EP 9
山の掟の手合わせ
廃坑の入口に張り巡らされた『立入禁止』の荒縄を背に、マコトたちが村の広場へ戻ってきたとき、集落の空気は朝とは明らかに変わっていた。
道行く山羊人族の村人たちが、遠巻きにマコトの泥だらけのスーツ姿を盗み見ては、畏怖と好奇心が混ざり合った囁き声を交わしている。
だが、そのざわめきは、広場の中央に仁王立ちする一つの巨大な影によって、一瞬にして静まり返った。
「……おい。戻ったか、人間」
地鳴りのように低い声が、冷たい山風を裂いて響いた。
石造りの水場の前に立っていたのは、他の村人たちより頭一つ分以上も背の高い、筋骨隆々とした山羊人族の男だった。
年の頃は三十代半ばだろうか。褐色に焼けた逞しい上半身には無数の獣の爪痕が刻まれ、腰には分厚い毛皮と大ぶりの山刀を佩いている。そして頭部からは、古木のように太くねじれ、外側へ向けて荒々しく反り返った立派な二本の角が突き出していた。
その男が腕を組んで立っているだけで、広場全体に張り詰めた威圧感が満ちていた。
「ダン兄ちゃん……!」
ミラの顔に、さっと緊張が走った。
ロッカ村の戦士頭、ダン。狩猟隊を束ね、牙猿をはじめとする山の魔物から村を物理的に防衛している実力者だ。
ダンはのしのしと重い足音を響かせながら、マコトの正面数歩の距離まで詰め寄った。琥珀色の瞳は獰猛な光を宿し、マコトの細身の体躯を上から下へと冷徹に値踏みしている。
「ロディを助けたそうだな。丸太を使って岩を退かし、足の骨を固めたと聞いた。……そのことについては、村の戦士頭として礼を言ってやる。ありがとな」
「いえ。当然のことをしたまでです」
マコトが穏やかに頭を下げると、ダンの分厚い眉がぴくりと跳ね上がった。
「だがよ、それとこれとは話が別だ」
ダンは親指で自らの胸板をトンと叩き、獰猛な笑みを口元に浮かべた。
「ネル婆は昨日の約束通り、お前を今すぐ山へ叩き出せと言ってる。だが、恩人をそのまま追い出すのも寝覚めが悪い。……そこでだ。山で暮らすなら、山の男と手を合わせろ」
「……は?」
思わずマコトの口から気の抜けた声が漏れた。
「ダン兄ちゃん、何を言ってるの!?」
ミラが慌てて二人の間に割って入った。
「マコトさんは怪我人の手当てを終えたばかりなのよ! それに人間なんだから、ダン兄ちゃんと力比べなんてできるわけないじゃない!」
「引っ込んでろ、ミラ」
ダンは少女の制止を一蹴し、視線をマコトから外さなかった。
「知恵や小細工で岩を持ち上げるのは結構だ。だが、この過酷な山で背中を預けられるのは、いざというときに己の身を守れる骨のある奴だけだ。口先と道具だけのひ弱な人間を、ただの情けで村に置いておくわけにはいかねえんだよ」
(確認ですが、過酷な救助作業を終えたばかりの労働者に、いきなり無慈悲な実技試験ですか?)
マコトは胸中で鋭く悪態を吐いた。前職なら完全な労働安全衛生法違反であり、即座にコンプライアンス委員会に持ち込むべき案件だ。
だが同時に、マコトの営業肌と現場改善の勘が、別の事実を告げていた。
(……なるほど。現場の通過儀礼だな)
新しい現場に外部から乗り込んだとき、口先だけの能書きを垂れるコンサルタントが一番嫌われる。職人気質の現場責任者は、常に「こいつは本当に現場の泥を啜れる人間なのか」を試してくるものだ。
ここで正論を盾に断れば、命の恩人という表面上の立場は保てても、心の奥底では「所詮は口だけの人間」として永遠に一線を引かれ、居場所を失うことになる。
「まず、現状を把握しましょう」
マコトは小さく息を吸い込み、呟いた。
胸ポケットの手帳に触れる暇はないが、脳内のチェックリストが瞬時に立ち上がる。
【目的】ダンの承認の獲得、および村での安全な滞在権の確立。
【戦力分析】
・相手:体重およそ九十キロ、強靭な筋力、山羊人族特有の後肢の跳躍力と突進スピード。
・自分:体重六十五キロ、泥まみれのスーツ、疲労あり。正面からの筋力勝負は勝率ゼロ。
【勝てる条件】
1.力で力に対抗しない(合気道の基本原則)。
2.相手の突進力をそのまま推進エネルギーとして利用する。
3.山羊特有の前傾姿勢と角の突進癖から、重心の偏りを見抜いて崩す。
「分かりました」
マコトはミラを優しく手で制し、一歩前へ出た。
「手合わせ、お受けします。ただし、怪我のないよう素手での立ち合いでお願いできますか」
「ハッ、上等だ! 武器なんざ最初から使う気はねえよ!」
ダンは獰猛に吠え、腰の山刀を鞘ごと外して地面へ放り投げた。
広場を囲む村人たちが息を呑み、息詰まるような沈黙が場を支配する。ピピとルゥがミラの腰布にしがみつき、不安そうに大きな瞳を揺らしていた。
ダンが広場の中央で、低く身構えた。
その構えは、闘牛か突進する雄山羊そのものだった。強靭な太ももが筋肉を軋ませ、地面の敷石を爪先で削るように踏みしめている。頭部の太い角が、獲物を貫く穂先のようにマコトの胸元へと向けられた。
対するマコトは、肩の力を完全に抜き、自然体で立った。
両足を肩幅に開き、右半身をわずかに前へ出す半身の構え。大学時代、合気道部の主将として何万回と繰り返した、重心を臍の下――丹田へと落とす姿勢だ。
相手を力でねじ伏せる気など微塵もない。ただ、そこに一本のしなやかな竹のように、風を受け流すための軸を作る。
「行くぞッ、人間!」
ダンの咆哮とともに、地面が激しく爆ぜた。
山羊人族の跳躍力を乗せたその突進は、人間の全力疾走を遥かに凌駕していた。凄まじい風切り音とともに、巨大な筋肉の塊が一直線にマコトの懐めがけて肉薄する。
太い両腕が、マコトの襟首を掴んでへし折らんと熊手のように開かれていた。
(速い。だが――)
マコトの目は、恐ろしいほど冷静に相手の足元を捉えていた。
突進の速度が速ければ速いほど、前方に傾いた重心は容易に方向転換できない。相手の質量と加速のエネルギーは、そのまま相手を滅ぼす最大の武器へと変わるのだ。
ダンの指先が、マコトのスーツの胸元に触れる寸前――。
マコトは右足をわずかに外側へと踏み出し、身体の軸を紙一重で突進の軌道から滑り込ませた。入り身転換。
「なっ――!?」
ダンが目を見張った瞬間には、正面にいたはずのマコトの姿は掻き消えていた。
空を切ったダンの勢いを止めることなく、マコトは左手でダンの突き出された右腕の手首を柔らかく巻き込み、右手の手のひらをダンの顎の下へと吸い付くように添えた。
押しもしない。引っ張りもしない。
ただ、相手が進もうとするベクトルの方向へ、ほんのわずかに円を描くように自らの腰を回転させただけだ。
ダン自身の九十キロ近い巨体と、猛烈な突進のエネルギーが、マコトの体捌きを支点として、巨大な遠心力へと一瞬にして変換された。
山羊人族の強靭な脚が、敷石の摩擦を完全に失って宙へ跳ね上がる。
「うおっ!?」
視界が百八十度反転したダンは、何が起きたのか理解できないまま、広場の虚空を綺麗に一回転した。
呼吸投げの極致。
大柄な戦士の身体が、まるで一枚の木の葉のように軽々と宙を舞った。
ドガァンッ!!
乾いた砂煙を巻き上げながら、広場の中央にダンの分厚い背中が豪快に叩きつけられた。
激しい衝撃が敷石を揺らし、男の喉から「ぐふっ」と短く息が漏れる。
静まり返る広場。
あまりの光景に、取り囲んでいた村人たちは誰一人として声を上げることができなかった。
村で一番の腕利きであり、牙猿をも素手でねじ伏せる戦士頭が、細身の人間の男に触れられた瞬間、魔法のように宙を飛んで背中から落ちたのだ。
ミラはあんぐりと口を開けたまま硬直し、子どもたちは瞬きすら忘れて立ち尽くしていた。
マコトは静かに息を整え、乱れたスーツの上着の裾を引いて姿勢を正した。
殺傷はしていない。背中全体で地面の衝撃を受けるよう角度を調整して落としたため、骨折や致命的な打撲はないはずだ。だが、呼吸を整えるには数秒かかるだろう。
「……怪我はありませんか、ダンさん」
マコトが歩み寄り、地面に大の字になって天井の青空を見上げるダンへ、そっと右手を差し伸べた。
ダンは虚ろな目で宙を見つめたまま、ピクリとも動かなかった。
五秒、十秒と、重苦しい沈黙が広場に横たわる。
村人たちが「おい、ダン兄ちゃんが……やられたのか……?」「嘘だろ……」と青ざめかけた、そのときだった。
「――ぶっ」
ダンの分厚い唇から、奇妙な空気が漏れた。
続いて、胸板が激しく波打ち始める。
「ぶはっ……! あっはっはっはっは!!」
広場全体を震わせるような、凄まじい大爆笑だった。
ダンは痛む背中も構わず、地面に転がったまま腹を抱えて猛烈に笑い出したのだ。大粒の涙を琥珀色の瞳から滲ませ、敷石を拳で何度も叩きながら笑い転げている。
「なんだ今の技は! おい、人間! 俺の突進を、指先ひとつで空へ放り投げやがったぞ! 痛快だ、こんなふざけた投げ技、生まれて初めて食らったわ!」
ダンは転がりながら笑い続け、それから勢いよく上半身を起こすと、マコトが差し出していた右手を、自らの巨大な掌でバチンと力任せに握り返してきた。
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