第三話 最高の読書スポット
成人まで残り二年を切った。
今も貴族のレザンヌと下町のロゼの二重生活を続けている。
下町で暮らす時間が長くなるほど、愛おしく大切な思い出が増えていく。
少しでも皆と一緒にいたい。
けれど、今日だけは特別に休みをとり、一人でラール湖を訪れていた。
貸しボート小屋にいる人へ向け、手をふって大声をだす。
「こんにちは!」
「おお、ロゼちゃん。今日は一人でどうしたんだい?」
水夫ギルド職員の男性が気さくな笑顔を見せる。
「今日は一人で休日を満喫するの。あ、ボートを貸してください」
「あいよ。銅貨7枚な。帰るときに5枚返すから」
「はーい」
銀貨は嫌な顔をするだろうと用意した銅貨をジャラジャラと袋から取りだし、数を確かめて差しだした。
「はい、確かに。また今度お店に食べにいくよ。ここの勤務じゃ干し肉しか食べれないから、女将さんの料理が恋しいよ」
「むふふ、安くするように言っておくね」
私も干し肉は苦手だけど、脂身は大好き。
特に目玉焼きと一緒にカリカリに焼いた方が好きだ。
男性がボートの用意を始めたので、背後からラール湖の話題をふってみた。
「ねぇ、近くに放牧地があるからこの名前なの?」
「違う違う。ラールみたいに、豚の脂のサシみたいな形状で伸びているからつけられた名前だよ」
「そうなんだ」
一つ豆知識が得られた。今度、クーヘンに教えてあげよう。
貸しボート小屋の中に戻った男性が、大きな声をあげた。
「ほら! 気をつけて行きな」
「ありがとう、おじさん」
私がボートに飛びのると「チャポン」と音を立てて船体がわずかに傾く。
お互いに少し苦笑い。
そして、男性の明るい笑顔に背中を押され、私はボートを発進させた。
「結構、力使うよね。明日は筋肉痛かも?」
オールを漕ぎ進むと、湖畔のなだらかなカーブが続く。
鮮やかに生い茂る赤茶色のマングローブがいくつかの層になっている。
早い時間なこともあって他には誰もいなかった。
秋を思わせる風があって陽射しも柔らかいので、仰向けのまま持ってきていた本を取りだして栞のページを開いた。
すると栞がおちてきて、栞の角を額で受け止めることに。
「いたっ!」
忌々しく栞をひと睨みした後、本を日傘代わりにして読書を始める。
風が吹くたびにボートがゆれて読みにくい。
それでもここでこの本を読むことには意味があった。
「お祖母様。今年も一緒に読みにきました」
大好きな祖母が手塩をかけた写本。
祖母の命日に、思い出のボートでこれを読むのが私のルーティン。
心地よい波を背に感じながら、ページを読み進めていく。
疲れからか、本の重みで腕がさがり始めたところで船体が大きくゆれた。
「わわっ!」
危うく顔面に落としそうになった本を慌てて持ちなおし、体を起こした。
するとボート同士がぶつかっている光景が目に飛びこむ。
ぶつけてきたボートの乗り手は、先日、町で会った少年だ。
初対面のときにも印象的に思った碧く澄んだ声。
「すまない。ボートは初めてで、うまく漕げなかった……」
消えいりそうな声で謝る少年に、私は慌てて手をふった。
「こちらこそ。周りを全く見ていなかったし、おあいこ!」
気にしていないことを笑顔で伝える。
でも、彼の視線は私の手元に釘づけのようだった。
「その本を読んでいたのかい?」
驚いた。
装丁を見てすぐに本だと気づく平民は今まで一人もいなかったし、どうせバレはしないと思って持ち歩いていたけど、今後は改めた方が良いかも知れない。
「うん。お気に入りの読書スポットなの。君も読書は好き? えーっと……」
「グレッチャーだ。私も本は好きだな」
確かそう名乗っていたことを思いだす。
そして引っかかりを感じていたことも併せて思いだした。
自分の名前なのに、どこかなじまないような言い方に妙な違和感がある。
私がじっと彼を見つめていたら、バツを悪そうにした彼が視線を反らした。
「その本はUn chat qui a traversé le désert(砂漠を横断する猫)かい?」
祖母の形見を「ありえない妄想物語」とからかわれ、カチンときた。
「違いますぅー。シャデゼじゃありませんけど? 平民の女性が王子様と結婚するロマンティックなお話ですぅー。お祖母様が私のために写してくださったの」
「……充分にシャデゼじゃないか。その……なんだ。気分を害したのなら謝る」
素直に頭をさげられてしまい、今度は私の方がバツが悪くなった。
気まずさから本に視線をおとすと、たしかに「ありえない妄想物語だ」と思いなおし、ふいに可笑しくなって吹きだす。
「むふ、むふふふ! いいわ、許してあげる!」
「君、変な笑い方するね?」
許した瞬間に心外なことを言われ、笑顔が少しひきつる。
創作物語の俗称も知っているし、どこぞの世間知らずのお坊ちゃんだろう。
「グレッチャーは今日一人なの? 色んな意味で知識の足りていない君に、大人の私が町を案内してあげよっか?」
「成人していたのかい? てっきり私より年下だとばかり……あ、失礼」
よし。常識を嫌というほど教えてあげよう。
うっかりな口を治してあげなければ、どこぞの貴族に言いがかりをつけられて、処罰を受ける未来しか見えない。
私は笑顔で圧をかける。
「ロゼお姉ちゃんが町を案内してあげる。いい? 拒否権はないわ!」
「だったら……いや、なんでもない」
どうやら観念したらしく、ボートで先行する私を追いかけて彼もオールを漕ぎ始めた。
ボートを返却し、公園を出て町までの道すがら色んな話をしていく。
「それでグレッチャーはどうしてラール湖にいったの?」
「それはそっくりそのままロゼに返すよ」
「私? 私はねぇ、あの場所がお祖母様との思い出の場所で、今日が命日だったから……」
グレッチャーが目を丸くした。
「ロゼ、君のお祖母様とはひょっとして……いや、なんでもない」
こうやってちょいちょい言葉をキャンセルされるのがイライラする。
何か訳アリそうだけど、ハッキリ言われないのはどうも苦手だ。
それに、彼の氷のような瞳で見つめられると、なぜだか心がざわつく。
なのに瞳を反らすこともできない。
「ロゼ、前を向いて歩かないと危ないよ?」
「え? あぁ、大丈夫。この辺は私にとって庭みたいなものだから。そろそろ見えてくるよ、ほら!」
木々のブラインドを抜け、遠目に町のシンボルの水門と石橋が見えた。
建国当初からあると言われているその二つは、年季と貫禄のある観光スポット。
私はグレッチャーの手をとる。
「行こう! いいものいっぱい見せてあげるから!」
「……いきなり異性へ直接触れるのは積極的すぎないかい?」
「むふふふ! なーに、貴族みたいなことを言っているの、グレッチャーったら」
下町ではこの程度のスキンシップは日常茶飯事で、私も最初の頃は面食らったことを思いだす。
結婚相手や親族以外に肌を触れさせてはならないと淑女教育を受けていただけに、慣れるまでかなり時間がかかった。
私が働くランチタイムは、お尻を触られるだけで済むからまだマシだと職場の先輩から聞かされ、夜の下町が怖いと思ったこともあったっけ。
その話もグレッチャーに教えてあげたら、彼は苦い顔をした。
「その、そこまで無秩序だとは……騎士は一体何をしているのか?」
彼の深刻そうな表情に私は笑ってしまう。
「んー? 騎士様はねぇ、貴族街しか守らないからねー。それに度が過ぎるお客は女将さんが叩きのめすから安心なんだよ! あ、こっちこっち!」
とまどうグレッチャーの手をグイグイと引っぱり、石橋の下の回廊を通る。
水面の照り返しで、回廊の壁面や天井へゆらゆらと広がる虹色の模様に、みとれているグレッチャーへそっと耳打ちした。
「綺麗でしょ?」
「あ、あぁ……とても」
「ここを抜けると水夫ギルドの裏手にでるの。露店通りのオススメの店を紹介するから来て!」
慌てて耳を手で隠したグレッチャーは実にからかい甲斐がある。
ここは大人のお姉さんとして一つおごってやろうと思った。
「ここから三つめの赤い屋台のゲブラテネ・ヌーデルンがさいっっこうなの!」
「ゲブラテネ?」
庶民の味方すら知らないことに違和感を覚えたとき、背後から声がかかる。
「なんだよお前、知らねえの? すっげーうまいぜ!」
ロイゼルが私とグレッチャーの背中をバシバシと叩いた。
グレッチャーは繋いでいた私の手をふりほどき、身構えつつ顔を強張らせる。
「き、君! 何をする!」
「へ? ただの挨拶だろ?」
世間知らずのお坊ちゃんには刺激が強い挨拶だったのだろうか。
ロイゼルと一緒に私も首を傾げた。
そこにシュトが駆け寄ってきて、いきなり謝罪を始めてしまう。
「俺の弟が何か失礼をしたようでごめんな」
「あ、いや。私の方こそ大袈裟にしすぎた。すまない」
気を取りなおし、皆に食事をおごる。
この店名物のゲブラテネ・ヌーデルンは、カリカリに焼いた焼きそばを食べやすいようガレットで包んだもので、間に敷かれている焦がしチーズの風味が後を引くのだ。
購入している間にシュトとロイゼルが自己紹介を済ませていた。
私が人数分の食事を持っていくと、シュトは拳を口元に当てて押し黙る。
「シュト、どうかしたの? グレッチャーはいい子でしょ?」
「うん。だけど自己紹介が引っかかって……」
私と同じように気になったみたい。
私だけが神経質だった訳じゃないことに胸を撫でおろす。
「自分の名前なのにスラスラ言えないの不思議だよね」
「そうだね。まるで最初の頃のロゼみたいなんだ」
そう言われて心臓が跳ねた。
完璧になじませていたつもりが、まさか勘づかれているとは思わなかったから。
私が言葉に詰まっていると、シュトはふっと表情をゆるめる。
「最初の頃だけだよ。今は自然。……彼も緊張していたのかな?」
初対面の緊張と言われればそうかも知れない。
現に今、食事を通してロイゼルとグレッチャーは仲良くなっている。
「このような食べ物は初めてだった」
「うめーだろ? しっかし、グレッチャーは変わってるな。手で持って食べるなんて当たり前のことなのにさ。なんだか出会った頃のロゼみたいな感じ」
当時の失態を言われて恥ずかしくなる。
私は素手で食事に触れることがなかったから、カトラリーを渡してもらうまでずっと待ったことがあり、その逸話は下町の伝説となっていた。
私は照れを隠したくて、声を大きくする。
「そうだ! 二人もグレッチャーの街案内につきあってよ!」
肩をすくめる二人と、目を白黒させるグレッチャーがとても対照的に映った。
フランス語の「Un chat qui a traversé le désert」は直訳すると「砂漠を横断した猫」となります。
この世界では現実に成りえない妄想や、叶うはずもない夢物語に対する俗称となっています。




