俺のお金、使ってなくない?
翌日。
俺は朝からハンスの店にいた。
「早いな」
「昨日、来ていいって言ったじゃん」
「好きにしろとは言ったが、開店直後から来るとは思わなかった」
「今日来るんでしょ?」
「来るとは言っていた」
「何時?」
「知らん」
「聞いてないの?」
「普通は客に『明日は何時何分に来ますか』とは聞かない」
それもそうか。
でも、こっちとしては大問題だ。
三人目が注文してくれれば、三個分の手付けが合計30リルになる。その30リルをダリオへ渡せば製作を始めてもらえて、残り18リルは完成後に払えばいい。
つまり今日、背負い鞄の商売が本当に動き始めるかもしれない。
◇ ◇ ◇
「そこにずっと立っているつもりか?」
「邪魔?」
「邪魔」
「じゃあこっち」
「見本の横はもっと邪魔だ」
「どこにいればいいんだよ」
結局、店の奥に置かれた椅子を借りた。
そこからなら入口も見えるし、試作品も見える。客の邪魔にもならない。
完璧な場所だ。
「ハンス」
「なんだ?」
「まだ?」
「まだ店を開けてから大して経っていない」
「でも来るって言ってたんでしょ?」
「君はもう少し待つことを覚えろ」
最近、それもよく言われる。
◇ ◇ ◇
最初に来たのは、年配の女性だった。
糸と針を買って帰った。
次は若い男。
鍋を見て、何も買わずに帰った。
その次は二人組の女性。布をかなり長い時間選んでいたけど、背負い鞄には一度も近づかなかった。
俺は椅子に座ったまま、店に人が入ってくるたびに顔を上げる。
「落ち着かないな」
「静かにしてるじゃん」
「体はな。顔がうるさい」
「顔がうるさいって何?」
ハンスが笑っている。
そんなに分かりやすいだろうか。
◇ ◇ ◇
しばらくして、ようやく一人の男が試作品の前で止まった。
昨日の人か?
俺はハンスを見る。
ハンスは首を横に振った。
違うらしい。
男は札を読み、試作品を少し触ったあと、そのまま離れた。
「惜しい」
「何も惜しくないだろう」
「触ったじゃん」
「触っただけだ」
「そこから始まるんだよ」
「商人みたいなことを言うようになったな」
「でしょ?」
「褒めてはいない」
なんでだよ。
◇ ◇ ◇
昼が近くなってきた。
まだ来ない。
俺は椅子から立ち上がり、試作品のところまで行く。
「本当に今日って言った?」
「言った」
「聞き間違いじゃなく?」
「私は君より耳がいいと思うぞ」
「年齢なら俺の方が――」
言いかけて止めた。
危ない。
ハンスが不思議そうに俺を見る。
「なんだ?」
「八歳だから耳いいよ」
「何を張り合っているんだ?」
「なんでもない」
最近、油断すると前世の年齢で考えてしまう。
気をつけよう。
◇ ◇ ◇
「レイン」
「ん?」
「腹は減っていないのか?」
「減ってる」
「なら昼でも食べてこい」
「その間に来たら?」
「注文を受けておく」
「でも俺も話したい」
「何を?」
「なんで欲しいと思ったのかとか、何に使うのかとか」
ハンスが少しだけ考える。
「それなら意味はあるな」
「でしょ?」
「ただし、腹が減って倒れられても困る」
「そこまでじゃないよ」
「八歳だろ」
「こういうときだけ子供扱いするよね」
俺は迷った末、店を出なかった。
三人目の注文。
それを自分で見届けたい。
◇ ◇ ◇
結局、その男が来たのは昼を少し過ぎてからだった。
四十歳前後くらいで、厚手の上着を着ている。腰には小さな道具袋があり、手は少し荒れていた。
「あ」
俺が小さく声を出す。
ハンスが俺を見る。
「昨日の?」
「ああ」
来た。
男は店に入ると、真っすぐ試作品のところへ向かった。
「まだあるな」
「見本だからな」
ハンスが答える。
「昨日帰ってから考えたんだけどよ」
男が試作品を持ち上げる。
俺は少し離れた場所で黙って見ていた。
「やっぱりこれ、仕事で使えそうなんだよな」
「何の仕事?」
我慢できずに聞いてしまった。
男が俺を見る。
「この鞄考えた子か?」
「そうです」
「木工の手伝いをしてる。細かい道具を持って移動することが結構あってな」
「じゃあ外の収納も使えそう?」
「そこが気に入った」
男は外側の収納を開く。
「よく使う物だけここに入れとけば、毎回全部ひっくり返さなくて済むだろ?」
「そう!」
分かってる。
この人、分かってる。
俺が欲しかった使い方をしてくれそうだ。
◇ ◇ ◇
「それで」
男は試作品を戻した。
「25リルだったな?」
「はい」
「注文できるんだよな?」
「できます!」
即答した。
ハンスが横で笑っている。
「完成まで少し待ってもらうことになる」
「ああ。昨日聞いた」
「注文するときに10リル預かって、完成したときに残り15リルです」
「それも聞いた」
話が早い。
「じゃあ頼む」
「ありがとうございます!」
三人目。
来た。
ついに来た。
◇ ◇ ◇
ハンスが男の名前を聞き、木板に注文を記録する。
名前はオルド。
背負い鞄一個。
販売価格25リル。
手付け10リル。
ハンスは前の二人と同じように、製作を始める前なら取り消した場合に手付けを返すこと、製作開始後に客側の都合で取り消した場合は返さないこと、こちらの都合で作れなければ返金することを説明した。
「分かった」
オルドは迷うことなく10リルを渡した。
これで三人分。
30リル。
「レイン」
「ん?」
「顔」
「何?」
「にやけすぎだ」
「いいじゃん!」
嬉しいんだから仕方ない。
◇ ◇ ◇
「そうだ。使うなら一つ聞いていいですか?」
俺はオルドに声をかけた。
「なんだ?」
「今の仕事道具って、どうやって持ってる?」
「これと、もう一個大きい袋だな」
オルドが腰の道具袋を見せる。
「大きい方は肩にかけてる。仕事場が近けりゃいいけど、歩くと結構邪魔なんだよ」
「重い?」
「重いな。金槌なんかまで入れると肩が痛くなる」
「この背負い鞄には、あんまり重い物を詰めすぎないでくださいね」
「駄目なのか?」
「普通の荷物なら大丈夫。でも、どこまで重くしても平気かまでは試してないから」
俺が答えると、ハンスが少し意外そうな顔をした。
「なんだよ?」
「いや。ちゃんと分からないことを分からないと言えるようになったなと思ってな」
「俺をなんだと思ってるの?」
「最初に石鹸を持ってきた八歳」
「八歳なのは変わってない!」
オルドが笑った。
俺もつられて笑う。
◇ ◇ ◇
オルドが帰ると、俺はすぐハンスのところへ行った。
「30リル」
「ああ」
「三人分」
「ああ」
「ダリオのところ行こう」
「今すぐか?」
「今すぐ!」
「昼飯は?」
「あと!」
「まだ食べてなかったのか」
ハンスが呆れる。
「先に食べてこい」
「でもダリオに早く――」
「腹を空かせた八歳を連れ回したと、エレナに知られたくない」
「母さんそんなに怖くないよ」
「君にとってはな」
何があったんだろう。
ちょっと気になる。
◇ ◇ ◇
結局、俺は近くでパンを一個買って食べた。
2リル。
……ではなく。
「待って」
俺は硬貨を出しかけて止まった。
今の商売用の金は13リル。
ここから2リル使ったら11リルになる。
別に払えない金額じゃない。
でも、なんとなく嫌だった。
「どうしたの?」
パン屋の店員が不思議そうに見る。
「…………普通のパン一個ください」
「2リルだよ」
「はい」
結局買った。
腹は減る。
八歳の体は商売の都合を考えてくれない。
これで商売用として持っている金は11リル。
いや。
「これ、商売用から出していいのか?」
パンを食べながら考える。
駄目な気がする。
今まで商売に動かせる金と呼んでいたけど、その中には俺が自由に使える金も混ざっている。
先に預かった30リルとは、明らかに意味が違う。
「……あとで父さんに聞こう」
金の分け方。
そろそろちゃんと考えた方がいいかもしれない。
◇ ◇ ◇
昼を食べたあと、俺とハンスはダリオの工房へ向かった。
「ハンスも来るの?」
「金を預かっているのは私だからな」
「30リル持ってる?」
「持っている」
「見せて」
「嫌だ」
「なんで?」
「君が触りたそうだから」
「触らないよ!」
ハンスは笑っている。
俺だって、先にもらった金は自分の金じゃないって分かってる。
たぶん。
◇ ◇ ◇
ダリオの工房へ着くと、本人は奥で革を切っていた。
「おう」
「三個!」
「なんだ急に」
「注文入った!」
ダリオの手が止まる。
「三個?」
「三個」
「25リルで?」
「全部!」
俺が答えると、ダリオがにやっと笑った。
「やるじゃねえか」
「でしょ?」
「見本置いて何日だ?」
「四日くらい」
「悪くねえな」
ダリオは素直に喜んでくれた。
自分が作った物が売れるんだから、ダリオにとっても嬉しいんだろう。
◇ ◇ ◇
「約束通り、手付けが三人分で30リル」
ハンスが小さな袋を出して、作業台に置いた。
「残り18リルは三個完成後。それでよかったな?」
「ああ」
ダリオが袋を受け取り、中を確認する。
「これだけありゃ材料は押さえられる。明日から始めるぞ」
「今日じゃないの?」
「今やってる仕事がある」
「そっか」
「お前の鞄だけ作ってるわけじゃねえからな」
「分かってるって」
ダリオは笑いながら、注文の内容をもう一度確認する。
今の試作品と同じ形。
三個。
大きな変更はしない。
完成まで五日ほど。
◇ ◇ ◇
「そういえば、一人は木工の仕事で使うって言ってた」
「へえ」
「金槌とかも入れるかもしれない」
「それは聞いといてよかったな」
ダリオが少し考える。
「底の補強、ほんの少し見直すか」
「値段変わる?」
「今ある材料でできる範囲なら変えねえよ。ただし、何でも入れていい鞄にはできねえからな」
「それは客にも言った」
「ならいい」
ダリオが頷いた。
「売ったあとに『こんな使い方するとは思わなかった』じゃ遅い。どう使うつもりなのか聞くのは大事だぞ」
「なるほど」
また一つ覚えた。
商品を作る前に、使う人の話を聞く。
当たり前みたいだけど、意外と忘れそうになる。
◇ ◇ ◇
話が終わって、俺は作業台の上を見る。
30リルは、もうダリオの手元にある。
俺は自分の革鞄を開いた。
中には11リル。
貯金は別に5リル。
「…………あれ?」
「どうした?」
「俺のお金、使ってなくない?」
ダリオとハンスが顔を見合わせる。
「何を今さら」
「いや、だって三個作るんだよ?」
「ああ」
「48リルかかるんだよ?」
「ああ」
「俺、払ってない」
「客が先に払った30リルで材料を用意して、残り18リルは完成後に払う約束だろ」
「分かってる。でも……」
改めて考えると、すごい。
今までは何かを売るためには、まず自分の金で材料を買うものだと思っていた。
石鹸もそうだった。
油を買って、作って、それから売った。
でも今回は違う。
◇ ◇ ◇
まず見本を作った。
それを見て欲しいと言ってくれた人から注文を受けた。
先に少しだけ金を預かって、その金を作る人へ渡した。
完成したら残りを受け取り、そこから残りの製作代を払う。
俺自身の金は動いていない。
「これなら、金なくても商品増やせるじゃん」
「言い方」
ハンスがすぐ訂正する。
「また?」
「金がなくても、ではない。先に払ってくれる客と、あとで受け取ることを了承してくれる職人がいるからできるんだ」
「信用があるから?」
「そういうことだ」
ダリオも頷いた。
「俺だって、注文が一件も入ってないのに『三個作ってくれ、残りは売れたら払う』って言われたら断るぞ」
「確かに」
「今回は三個とも買う奴が決まってる。だから待てる」
なるほど。
金がなくてもいいんじゃない。
金が入ってくることが、かなり確かな状態になっているから先に動ける。
◇ ◇ ◇
「信用って便利だな」
「その言い方はやめろ」
「なんで?」
「便利な道具みたいに思うと、いつか雑に扱うからだ」
ハンスの声が少し真面目になる。
「金は使っても、また稼げる。だが信用は、一度なくすと戻すのに時間がかかる」
「…………うん」
「三人の客は、まだ存在しない商品に10リルずつ払った。ダリオは残り18リルを待つ。それだけ信用されているなら、約束通りにやれ」
「分かった」
「まあ、作るのは俺だけどな」
ダリオが笑う。
「そこ!」
「お前はちゃんと売れ」
「売ったよ!」
「じゃあ次も売れ」
簡単に言うな。
◇ ◇ ◇
工房を出るころには、なんだか少しだけ景色が違って見えた。
俺が持っている金は11リル。
貯金は5リル。
合わせても16リルしかない。
それなのに、ダリオの工房では合計75リルで売れる予定の背負い鞄三個が作られ始めようとしている。
もちろん、75リル全部が俺のものになるわけじゃない。ダリオへ48リル払えば、商品そのものの売買で残るのは27リルだ。
それでも、俺の11リルは使っていない。
「……これ、増やせるんじゃない?」
俺が呟くと、隣を歩いていたハンスが嫌そうな顔をした。
「何を考えた?」
「まだ何も」
「その顔は何か考えている顔だ」
「例えば三個売れたら、次は六個とか」
「まず三個を無事に渡せ」
「はい」
先走った。
◇ ◇ ◇
でも、少しだけ分かってきた。
自分で全部作らなくてもいい。
自分の金を全部先に出さなくてもいい。
作る人と、売る人と、買う人。その間をちゃんとつなげれば、俺一人ではできなかった商売が動き始める。
前世の俺が欲しかったのは、こういうものだったのかもしれない。
自分が働いている間だけ金が入るんじゃなくて、仕組みそのものが動いて金を生む。
まだ俺が走り回ってるけど。
全然スローライフじゃないけど。
方向は合ってる。
「ハンス」
「なんだ?」
「俺、商人になってきた気がする」
「まず昼飯代と商売の金を分けるところからだな」
「…………」
忘れてなかったか。
家に帰ったら、父さんに相談しよう。
金の分け方。
たぶん今の俺には、背負い鞄の収納より先に必要なものだ。




