八歳、所持金ゼロからの再スタート
転生した。
どうやら、本当に。
あれから一晩経ったが、目が覚めても俺はレイン・アルトのままだった。
小さな手。
小さな足。
鏡に映っているのは、少しくすんだ金髪に灰色の瞳をした八歳の少年。
昨日はどこかで、寝たら元に戻るんじゃないかと思っていた。
そんな都合のいいことはなかったらしい。
「レイン、ご飯よ」
「はーい」
返事をしてから、少しだけ変な気分になる。
この声にもまだ慣れない。
階段を降りると、小さな食卓に朝食が並んでいた。
硬そうな黒パン。
野菜の入ったスープ。
それから、薄く切られたチーズが二枚。
「今日はちゃんと食べられそう?」
母――エレナが心配そうに俺を見る。
「ああ……うん。大丈夫」
「本当に?」
「大丈夫だって」
「まだ川には近づいちゃ駄目よ」
「分かってる」
どうやら八歳のレインは、なかなかのやんちゃ坊主だったらしい。
川辺で友達と遊び、濡れた岩から足を滑らせ、そのまま川へ。
助け出されたときには意識がなく、それから三日間眠り続けていた。
そして目覚めたら、中身が俺になっていた。
元のレインがどうなったのかは分からない。
考えても答えは出なかった。
「お、食えるようになったか」
声と一緒に、父親が部屋へ入ってきた。
ガルド・アルト。
三十代後半。
大柄で、腕が太い。
職業は町の家具職人。
椅子や机、棚なんかを作って暮らしている。
「父さん」
「まだ顔色は良くねえな」
そう言いながら、ガルドが俺の頭をぐしゃぐしゃと撫でる。
「やめろって」
「それだけ言えりゃ大丈夫だ」
豪快に笑って椅子に座る。
この父親も。
母親も。
俺にとっては昨日会ったばかりの他人だ。
なのに不思議と、完全な他人という感じもしない。
レインの記憶が残っているせいだろう。
父親の大きな手も。
母親のスープの味も。
俺は知っている。
なんとも妙な感覚だった。
◇ ◇ ◇
朝食を終え、自分の部屋へ戻る。
さて。
「まずは現状確認だな」
第二の人生の目標は決まっている。
金を貯める。
たくさん貯める。
最終的には働かなくても暮らしていけるだけの資産を作って、悠々自適な生活を送る。
そのためには、まず現在の資産を把握しなければならない。
前世で一度もまともにやったことはないが。
「八歳の俺は、いくら持ってるんだ?」
机の引き出しを開ける。
木の実。
紐。
石。
何かの虫の抜け殻。
「…………」
閉めた。
別の引き出し。
木でできた小さな人形。
欠けたナイフ。
よく分からない鳥の羽。
「…………」
閉めた。
ベッドの下。
何もない。
棚の上。
何もない。
服のポケット。
何もない。
「マジか」
所持金。
ゼロ。
「427円より減ってんじゃねえか」
転生した瞬間、まさかの全財産消滅である。
まあ、八歳なのだから当たり前と言えば当たり前だ。
むしろこの歳で借金がないだけマシだと思うことにする。
「……いや、待てよ」
俺は考える。
八歳。
つまり。
「ここから貯めれば、とんでもないことになるんじゃないか?」
前世で貯金を始めようとしたのは三十を過ぎてから。
今世では八歳。
二十年以上のアドバンテージがある。
毎年少しずつでも貯めれば――。
「勝ったな」
何に勝ったのかは分からない。
だが、いける気がする。
問題は。
「八歳って、どうやって稼ぐんだ?」
当然ながら、まともな仕事なんてない。
父親の家具作りを手伝う?
母親の家事を手伝って小遣いをもらう?
それでは大金は稼げない。
俺には前世の記憶がある。
つまり、中身だけなら三十年以上生きた大人だ。
その知識を使えば、何かできるはずだ。
「異世界転生といえば……」
頭に浮かんだのは、前世で読んだ小説や漫画だった。
現代知識。
画期的な発明。
商売。
大儲け。
「これだろ」
俺は立ち上がった。
この世界にない物を作ればいい。
簡単な話だ。
石鹸。
マヨネーズ。
紙。
印刷。
便利な道具。
前世には、この世界より何百年も進んだ知識がある。
「俺、もしかして結構なチート持ってるんじゃね?」
魔法の才能なんてなくてもいい。
知識がある。
これだけで十分だ。
例えば石鹸。
油と……。
「…………」
なんだっけ。
油と何かを混ぜる。
たしか灰?
いや、灰そのものじゃなかった気がする。
灰を水に入れて……何かする?
「…………」
マヨネーズ。
卵。
油。
酢。
「これはいける」
分量は?
「…………適量?」
紙。
「木から作る」
どうやって?
「…………」
印刷。
「活字を並べる」
活字はどうやって大量に作る?
「…………」
俺は静かに椅子へ座った。
「現代人、意外と何も知らねえな」
完成品を知っていることと、ゼロから作れることは全く別だった。
スマホがどういう物かは知っている。
だからといってスマホを作れるわけじゃない。
冷蔵庫も。
自動車も。
電気だってそうだ。
「まず、この世界のこと知らないと駄目か」
そもそも、俺が「ない」と思っているだけで、既に存在している可能性だってある。
石鹸が普通に売られていたら、作ったところで意味がない。
この世界で何が売られていて。
何がなくて。
何が高くて。
何が安いのか。
それを知らなければ商売なんてできない。
「市場調査だな」
八歳児の口から出る言葉ではない。
でも、中身は三十過ぎのおっさんだ。
俺は母親に声をかけてから、家の外へ出た。
◇ ◇ ◇
町の名前は、リーネ。
王都から馬車で何日も離れた、小さな地方都市らしい。
人口までは分からない。
ただ、昨日窓から見た印象よりは栄えていた。
大通りには露店が並び、野菜や果物、肉、布、食器なんかが売られている。
行き交う人も多い。
「へえ……」
昨日は混乱していて、それどころじゃなかった。
改めて見ると、本当に別の世界なんだと実感する。
馬車が走っている。
剣を持った人間が普通に歩いている。
耳の尖った女性までいた。
「エルフ……だよな、あれ」
思わず見てしまう。
女性と目が合った。
慌てて逸らす。
八歳児だから許してほしい。
しばらく歩いていると、食べ物を売る露店が見えてきた。
「焼き串一本、4リルだよ!」
店主の声が響く。
リル。
この国で使われている金だ。
レインの記憶によれば、小さな銅貨一枚が一リル。
焼き串一本、四リル。
その隣では、丸いパンが二リル。
別の店では、リンゴに似た果物が三個で三リル。
「なるほどな……」
市場を歩きながら、いくつか値段を見比べる。
もちろん、前世とは物価そのものが違う。
日本円へ正確に換算するなんて無理だろう。
それでも、自分の中で基準があった方が分かりやすい。
「1リル100円くらいで考えとくか」
焼き串なら100円。
パンなら200円。
だいたいそんな感覚だ。
もちろん物によって大きく変わるだろうが、頭の中で計算するには十分だった。
そして、ここで一つ重要なことに気づく。
「そういや、目標金額決めてなかったな」
ただ「いっぱい貯める」では駄目だ。
前世でも、具体的な目標を持たないまま全部使ってきた。
今度は違う。
ちゃんと数字を決めよう。
1リルを100円として考える。
10万リルなら、1000万円。
50万リルなら、5000万円。
そして――。
「100万リルで、1億円か」
思わず足が止まった。
1億円。
いい響きだ。
前世の俺からすれば、ほとんど夢みたいな金額だった。
でも、この世界ではこれから何十年も生きる。
前世の知識だってある。
商売をして、それを元手にさらに稼いで。
1億円分の資産があれば、さすがに老後くらいなんとかなるだろう。
いや。
うまくやれば、老後を待つ必要すらない。
三十代。
できれば四十になる前。
そのくらいで仕事を辞めて、あとはのんびり暮らす。
「よし」
決めた。
目標。
100万リル。
前世の感覚なら、およそ1億円。
俺は頭の中に、その数字をしっかり刻み込んだ。
八歳。
所持金、ゼロ。
目標、100万リル。
「……先なげえな」
いきなり現実に戻された。
まずは1リルでも稼がなければ始まらない。
そう思った瞬間。
肉の焼ける匂いが鼻をくすぐった。
「焼き串一本、4リルだよ!」
「…………」
美味そうだ。
肉の脂が炭に落ちて、煙と一緒にいい匂いが漂ってくる。
腹は減っていない。
朝飯を食べたばかりだ。
でも、美味そうだ。
4リル。
俺の感覚なら400円。
「…………」
ポケットに手を入れる。
当然、何もない。
「危なかった」
金を持っていたら買っていた。
100万リル貯めると決意してから、まだ一分も経っていない。
第二の人生でも、浪費癖は元気らしい。
俺は焼き串から目を逸らし、さらに市場を歩いた。
野菜。
パン。
香辛料。
革製品。
木工品。
陶器。
雑貨。
一つ一つ見ていく。
何かないか。
前世では当たり前だったのに、この世界にはないもの。
簡単に作れて。
元手が少なくて。
できれば子供でも扱えるもの。
「そんな都合のいい物……」
あるわけないか。
そう思ったときだった。
「母ちゃん! 手、ベタベタ!」
近くで子供の声がした。
見ると、俺と同じくらいの少年が、果物の汁で汚れた手を母親に見せている。
「もう、しょうがないわね」
母親は鞄から小さな布を取り出した。
水筒らしき容器から少しだけ水をかけ、その布で子供の手を拭く。
それを見て。
俺は立ち止まった。
「……あれ?」
市場を見回す。
もう一度。
今度は意識して探す。
雑貨屋。
生活用品。
桶。
布。
櫛。
蝋燭。
油。
でも。
「ない……?」
俺は自分の手を見る。
昨日から気になっていたことがある。
身体を洗ったときも。
手を洗ったときも。
この家では、水と布しか使っていなかった。
石鹸らしい物を、一度も見ていない。
「もしかして……」
いや。
決めつけるのは早い。
町のどこかで売っているかもしれない。
高級品で、一般家庭では使わないだけかもしれない。
まずは調べる必要がある。
でも、もし。
本当に一般には普及していないのだとしたら。
「…………」
油。
灰。
水。
作り方は、なんとなく覚えている。
なんとなく、だ。
だが父親は職人だ。
道具もある。
母親なら、油について詳しいかもしれない。
試すくらいならできる。
そしてもし、本当に作れたら。
「売れるんじゃね?」
胸が少し高鳴った。
第二の人生。
八歳。
所持金、ゼロ。
目標、100万リル。
そんな俺が見つけた最初の金儲けの種は――。
一個の石鹸だった。




