売上と利益は、別の話
十個。
一個3リル。
全部ハンスに渡せば、その場で30リル。
「30リル……」
いい響きだ。
今まで一度に入ってきた金額としては、一番大きい。
しかも今回は、売れるまで待つ必要もない。出来上がった石鹸をハンスの店へ持っていき、問題がなければ30リルを受け取れる。
「最高じゃん」
そう思いながら、俺は材料を並べた。
油。
灰。
香りに使う果実の皮。
天秤。
記録用の木板。
そして、ガルドが作ってくれた二つ目の型。
これで一度に十個作れる。
「…………」
そこで、俺の手が止まった。
「油、足りなくない?」
十個作る。
当然、五個のときより材料を使う。
つまり、30リルを受け取る前に金が出ていく。
「…………」
嫌な予感がする。
◇ ◇ ◇
俺は記録用の木板を引っ張り出した。
今まで作った石鹸について、使った材料や出来を簡単に残してある。最初は紙がないから仕方なく始めたものだったが、今となってはかなり役に立っている。
「えーっと……」
これまでの記録を見る限り、油の小瓶一つ分で作れる石鹸は、だいたい八個。
もちろん毎回ぴったり同じではない。俺自身、まだ試しながら作っている段階だ。
それでも十個作るとなれば、小瓶一つでは足りない。
前に油屋と話をつけて、自分で容器を持っていけば小瓶一つ分と同じ量を11リルで売ってもらえることになった。
十個分なら、それより少し多い。
「油だけで……だいたい14リルか」
灰や水には、今のところほとんど金がかかっていない。香りに使っている果実の皮も、ミラが取っておいてくれている。
細かい分まで考えても、十個作る材料費はざっくり15リルくらい。
「30リルで売って、材料に15リル……」
残るのは15リル。
「…………半分?」
30リル入ってくる。
でも。
30リル儲かるわけじゃない。
「俺の30リルは!?」
「何騒いでるんだ?」
工房からガルドが顔を出した。
「父さん、30リルが半分消えた」
「知らん」
「まだもらってないけど」
「もっと知らん」
冷たい。
◇ ◇ ◇
事情を話すと、ガルドは俺の木板を覗き込んだ。
「前にも言っただろ。売った金が全部儲けじゃない」
「覚えてるよ」
「ならなんで驚いてる」
「30リルって聞いたら、30リル増える気がするじゃん」
「増えない」
「知ってる」
「じゃあ騒ぐな」
正論が痛い。
前世の俺は、給料が入れば「今月これだけ使える」と考えていた。
家賃。
光熱費。
食費。
カードの支払い。
そういうものは、なぜか一旦忘れる。
そして月末。
『金がない』
毎月やっていた。
「……俺、成長してないな」
「何がだ?」
「こっちの話」
でも、今回は給料ですらない。
売上だ。
もっと慎重に考えないといけない。
「父さん」
「なんだ?」
「一個3リルで売って、作るのに1リル半くらいかかったら、安すぎる?」
ガルドが少し考える。
「それだけじゃ分からんな」
「なんで?」
「お前が一個作るのにどれくらい働くかもあるだろ」
「…………」
人件費。
その言葉が頭に浮かぶ。
もっとも。
今の従業員は俺一人。
給料。
0リル。
「超絶ブラック企業じゃん」
「何が?」
「なんでもない」
社長。
俺。
従業員。
俺。
無給。
俺。
労働基準監督署があったら、真っ先に怒られそうだ。
◇ ◇ ◇
とはいえ、今さら十個作らないという選択肢はない。
ハンスと約束した。
それに利益が少ないと言っても、赤字ではない。今はまず作って、売って、実際にどれくらい残るのかを見る。
俺は必要な油を買い足した。
細かい材料も含めて、今回使う金は約15リル。
手元にあった50リルが、35リルになる。
「…………」
分かってる。
必要な仕入れだ。
これがなければ商品を作れない。
頭では分かっている。
「減ったなあ……」
それでも財布の中身が減ると悲しい。
貯金に向いていない人間は、どうやら仕入れにも向いていないらしい。
◇ ◇ ◇
家に戻り、今度こそ材料を揃える。
油。
水。
香りに使う果実の皮。
そして。
「母さん、灰ってこれだけ?」
いつもの場所に置いてある灰を見ながら尋ねると、エレナが振り返った。
「これだけって……昨日も持っていったでしょう?」
「そうなんだけど」
「そんなに毎日たくさん出るものじゃないわよ?」
「…………」
そりゃそうだ。
今までは数個ずつ作っていたから気にならなかった。
でも、今回は十個。
これからさらに作る量が増えたら?
家で出る灰だけでは、いつか足りなくなる。
「どうしたの?」
「いや……なんでもない」
今はまだ足りる。
だから今日は問題ない。
でも。
今まで無料だと思っていた材料が、無料以前に手に入らなくなり始めている。
「……また考えること増えたな」
商売。
面倒くさい。
いや。
面白いんだけど。
面倒くさい。
◇ ◇ ◇
天秤を使い、これまでの記録を確認しながら材料を準備する。
前回までより量が多い。
だからこそ慎重に。
一回失敗したら、五個分。
下手をすれば十個分。
材料が無駄になる。
「怖いな……」
金額を考えた瞬間、手つきが慎重になる。
前世で28,000円のコーヒーミルを買った男とは思えない。
あれは一分くらいで購入ボタンを押した。
今は1リルでも失いたくない。
「人って変われるんだな」
「何ぶつぶつ言ってるの?」
「うわっ」
後ろにエレナがいた。
「母さん、いつから?」
「コーヒーなんとかって言ってた辺りから」
「…………」
聞かれても意味分からないからセーフ。
◇ ◇ ◇
作業は順調だった。
少量で何度も試してきたおかげで、最初の頃ほど迷わない。もちろん、油や灰の状態が毎回まったく同じではない以上、記録だけを信じるわけにもいかない。
様子を確認しながら慎重に進め、二つの型へ分ける。
「十個分……」
今までで一番多い。
これが全部、商品になる。
全部売れば30リル。
「いや」
違う。
俺は首を振った。
「売上30リル」
利益は15リルくらい。
そこを間違えるな。
未来の俺。
頼むから覚えていてくれ。
◇ ◇ ◇
数日後。
二つの型から石鹸を取り出した。
一個ずつ切り分け、大きさや形を確認しながら並べていく。
一個。
二個。
三個。
そして。
「十個」
できた。
大きさもだいたい揃っている。
香りも同じ。
見た目も問題ない。
ハンスと約束した条件は、ちゃんと満たしている。
「…………」
なんか、壮観。
たった十個だけど、俺にとっては初めての大量生産だ。
「父さん!」
「今度はなんだ!」
「十個できた!」
「よかったな!」
「見ない?」
「仕事中だ!」
「一個くらい褒めてよ!」
「あとで見る!」
忙しいらしい。
仕方ない。
俺も商売人。
父さんも職人。
仕事中なら邪魔してはいけない。
「…………」
ちょっと寂しい。
◇ ◇ ◇
翌日。
十個の石鹸を持って、ハンスの雑貨屋へ向かった。
市場の東側。
改めて店の中へ入ると、パン屋とは全然違う。
布。
食器。
紐。
小さな道具。
油。
生活に使う物が棚に並んでいる。
「いらっしゃ――」
ハンスが俺を見る。
「来たか」
「できました」
「十個?」
「十個」
持ってきた石鹸を並べる。
ハンスはすぐには金を出さなかった。
一個手に取る。
見る。
別の一個。
また見る。
香りも確認する。
「…………」
緊張する。
何これ。
検品?
前世でもこんなのやったことない。
「大きさは揃っているな」
「はい」
「香りも問題ない」
「はい」
「前に見た物と同じ程度だ」
「じゃあ?」
「買おう」
「よし」
「商談中に喜ぶな」
「すみません」
無理だ。
嬉しい。
◇ ◇ ◇
ハンスが銅貨を数える。
一枚。
二枚。
三枚。
それが三十枚。
「30リル」
俺の前へ置かれる。
「…………」
すごい。
今まで一度にこんな量の金を受け取ったことはない。
「確認しろ」
「え?」
「金だ。自分で数えろ」
「あ、はい」
数える。
ちゃんと30リル。
「確かに」
「これで十個は私の物だ」
「はい」
売れた。
正確には、ハンスに売った。
ここから客に売れるかどうかはハンスの仕事だ。
「…………」
楽だな。
俺、もう金もらった。
「何だ?」
「いや」
危ない。
『あとはよろしく』
と言いそうになった。
◇ ◇ ◇
店を出て、革袋の中身を確認する。
今回の仕入れ前に50リル。
材料を揃えて、35リル。
そして今、30リル受け取った。
「65リル」
過去最高。
でも。
俺はもう前みたいに、
「30リル儲かった!」
とは思わない。
今回増えたのは、だいたい15リル。
それに、この65リルだって全部使っていい金じゃない。
次の商品を作るなら、また油を買う。
作る量が増えれば、他の材料だって必要になる。
灰のことも考えなければならない。
「売上と利益は別」
声に出してみる。
大事。
忘れそうだから。
「全部使っていい金でもない」
これも大事。
前世の俺。
聞いてるか?
給料日に残高を見て、全部自分の金だと思っていた俺。
「今世では違う」
材料を買う金。
商売を続ける金。
そして。
貯金する金。
ちゃんと分ける。
「よし」
俺は革袋を握る。
今度こそ。
本当に。
貯金する。
そのとき。
市場の向こうから、いい匂いがした。
肉。
焼いている。
「…………」
俺は立ち止まった。
焼き串。
一本4リル。
「…………」
いや。
違う。
今、大事なことを学んだばかりだ。
売上と利益は別。
全部使っていい金じゃない。
俺は成長した。
「…………」
一本くらいなら。
俺は焼き串の店を見つめた。
長い戦いが。
始まろうとしていた。




