今度こそ、貯金して生きる
俺には、金がない。
正確に言えば、稼いでいないわけではない。
毎月ちゃんと給料は振り込まれるし、三十歳を過ぎた独身男として、別に極端に少ない給料でもなかった。
なのに――。
「……427円」
ベッドに寝転がったまま、スマホに表示された銀行口座の残高を見つめる。
427円。
何度見ても427円。
一度アプリを閉じて、もう一度開いてみる。
当然、427円。
「……バグってねえかな」
バグっているのは銀行のアプリではなく、たぶん俺の金銭感覚だ。
給料日まで、あと三日。
財布には千円札が一枚と、小銭が少々。
冷蔵庫にはビールが二本。
食料は――ない。
「まあ、なんとかなるか」
これが俺の悪いところだった。
三十年以上生きてきて、俺は一度もまともに貯金したことがない。
金が入れば使う。
欲しいものを見つければ買う。
友達と飲みに行けば楽しくなって二軒目、三軒目。
ネット通販で「残り一点」の文字を見つければ、本当に必要なのか考えるより先に購入ボタンを押す。
この前なんて、動画を見ていたら妙に格好いいコーヒーミルが出てきた。
手回し式の、結構いいやつだ。
値段は28,000円。
俺は普段、コーヒーをほとんど飲まない。
それでも買った。
届いた日はテンションが上がって、わざわざ豆まで買った。
一回使った。
それ以来、部屋の隅に置いてある。
「…………」
視線だけを動かす。
棚の上には、ピカピカのコーヒーミルが鎮座していた。
「まあ……インテリアとしては悪くない」
そんな俺にも、転機というものは訪れた。
スマホが震えた。
昔からつるんでいる友人たちとのグループチャットだった。
『産まれました!』
そんな一言と一緒に、一枚の写真が送られてくる。
病院らしい部屋。
疲れた顔で笑っている友人と、その隣にいる奥さん。
そして腕の中には、小さな赤ん坊。
「おお……」
自然と声が出た。
『おめでとう!』
そう送ってから、しばらく写真を眺める。
最近、こういう報告が増えた。
一人が結婚した。
また一人が結婚した。
子供ができた。
家を買った。
少し前まで一緒に朝まで飲んでいた連中が、いつの間にか夫になり、父親になっている。
もちろん、結婚が人生の正解だなんて思っていない。
俺だって仕事をして、休みの日には好きなことをして、食いたいものを食って、欲しいものを買う。
そこそこ充実している。
少なくとも、不幸だと思ったことはない。
ただ――。
「俺……十年後もこれやってんのかな」
ぽつりと漏れた言葉が、妙に静かな部屋に残った。
三十代。
独身。
貯金、427円。
資産と呼べそうなものは何もない。
あるのは、ほぼ使っていないコーヒーミルと、勢いで買った高級イヤホンと、一度しか着ていない服が何着か。
急に怖くなった。
今は働ける。
でも、五十歳になったら?
六十歳になったら?
もし病気になって、働けなくなったら?
それまでずっと、給料が入っては使い切る生活を続けるのか?
「…………貯金するか」
俺は起き上がった。
そしてスマホのメモを開く。
こういうのは目標が大事だ。
『貯金計画』
一、給料日に3万円を貯金用の口座へ移す。
二、500円玉は使わず、全部貯金する。
三、飲みに行く回数を減らす。
四、欲しいものは三日考えてから買う。
「……これならいけるだろ」
月に3万円なら、一年で36万円。
それに500円玉貯金もある。
今までゼロだったことを考えれば、大きな進歩だ。
そうなると、500円玉を入れておく貯金箱が必要になる。
俺は通販サイトを開いた。
検索欄に入力する。
『貯金箱 おすすめ』
こういうのは形から入るタイプなのだ。
「お、これいいじゃん」
金庫型。
暗証番号式。
紙幣も入る。
7,980円。
「……高いな」
一瞬だけ迷った。
だが、これから何年も使うものだ。
貯金を続けるための投資と考えれば、むしろ安い。
安物を買って途中でやる気をなくすくらいなら、最初から良いものを買った方がいい。
「長く使えば実質タダみたいなもんだろ」
残高427円の男は、そう呟いた。
俺は購入ボタンを押した。
クレジットカードで。
翌朝。
いつも通り家を出た。
いつも通り駅へ向かって歩く。
昨日の決意は、珍しくまだ残っていた。
次の給料が入ったら、まず3万円を貯金用の口座へ移す。
絶対に触らない。
一年で36万円。
五年で180万円。
そこに500円玉貯金を足せば、200万円くらいはいけるかもしれない。
「200万か……」
悪くない。
そこまで貯まれば、もっと増やす方法を考えてもいい。
投資とか。
老後資金とか。
今まで面倒くさがって避けてきたことも、少しずつ勉強しよう。
結婚だって――。
「まあ、相手いねえけど」
一人で笑う。
横断歩道の信号が青になった。
歩き出す。
イヤホンから音楽が流れている。
だから最初、その音に気づかなかった。
誰かの悲鳴。
激しいクラクション。
タイヤが路面を削る音。
「え?」
顔を上げる。
右側。
大型トラック。
赤信号を無視して、こちらへ突っ込んできていた。
時間が妙にゆっくりに感じた。
逃げなきゃ。
そう思った。
でも、身体は動かなかった。
最後に頭に浮かんだのは、家族でも友人でもなかった。
昨日注文した、7,980円の金庫型貯金箱だった。
「……まだ1円も入れてねえ」
そこで、俺の人生は終わった。
◇ ◇ ◇
次に目を覚ましたとき。
最初に見えたのは、知らない天井だった。
「……?」
木だ。
天井が木でできている。
俺の部屋じゃない。
病院でもない。
身体を起こそうとする。
「う……」
妙な違和感があった。
身体が重いわけじゃない。
むしろ軽い。
軽すぎる。
自分の手を見る。
「…………ちっさ」
小さかった。
どう見ても三十過ぎの男の手じゃない。
慌てて頬を触る。
髪を触る。
腕を見る。
「なんだこれ」
声まで高い。
混乱していると、部屋の扉が勢いよく開いた。
「レイン!」
知らない女性が飛び込んできた。
赤茶色の髪。
見たこともない服。
その女性は俺を見るなり、泣きながら抱きしめてきた。
「よかった……! 本当に、よかった……!」
「え、ちょ……」
「三日も目を覚まさなかったのよ!」
三日?
レイン?
誰だ?
何が起きている?
そう考えた瞬間。
頭の奥で、何かが弾けた。
知らないはずの記憶が、次々と浮かんでくる。
レイン・アルト。
八歳。
この女性は母親。
小さな町で、父と母と三人で暮らしている。
数日前、友達と遊んでいる最中に川へ落ちた。
そして――。
「……嘘だろ」
俺は、自分の小さな手をもう一度見つめた。
前の俺は、トラックに轢かれた。
そこまでは覚えている。
なのに今は、知らない子供の身体の中にいる。
しばらくして母親が部屋を出ると、俺はベッドから降りた。
足元がおぼつかない。
身体の感覚が、自分のものなのに自分のものじゃない。
壁に手をつきながら窓まで歩き、外を覗く。
石と木で造られた家々。
舗装されていない道。
荷物を積んだ馬車。
腰に剣を下げて歩く男。
見たことのない文字が書かれた看板。
「……どこだよ、ここ」
当然、日本じゃない。
というか、俺が知っているどこの国とも違う。
視線を上げる。
遠くの空を、大きな翼を持った何かが横切っていった。
鳥――にしては、でかすぎる。
「なんだ、あれ……」
頭の中に残っているレインの記憶を、一つずつ探っていく。
この町のこと。
父親のこと。
母親のこと。
そして、この世界のこと。
剣を持つ冒険者。
魔物。
魔法。
どれも、前の人生では物語の中にしか存在しなかったものだ。
そこまで考えて、ようやく一つの答えに辿り着いた。
「……俺、転生したのか?」
口にしてみても、現実味なんてなかった。
けれど、この身体も。
頭の中にあるレインの記憶も。
窓の向こうに広がる景色も。
全部が、これは現実だと訴えている。
俺は一度、死んだ。
そして。
レイン・アルトという八歳の少年として、もう一度人生を始めることになったらしい。
「マジかよ……」
窓枠にもたれかかる。
普通なら、もっと混乱するべきなのかもしれない。
元の世界にはもう戻れないのか。
家族や友人はどうなったのか。
考えれば、いくらでも不安は出てくる。
それでも。
少しずつ、別の感情が湧いてきた。
俺は一度、人生を終えた。
それなのに、もう一度生きられる。
しかも八歳から。
まだ何十年もある。
前の人生で後悔したことを、やり直せる。
「……そうか」
俺は自分の小さな手を見る。
そして、前世で決めたばかりの目標を思い出した。
貯金。
あまりにも地味な目標だ。
せっかく異世界に転生した人間が最初に考えることじゃない気もする。
でも、一度死んだからこそ分かる。
人生なんて、いつ終わるか分からない。
だったら今度は、ちゃんと先のことを考えて生きよう。
金を稼ぐ。
無駄遣いはしない。
若いうちからしっかり貯める。
そして、いつか。
働かなくても食っていけるくらいの金を作って、静かな場所に家を建てる。
湖なんかあったら最高だ。
朝は好きな時間に起きる。
昼から酒を飲む。
腹が減ったら美味いものを食う。
誰にも急かされず、のんびり暮らす。
「いいな、それ」
想像しただけで顔が緩んだ。
決めた。
これが第二の人生の目標だ。
「今度こそ、ちゃんと金を貯めて生きる」
俺は小さく拳を握った。
絶対に浪費しない。
絶対に金を貯める。
そしていつか、悠々自適なスローライフを手に入れる。
――このときの俺は、まだ知らなかった。
人間というものは。
世界が変わっても。
身体が変わっても。
そう簡単に、中身まで変わるものではないということを。




