ない?」
「背負って十秒だぞ」
「そっか」
「お前、結果を急ぎすぎだ」
また言われた。
◇ ◇ ◇
「これも」
昨日書いた紙を渡す。
「何だ?」
「聞きたいこと」
「多くねえか?」
「全部じゃなくていいから」
「肩、紐、底、荷物、雨……」
ベルクが読み進める。
そして最後で止まった。
「『自分の金で欲しいと思ったか』」
「そこ大事」
「貸した相手に聞く質問か?」
「無料だから良かったって言われても分からないでしょ」
「まあな」
「だから25リル払ってでも欲しいか、戻ってきたら教えて」
「25リルか」
ベルクがもう一度、背中の鞄を触る。
「安くはねえな」
「だから試してほしい」
「分かったよ。覚えてたらな」
「紙なくさないでね」
「鞄に入れとく」
「それならなくさない」
「まだそこまで信用してねえぞ、この鞄」
「一月後には信用してるかも」
「商売上手になってきたな」
褒められた。
たぶん。
◇ ◇ ◇
出発の準備が終わる。
ベルクが御者台へ乗った。
俺は荷馬車の横に立ち、積まれた荷物を見る。
石鹸三個。
背負い鞄一個。
どちらも、俺が八歳の頃に始めたものだ。
あの頃は、一個売れるだけで大騒ぎしていた。
それが今から町の外へ行く。
「じゃあ、一月くらいしたらな」
「石鹸、売ってきてね」
「努力はする」
「できれば高く」
「もう買い取ったんだから、いくらで売るかは俺の勝手だ」
「あ、そうだった」
「しっかりしろよ」
ベルクが笑う。
「鞄もちゃんと使ってね」
「邪魔じゃなければな」
「そこも感想だから正直でいいよ」
「分かった分かった」
馬がゆっくり歩き始める。
荷馬車の車輪が音を立て、市場から離れていく。
俺はその後ろ姿を見送った。
◇ ◇ ◇
「……行ったな」
別に俺が旅立ったわけじゃない。
ベルクがいつもの仕事に出ただけだ。
それなのに、妙に気になる。
石鹸はエルダで誰かが買うのか。
いくらで売れるのか。
背負い鞄は三日の道中でどうなるのか。
肩は痛くならないか。
雨は降るのか。
そのあとベルクはどんな町へ行くのか。
考えていると、知りたいことがどんどん増えてくる。
俺はリーネの外をほとんど知らない。
地名なら聞いたことがある。
王都があることも知っている。
でも、そこで何がいくらで売られていて、どんな人が暮らしていて、何が足りなくて、何が余っているのか。
何も知らない。
「外か……」
五年前なら、たぶん最初に考えたのは金だった。
町が増えれば客が増える。
客が増えれば儲かる。
今ももちろん、それは考えている。
かなり考えている。
でも、それだけじゃなかった。
ベルクが話していた町を、自分でも見てみたい。
知らない市場を歩いてみたい。
そこで売られている物を見たい。
そんな気持ちが、少しずつ混ざっている。
「レイン」
後ろから声がした。
振り返ると、店を開け始めたハンスが立っていた。
「いつまで見送ってるんだ?」
「今帰るところ」
「そうか」
ハンスも遠ざかる荷馬車を見る。
「初めてだからな」
「何が?」
「自分の商品が町の外へ行くのが」
「……まあね」
「一月なんてすぐだ」
「俺には長いよ」
「その間に別のことでも考えてろ」
「もう考えてる」
「だと思った」
ハンスが笑って店へ戻っていく。
俺も家へ帰ることにした。
振り返ると、ベルクの荷馬車はもう小さくなっていた。
俺は行かない。
今回は。
でも、石鹸と背負い鞄は行くらしい。
「……こいつら、俺より世界広いじゃん」
ちょっと悔しい。
そして、ちょっと羨ましかった。




