そろそろ、商売って呼んでいい?
現在の所持金は2リル。
過去最高は65リルだった。
「…………」
数字だけ見ると、完全に事業に失敗した人なんだよな。
でも違う。腰には50リルの革鞄があり、手元には油と果実の皮、それにパン屋から手に入るようになった灰がある。
そして何より、石鹸を待っている客がいる。
「つまり、金がなくなったんじゃない。金が形を変えただけだ」
「…………」
前世でも似たようなこと言ってたな。
28,000円のコーヒーミルを買ったあと、『金がなくなったんじゃない。資産になった』とか。
使ったの一回だけど。
「今回は違う」
今回は本当に売れる。
たぶん。
◇ ◇ ◇
まず作るのは四個。
ミラの店で待っている客の分だ。
ハンスの店にはまだ三個残っている。次の注文も確定していない以上、今は先に約束している客を優先した方がいい。
油だって無限にあるわけじゃない。使える材料を考えながら作らないと、また「材料がありません」が始まる。
「四個なら余裕だな」
少し前まで、一個作るだけでも大騒ぎしていた。
固まらない。柔らかい。臭い。形が悪い。そもそも売れるかも分からない。
それが今では、天秤で量を揃え、木板の記録を確認し、型を使って同じくらいの大きさに仕上げられるようになった。香りも果実の皮を使った、いつものものだ。
パン屋からもらった灰も、試した範囲では問題なさそうだった。
「慣れってすごいな」
もちろん油や灰の状態で微妙に変わるから、毎回まったく同じにはならない。それでも最初の頃とは比べものにならないくらい安定している。
四個を仕込み終え、俺はしばらくそれを眺めた。
「…………普通にできた」
何も起きない。
「ちょっと物足りないな」
「失敗したいの?」
近くにいたエレナに聞かれた。
「絶対嫌」
「じゃあ喜びなさい」
「はい」
母は正しい。
◇ ◇ ◇
数日後。
出来上がった四個を持ってミラの店へ行く。
「できたよ」
「待ってた」
ミラは石鹸を確認すると、店の奥から小さな木板を出してきた。
「なにそれ?」
「誰が欲しいって言ってたか書いてあるの」
「…………」
俺はミラを見る。
「優秀すぎない?」
「忘れたら困るでしょう?」
「うちで働かない?」
「ここがうちの店なんだけど」
そうでした。
四人のうち、二人はその日のうちに取りに来た。
一個5リル。そこからミラに1リルを渡し、俺に残るのは4リル。二個売れたので、今回は8リルだ。
残り二個は、客が来るまで預かってもらう。
「はい、これ」
ミラから8リルを受け取る。
所持金は2リルから10リルになった。
「二桁……!」
「そんなに嬉しい?」
「一時期65リルあったから」
「じゃあ、まだ全然戻ってないじゃん」
「言うな」
今から増えるんだよ。
◇ ◇ ◇
その二日後、またミラの店へ行くと、残りの二個も売れていた。
さらに8リル。
これで所持金は18リル。
俺は腰につけた革鞄を開いた。三つに分かれた収納が、ようやく本来の役目を果たすときが来た。
「何してるの?」
「金を分ける」
「へえ」
興味なさそうだな。
まず、次の油を買うための11リル。これは仕入れ用として触らない。
残りは7リル。
「…………貯金、いくらにする?」
できれば全部入れたい。でも、自由に使える金が0リルになるのも少し怖い。
いや、そもそも自由に使える金なんて必要か?
食事は家で出る。家賃もない。服だって今のところ親が用意してくれる。
「八歳って、固定費ほぼ0じゃん」
「急に何?」
「なんでもない」
前世の俺が聞いたら泣いて喜びそうだ。
少し悩んだ末、俺は残った7リルのうち5リルを、貯金用の場所へ入れた。
「…………入った」
「何が?」
「貯金」
「よかったね」
「5リル」
「うん」
「もうちょっと感動してくれてもよくない?」
「だってレインのお金でしょう?」
「それはそうなんだけど」
温度差がすごい。
でも俺にとって、この5リルは結構大きかった。
◇ ◇ ◇
前世。
貯金しようと決めて、専用の貯金箱まで買った。
それなのに、結局一円も入れないまま死んだ。
子供の頃のお年玉なんかを一時的に残していたことはあった気がする。でも、自分で稼いだ金を「使わない金」として明確に分けたのは、もしかすると初めてかもしれない。
「5リルか」
目標は100万リル。
ということは、あと999,995リル。
「…………」
やめよう。
前にも学んだ。
目標までの残額は、いちいち数えない方が精神にいい。
◇ ◇ ◇
さらに数日後。
ハンスの店へ行くと、前回三個残っていたはずの棚が空になっていた。
「…………ない」
「来たか」
店の奥にいたハンスがこちらを見る。
「ハンスさん。石鹸は?」
「売れた」
「全部?」
「全部だ」
「よし!」
「だから店で叫ぶな」
「すみません」
十個、完売。
しかも、それだけではなかった。
「二人、また買いに来たぞ」
「前に買った人?」
「ああ」
リピーター。
来た。
俺は思わずハンスの方へ一歩近づいた。
「それで、次は何個?」
「気が早いな」
「でも仕入れるんでしょ?」
「まあな」
ハンスは少し考えてから答えた。
「十五個」
「…………」
増えた。
前回の十個から、十五個。
「値段は?」
「前と同じなら一個3リルだ」
前回の話を思い出す。
最初の十個が売れたら、次の数量と値段は改めて相談することになっていた。
そして結果は完売。
リピーターまで出ている。
だったら。
「一個3リルより、ちょっと上げられない?」
「ほう」
ハンスの目が少し変わった。
「理由は?」
「十個全部売れた。それに、もう一回買いに来た人もいるんでしょ?」
「ああ」
「それなら、前より売れるって分かってる」
自分で言いながら少し緊張する。
でも、ここで何も言わなければ前と同じだ。
ハンスは少し黙ったあと、口を開いた。
「では十五個で50リルならどうだ」
「50?」
一個3リルなら、十五個で45リル。
今回は5リル増える。
一個あたりで考えれば、3リルより少し高い。
「いい」
「なら決まりだ」
「ただし」
今度は俺が言う。
ハンスが眉を上げた。
「十五個全部を同じくらいの大きさと香りで作るには、少し時間がかかる」
「どれくらいだ?」
「…………」
分からない。
でも、商売なんだから「分かりません」で終わらせるのも違う。
これまで作ったときの日数を思い返す。
「一週間くらい」
「分かった。遅れそうなら先に言え」
「うん」
「それと前と同じだ。持ってきた物を確認して、問題なければ買う」
「了解」
十五個。
50リル。
前回より、取引が一段大きくなった。
◇ ◇ ◇
店を出てから、必要なものを頭の中で整理する。
十五個作るなら、今ある油だけでは足りない。灰もパン屋からもう少し集めてもらう必要があるし、果実の皮もミラに確認しておいた方がいい。
しかも今回は、一週間という約束まである。
「忙しくなってきたな……」
俺、八歳なんだけど。
本来なら木の棒を振り回したり、虫を捕まえたり、川で遊んだりする年齢じゃないだろうか。
まあ。
川は一回死にかけてるから、しばらく近づきたくないけど。
◇ ◇ ◇
家へ帰り、改めて革鞄の中を確認した。
仕入れ用に11リル。
貯金が5リル。
自由に使える金が2リル。
合計18リル。
そして十五個を無事に納品できれば、50リルが入ってくる。
俺は木板に数字を書きながら、これまでの流れを振り返った。
材料を仕入れて、作って、売る。売った金から次の材料を仕入れて、残った分の一部を貯める。
最初は一個3リルで石鹸が売れただけだった。
それが今では、パン屋に商品を置いてもらい、雑貨屋にはまとめて卸している。油を買う店があり、果実の皮と灰を提供してくれる場所までできた。
まだ小さい。
利益だって大したことはない。
でも。
「そろそろ、商売って呼んでいいよな?」
返事をする人はいない。
だから勝手に決めた。
「よし。商売です」
俺、八歳。
貯金、5リル。
目標、100万リル。
そして初めての商売、清めの石鹸。
どうやら、ちゃんと続きそうです。




