12月22日 中国吉林省白山市 白山国際旅館
中国吉林省白山市 白山国際旅館
日本時間03:00―――中国時間02:00
白頭山は中国・北朝鮮国境にそびえ立つ標高2744mの火山である。数多の噴火活動を繰り返してきた歴史があり、10世紀に起こった噴火では海を隔てた日本にまで火山灰を撒き散らしている。そして今でも時おり活動が観測される活火山であるが、その中国側山麓は中国国家観光局が指定した国内17箇所の国家級観光休暇区の筆頭に挙げられている。特に冬場の季節は雄大な景観の中での観光・ウィンタースポーツに興じるべく、多数の観光客が押し寄せるのが例年のことだった。
そんな繁忙期にあるはずの白山国際旅館だが、夕闇に包まれた現時刻、旅行客達の活気は全く感じられない。
しかし旅館の周囲に人の気配が無いわけではなく、建物の周りは張り詰めたような緊張感で満ちていた。そのような雰囲気を生み出している源は、そこかしこに展開している物々しい武装を携えた兵士達だった。兵士達が肩に下げるのは中国の軍組織が制式採用している95式自動歩槍だ。
構えてこそいないものの、銃を肩にかけ、油断無く辺りを見張る兵士達が身を切るような寒さの中、各所で白い息を乾燥した大気に放出していた。
白山国際旅館に施設の閉鎖が告知されたのは部隊の到着とほぼ同時だった。現在、宿泊客・従業員は共に外出禁止令を言い渡されて旅館内に閉じ込められている。夜が明ける頃には立ち退きも勧告されることになるだろう。
この部隊は今夜ここに到着した人民武装警察だった。武警と略称されることが多いこの組織は、中国の準軍事組織である。中華人民共和国にとっての人民解放軍・中国民兵と並ぶ国家軍事力の一翼であり、主に治安維持や国境警備を任務としている組織だ。近年世界中に報道された少数民族弾圧も、主にこの武警が行ったものである。
旅館周辺に展開しているのは軽装備の歩兵からなる中隊規模の部隊だが、この地域に展開している兵力はこれだけではない。闇夜を透かして上空から見れば、近隣のそこかしこに同じ規模の部隊が展開しているのが見えるはずだ。さらに西、かつて満州と呼ばれた土地に広がる平原地帯にまで目をやれば、武警だけでなく人民解放軍までも慌しく活動している様子も見える。闇夜の中、瀋陽軍区全体で巨大な兵力が動き出しつつある。
移動している軍の大多数は山中を走る狭い道を南下していき、鴨緑工に沿って伸びる北朝鮮の国境へ向かっていく。移動している部隊だけでも全てをあわせれば2個師団相当にもなるだろう。既に国境付近には真っ先に到着した延吉砲兵旅団が陣地構築を開始していた。
また、空も喧騒に満ちていた。旅館から30kmほど離れた位置にあり、国境に一番近い空港である長白山空港は軍が借り上げ、無数の大型輸送機の巣になっていた。その中には中国空軍が誇る最新の大型輸送機「運20」の姿さえ見える。そしてその巨鳥たちの腹の中からは兵員や軍事物資が続々と吐き出されつつあった。
さすがにこれはただ事ではない。
閉鎖された旅館の門前に立番する若い兵士は、夜空を裂いて飛んでいるのだろう戦闘機のエンジン音を聞きながら思った。
駐屯地を出るときはどうせこれまでのように、なんだかんだ、政治的やりとりをもって問題も治まるだろうと思っていたが……。こいつはひょっとすると……。
駐屯地を出る直前のニュースでは北朝鮮内部で起きつつある異変について中国・ロシア両首脳の緊急共同声明が発せられたことを伝えていた。朝鮮半島の安定を損なう事態を両国は容認せず、関係各国は対話でもってこの問題に対応すべきだ、という主旨だった。
しかし、今のところ中国軍内部では緊張は収まっていない。まだ平和的解決の目途はたっていないようだ、と移動中にすれ違った軍用トラックの車列を思い返しながら彼は思った。その車列の中には、重砲を牽引しているものも多数あったのだ。
もし戦争になったら……。兵士は考える。
ここにも難民が来るだろうか。
頭の中の理性はその考えを否定している。ここは国境に近いとはいえ、北朝鮮との間には深く雪を積もらせた真冬の白頭山が横たわっているのだ。人間が越えることなどできないだろう。だからこそ、ここには後方警備用の武警しか配置されていないのだ……。
そうは思っても想像は悪いほうへ向く。しかし武装した北朝鮮正規軍が敗走してきて、その主体思想に殉ずるべく投降も拒否したりしたら……戦闘も起きうるかもしれない。そうなれば軽装備でしかないこの部隊では相手にならないのではないか。近場には人民解放軍の大きな陸上部隊もいない。頼れる友軍といえば……。
姿は見えっこないと判っていても、夜空から降り注ぐエンジン音の源を探して空を見上げた。頭上には満点の星空が広がっていた。冷たく光る星々の明かりが、冷たく乾燥した大気を通して地上の彼を見下ろしている。
兵士は身震いした。まるで星達が意思を持ち彼を見つめているような気がしたのだ。
彼はろくでもない想像を振り切ることにして、不安を掻き立てる不気味な星空からさっさと目を離し、彼は警備に集中しようとした。しかし、その視線は地上に向ききる前に夜空のある一点に釘付けとなった。
正面の夜空、白頭山の輪郭がぼんやりと浮き上がるその上空に、赤い点のような何かが蠢いている。
はじめは点ほどの大きさだったそれは、時間が経つにつれて次第に夜空へ広がっていった。怪しく蠕動する、血のように赤い光が白頭山上空を覆いつくすまでに広がった頃、ようやく兵士は気がついた。あれはオーロラだ。
彼とてオーロラなど、直接見たことこそないもののテレビや本から、見知ったものだった。それでも気がつくのに遅れたのは、それがテレビなどで見たオーロラに比べてあまりに異様な雰囲気を放っていたためだ。彼が以前にテレビで見たオーロラは、緑色を基調にして優雅に空を舞う、まさに大自然の神秘というのにふさわしい物だった。しかし今眼前に広がるそれは、自然のものと思えないほどに動きが激しすぎるし、明度も桁違いである。もしも今、手元に新聞があったなら、電灯の類が無くとも容易く文字を読むことが出来るだろう。
周囲に立つ同じ部隊の兵士達も既に夜空の異変に気がついていた。といっても任務中なので私語は交わされない。大勢の兵士達は一言も発することなく、息をするのも忘れたかのようにただその光景を見上げていた。
学生時代に史学を学んでいたある兵士は、中国史上、オーロラが何度も凶兆として記録されてきたことを思い出さずにいられなかった。そして史学を学んでいなくても、この場にいる兵士達のほとんどはそのオーロラに不吉の予兆を感じていた。それほどまでにそのオーロラは禍々しかった。
そして、呆けたように夜空を見上げていた兵士達の視線の先、巨大なオーロラをバックに、夜空の一部が火を噴いた。火はあっという間に球形をとり、みるみる高度を下げていった。
強烈なオーロラの後光と、それ自体の炎の明かりから、兵士達にも簡単にその正体がわかった。航空機だ。機首部分以外は炎に包まれているため詳細はわからないものの、コックピットの形状から、それは戦闘機だと多くの兵士が理解した。
非常事態発生に騒然とする兵士達の中で、最初にオーロラを見つけたあの兵士は、火球と化して落ちていく戦闘機を呆然と見続けていた。そして火球が白頭山の向こうに消えたとき、彼は「何か」を聞いた。
冬の大気は音を伝えやすい。その音は彼らの眼前に広がる雄大な白頭山の峰の向こう側に広がる北朝鮮領から、夜空を超え、オーロラを貫いて届いたものに違いなかった。
サイレンの音に似てとても甲高く、しかしどこか哀愁を感じさせるその音は、微かではあったが確かに彼の耳に感知された。彼にはその音は「アールー」と聞こえた。




