行商人なら、ちょうどよくない?
翌朝。
朝食を食べ終えた俺は、昨日の帳面をもう一度開いた。
『背負い鞄――ベルクに試してもらえるか確認』
昨日書いた文字は、当然そのまま残っている。寝て起きたら急にどうでもよくなっている可能性も少し考えたけど、そんなことはなかった。
むしろ、昨日より試したくなっている。
「母さん、ダリオさんのところ行ってくる」
「今日は革屋さん?」
「うん」
「昨日はハンスさんのところに二回行ってなかった?」
「必要な用事です」
「別に怒ってないわよ」
母さんが笑う。
昔は俺が市場へ行くと言うたびに「何を買うつもり?」と警戒されていた。最近は少しだけ信用されているらしい。
「お金は?」
「持った」
「いくら?」
「必要な分だけ」
「それが一番心配なのよ」
信用されていなかった。
◇ ◇ ◇
ダリオの工房へ着くと、中から革を叩く音が聞こえていた。
「おはようございます」
「おう、レインか」
作業台の向こうからダリオが顔を上げる。
五年前と比べても大きな変化はない。相変わらず腕は太いし、声も大きい。ただ、前は一人だった弟子が今は二人になっていて、工房そのものも少し広くなっている。
「今日は修理か?」
「違う」
「新しい鞄か?」
「違う」
「じゃあ何だ?」
「相談」
「一番面倒なやつじゃねえか」
「帰ろうかな」
「冗談だ。座れ」
ダリオが笑いながら椅子を足で押してくる。
こういう雑なところも変わっていない。
「背負い鞄のことなんだけど」
「やっぱり鞄じゃねえか」
「買いに来たわけじゃないって意味」
「ああ、そういうことか」
俺は昨日ベルクと取引した話をした。
行商人。
次はエルダ。
試しに石鹸を三個持っていってもらう。
そしてベルクがハンスの店で背負い鞄に興味を示したこと。
ダリオは途中から作業を止め、腕を組んで聞いていた。
「行商人ねえ」
「相性良さそうじゃない?」
「悪くはねえな」
「でしょ?」
「でも、お前が最初に持ってきた頃のやつをそのまま渡すのは嫌だぞ」
「え?」
予想していなかった言葉が返ってきた。
◇ ◇ ◇
ダリオは工房の奥から一つの背負い鞄を持ってきた。
見慣れている。
でも、よく見ると少し違う。
「これ、ハンスさんの店にあるやつと同じ?」
「基本はな」
俺が最初に考えた背負い鞄は、二本の肩紐で背負えて、中をいくつかに分けられるものだった。そこから使った人の意見を聞きながら、ダリオが少しずつ直してきた。
肩紐は昔より幅が広い。
底の革も厚くなっている。
よく擦れる部分には別の革が重ねられていた。
「ここも変わってる?」
「留め具か? 前のより開け閉めしやすくしてある」
「いつ変えたの?」
「お前が毎回見に来なくなってから」
「教えてよ」
「使ってる連中と話しながら変えただけだ。わざわざ呼ぶほどでもねえだろ」
なんか寂しい。
俺が考えた商品なのに、俺の知らないところで成長している。
でも――。
「……これが正しいんだよな」
「何が?」
「いや、何でもない」
俺がいなくても改良される。
それはたぶん、かなりいい状態だ。
◇ ◇ ◇
「今これ、作るのにいくらかかる?」
「いきなり金の話か」
「大事でしょ」
「まあな」
ダリオは少し考えてから、材料の値段が昔より上がっていることを教えてくれた。
革。
金具。
糸。
全部が五年前と同じ値段ではない。
ただ、作る側も慣れた。
最初はダリオが一つずつ手探りで作っていたけど、今は弟子にも任せられる工程が増えている。まとめて作るなら、昔より手間も減っているらしい。
「今ハンスに渡してる分なら、一個17リルだ」
「17リル」
「三個以上まとめてならな。一個だけ急ぎで作れってなら、もう少しもらう」
「店では25リル」
「そう聞いてる」
差は8リル。
もちろん全部が俺の取り分ではない。ハンスの販売分もあるし、俺の分もある。
でも、これなら外へ持っていく余地はありそうだ。
「ベルクさんにも利益が必要なんだよな……」
「そいつに売らせるのか?」
「まだ分からない。まず使ってもらおうかなって」
「使わせる?」
「行商人なら何日も移動するでしょ。荷物も持つし」
「なるほどな」
ダリオの顔が少し変わった。
職人の顔。
こうなると話が早い。
◇ ◇ ◇
「そいつ、普段何背負ってる?」
「昨日は普通の袋みたいなのだったかな。荷物の大半は荷馬車だけど」
「なら、何入れて歩くか聞け」
「うん」
「一日どれくらい背負うかもな」
「うん」
「雨の日は?」
「……聞いてない」
「道は?」
「聞いてない」
「体格は?」
「俺より大きい」
「雑だな」
昨日と同じことを言われた。
商売をするたびに質問が増えていく。
「行商人なら、普通の客より雑に使うだろ」
「雑って言い方」
「褒めてんだよ。毎日使うやつの方が試すにはいい」
確かに。
町の中で仕事に使う人より、何日も歩くベルクの方が鞄にかかる負担は大きい。
もし一月使って問題が出なければ、それ自体がかなりいい結果になる。
「一月後に戻ってくる予定なんだ」
「ちょうどいいじゃねえか」
「だよね」
俺とダリオが同時に笑った。
◇ ◇ ◇
「じゃあ一個貸してくれる?」
「なんで俺がタダで出すんだよ」
「試験だから」
「俺にも得があるなら考える」
「改良点が見つかる」
「今のでも普通に売れてる」
「行商人が一月使った感想が聞ける」
「……それはちょっと欲しいな」
食いついた。
「ほら」
「でも丸々タダは嫌だ」
「じゃあどうする?」
「お前も出せ」
「え?」
「試したいのはお前だろ」
なるほど。
こういうところは職人というより、ちゃんと商売人だ。
「いくら?」
「半分ずつでどうだ」
「17リルの?」
「一個だけだから17じゃ作らん」
「あ、そうだった」
「試験用なら……20リルでいい」
半分で10リル。
払えない金額ではない。
今の商売用の金から出せる。
でも――。
「ちょっと待って」
「何だ?」
「ベルクさんが使うって決まってない」
「お」
「先に聞いてくる」
ダリオがニヤッとする。
「何?」
「いや、成長したなと思って」
「十三歳だからね」
「昔ならもう金置いてただろ」
「……それは言わない約束で」
「約束してねえよ」
危なかった。
10リル。
払えるからって、先に払う必要はない。
ベルクが断ったら無駄になる。
こういう小さいところから貯金は守られるのだ。
◇ ◇ ◇
「もし使ってくれるなら、何を聞けばいい?」
俺が尋ねると、ダリオは指を折りながら考えた。
「肩が痛くならねえか。紐が緩まねえか。底が擦れねえか。留め具が邪魔じゃねえか。荷物の出し入れはどうか」
「結構あるな」
「あと雨だな」
「革だもんね」
「多少なら平気だが、ずぶ濡れにして放っておけば傷む。そこは鞄の欠点っていうより革の扱いだ」
「なるほど」
「それと、一番大事なのは――」
ダリオが鞄を持ち上げる。
「また欲しいと思うか」
「……それ、職人の質問?」
「商売の質問だ」
笑った。
確かに一番大事だ。
どれだけ丈夫でも、どれだけ便利でも、次に金を払って買いたいと思われなければ商品としては弱い。
「それ聞く」
「ちゃんと本音で答えさせろよ」
「タダで貸したら甘くならない?」
「だからそこも考えろ」
また宿題が増えた。
◇ ◇ ◇
工房を出る前に、俺はもう一度背負い鞄を見る。
「これ、行商人向けにもっと大きくしたりできる?」
「できるぞ」
「荷物いっぱい入るように」
「作るだけならな」
「じゃあ――」
「待て」
ダリオが手を上げた。
「何?」
「まず今のを使わせるんだろ?」
「はい」
「感想聞いてから考えろ」
「……はい」
先回りされた。
「お前、五年経ってもそこは変わらんな」
「思いついちゃうんだから仕方ないじゃん」
「思いつくのはいい。作るのは後にしろ」
「名言っぽい」
「金取るぞ」
「いらないです」
ダリオが大笑いする。
俺も笑いながら工房を出た。
◇ ◇ ◇
市場へ向かいながら、頭の中を整理する。
今の背負い鞄は、三個以上ならダリオから一個17リル。
ハンスの店では25リル。
ベルクに試してもらうなら、一個だけ試験用として20リル。
ダリオと俺で半分ずつなら、俺の負担は10リル。
ただし、まだ払わない。
まずベルクに聞く。
一月使ってくれるか。
普段何を入れるのか。
どれくらい背負うのか。
戻ってきたら感想を聞かせてもらえるか。
そして何より。
実際に使って、欲しいと思うか。
「行商人なら、ちょうどいいよな」
毎日荷物を扱って、町から町へ移動する。
そのベルクが便利だと思えば、同じ仕事をしている人にも売れるかもしれない。
逆にベルクがいらないと言うなら、その理由を聞けばいい。
石鹸三個は、外で売れるか試すため。
背負い鞄一個は、外を歩く人に使えるか試すため。
同じ町の外でも、試すことが違う。
なんだか急に、商売の範囲が広がった気がする。
まだ俺自身は、リーネから一歩も出ていないのに。
「……面白くなってきた」
ベルクが出発するまで、あと数日。
その前に話をつける。
俺は少しだけ歩く速度を上げた。
急いで金を使うつもりはない。
でも、商売の話なら早い方がいい。
そこはたぶん、浪費とは別だ。




