EP 10
杖と、朝の体操
ダンの分厚く熱い掌が、マコトの右手を砕かんばかりの力で握りしめていた。
広場を埋め尽くしていた緊張は、戦士頭の豪快な笑い声によって完全に霧散し、村人たちの顔には呆気にとられたような安堵が広がっていた。
背中の土埃を無造作に払って立ち上がった大男は、獰猛な笑みを浮かべたままマコトの肩をバシバシと叩いた。
「気に入ったぞ、人間! いや、マコトだったな! 細っこい身体のどこにそんな力が眠ってるのか知らねえが、山で生きるに値する骨がある」
「手荒い歓迎、恐れ入ります。ですが、肩を叩く力加減はもう少し手加減していただけると助かります」
「ハハッ、すまねえな! これでも抑えてるんだがよ!」
ダンは広場の脇に立てかけてあった自らの荷物の中から、一本の長い木の棒を引き抜いて戻ってきた。
樹皮を丁寧に削ぎ落とし、油を擦り込んで滑らかに磨き上げられた、硬質な赤黒い樫の棒だった。長さは一メートル二十センチほど、大人の手首ほどの太さがある。
「ほらよ、受け取りな」
放り投げるように差し出されたそれを、マコトは反射的に両手で受け止めた。ずしりとした手応えが手のひらに伝わる。
「これは……?」
「樫の木の杖だ。折れた傘の骨で石を受け止めたり、太い枝で牙猿を叩いたんだろ? 丸腰のままじゃ山は歩けねえ。お前、道具を扱わせても相当やる口だろ」
ダンの琥珀色の瞳が、試すような、しかし確かな敬意を込めてマコトを射貫いていた。
「ネル婆の小言は俺が突っぱねてやる。もうお前は『客人』じゃねえ。この村の『仲間』だ」
(現場の責任者に認められた途端、待遇が百八十度変わる……。古今東西、職人の現場はこれだから侮れない)
マコトは胸中で小さく苦笑しつつ、手の中の杖を軽く撫でた。
「ありがとうございます。大切に使わせていただきます」
「おうよ! その代わり、タダで置いておくわけにはいかねえぞ」
ダンはニヤリと八重歯を覗かせた。
「さっき俺を宙に放り投げたあの技と、怪我をしねえ倒れ方――村の若い連中にも叩き込んでやってくれ。牙猿の奇襲を受けたり、岩場から足を滑らせたときに、命を拾える奴が増えるはずだ」
実利的で、何より仲間を思う提案だった。
「分かりました。俺に教えられることなら、喜んで」
◇
翌朝、朝靄が立ち込めるロッカ村の広場に、十数人の若者たちが集まっていた。
昨日の手合わせを目撃した狩猟隊の青年たちに加え、ミラ、そしてなぜか誇らしげな顔をしたピピとルゥの兄妹までが最前列に並んでいる。
昨日の落石で負傷したロディも、副木で固定された足を引きずりながら、広場の石段に腰掛けて目を輝かせていた。
「おい、人間……じゃなくてマコト! 早くあの宙を飛ぶ投げ技を教えてくれよ!」
「俺もダン兄ちゃんみたいにデカい奴を投げてみたい!」
先走る若者たちが拳を突き合わせ、やる気満々で息巻いている。
「まず、現状を把握しましょう」
マコトは樫の杖を地面に突き、静かに、しかしよく通る声で若者たちを制した。
「確認ですが、皆さんは朝起きてすぐに全力で岩を砕いたり、全力疾走したりしますか?」
「え? いや……そりゃ、身体が重いし、いきなり動くと筋を違えるからしねえけど」
「その通りです。冷え切った筋肉と腱を急激に伸ばせば、技を覚える前に大怪我をします。現場の無災害は、正しい段取りから始まるんです」
マコトは杖を脇に置き、広場の中央で両足を肩幅に開いた。
「怪我をしないための準備運動をします。音楽はありませんが、私の号令に合わせて身体を動かしてください」
前職の建材メーカー時代、工場でも建設現場でも、朝礼の後に全社員が必ず義務付けられていた日課――ラジオ体操だ。
あのピアノの旋律や歌を流すわけにはいかないが、医学的・運動力学的に極めて合理的な一連の可動域運動は、マコトの身体に完全に染み付いていた。
「腕を前から上にあげて、大きく背伸びの運動! いち、に、さん、し、ご、ろく、しち、はち!」
マコトが腕を高く掲げ、胸郭を広げてみせる。
若者たちは顔を見合わせ、戸惑いながらもぎこちなく腕を上げた。
「な、なんだこれ……? 変な動きだな」
「腕を上げるだけで強くなれるのかよ?」
「いち、に! さん、し!」
からかい半分の若者たちをよそに、最前列で誰よりも真剣に真似を始めたのは、ピピとルゥだった。
二人は小さな腕を力いっぱい天へと突き上げ、短い尻尾をふりふりと揺らしながら声を張り上げる。
「ごー、ろく! しち、はち!」
「お兄ちゃん、これたのしい!」
子どもたちの無邪気な姿に釣られるように、ミラもクスリと笑って手足を伸ばし始めた。狩人として研ぎ澄まされた彼女の身体は、動作の意味を即座に肌で理解したようだった。
「あ……これ、肩甲骨の周りがすごく伸びる。投石紐を振る前の筋伸ばしにぴったりかも……!」
「次は脚の曲げ伸ばし! いち、に、さん、し!」
「腕を回して、斜め前へ倒す! ご、ろく、しち、はち!」
号令を重ねるにつれ、広場の空気が変わっていった。
最初は冷笑気味だった大柄な若者たちも、首を回し、体側を伸ばし、深く前屈するうちに、じんわりと背筋に温かい血が巡り始めるのを感じて目を見張った。
山羊人族の強靭だが硬くなりがちな腱が、無理なくほぐれ、関節の可動域が広がっていく。
「おお……なんか、身体が軽いぞ?」
「朝の冷え込みで固まってた腰が、すっと回るようになった!」
広場の隅で腕を組んで見守っていたダンも、思わず自らの太い首をゴキゴキと鳴らし、列の後ろでぎこちなく腕を振り始めた。
「深呼吸。息を吸って――吐いて」
最後の一息を吐き終えたとき、広場にいた全員の呼気が白く立ち上り、顔には爽快な血色が差していた。
「よし、身体が温まったところで、本日の基本訓練に入ります」
マコトは泥で汚れた地面を指差した。
「今日教えるのは、相手を投げる技ではありません。自分が投げられたとき、あるいは崖から転落したときに、骨を折らずに生き残るための『受け身』です」
「……受け身?」
「手をついて体重を支えようとすると、手首や鎖骨が折れます。衝撃は一点で受けるのではなく、面で分散させて地面を叩く。背中を丸め、頭を抱え、球体になって衝撃を逃がすんです」
マコトはその場で自ら背中から転がり、地面を鋭く掌で叩いて立ち上がってみせた。
無駄のない、流れるような動作に若者たちが息を呑む。
一人ずつ順番に地面へ倒れ込ませ、手の角度、顎の引き方、足の畳み方を丁寧に修正していく。
「痛えっ! 肘を打った!」
「肘から落ちるな、手のひら全体で地面を叩くんだ。視線はおへそを見る!」
「こうか……? あ、痛くない! 全然響かねえぞ!」
転び方の要領を掴んだ若者たちが、歓声を上げて地面を転がり始めた。
山岳地帯に暮らす彼らにとって、滑落や転倒は日常茶飯事の死活問題だ。力自慢の荒っぽい技よりも、この「怪我をしないための技術」がどれほど実践的で価値があるか、身体を通じて痛烈に理解したのだ。
一通りの稽古を終え、太陽が完全に山の端から顔を出した頃。
マコトは集まった全員を整列させた。
「最後に、もっとも重要な手順を行います」
マコトは胸ポケットから手帳と油性ボールペンを取り出した。
「作業や訓練の前後には、必ず『点呼』を行います。自分の名前を呼ばれたら、元気に返事をして健康状態を報告してください」
「点呼……? そんなの、見てわかりゃいいじゃねえか」
若者の一人が不思議そうに首を傾げたが、マコトは首を横に振った。
「非常時やパニックが起きたとき、誰が現場にいて、誰が取り残されているのかを瞬時に把握できなければ、二次災害を防ぐことはできません。声を出し、耳で確認する。これが命を守る最後の砦です」
マコトは手帳に書き留めた名簿に視線を落とした。
「ダンさん」
「おう! 怪我なし、絶好調だ!」
「ミラさん」
「はい! 異常ありません!」
「ピピ、ルゥ」
「はーい! げんきいっぱい!」
「ルゥも! おなかへった!」
次々と返ってくる力強い声に、広場に笑いが起きる。
名簿の全員にチェックを入れ終えたマコトは、手帳をパチンと閉じた。
「よし、全員無事。本日の訓練を終了します!」
その瞬間だった。
ポン。
頭蓋の奥で、澄んだ印鑑の音が軽快に響いた。
視界の隅に、淡い光を放つお馴染みの考課票が展開される。
――――――――――――――――
【考課】行動:技能の指導/+10KP(累計90)
――――――――――――――――
(技能の指導でプラス10ポイント……これで累計90KPか)
マコトは胸中で頷いた。
等級『本採用』の基準である累計100KPまで、あとわずか10ポイント。
武力で敵を倒すのではなく、こうして生活と現場に根ざした知恵を共有することでも、確かにこのシステムは正当に評価を下してくれる。この世界の倫理のあり方に、改めて確信を深める思いだった。
◇
若者たちが解散し、それぞれ朝の持ち場へと散っていった広場の片隅で。
マコトは一人、ダンから譲り受けた樫の杖を両手で構え直した。
右へ払う。左へ突く。頭上へ掲げ、円を描いて腰を落とす。
大学時代に修めた合気道の杖の型を、一つひとつ確かめるように宙に描いていく。
ヒュッ、と空気を裂く鋭い音が鳴る。
しかし――。
(……重いな)
マコトは額の汗を拭い、杖を見つめて眉をひそめた。
木材としての質は素晴らしい。樫の硬さと粘りは、牙猿の骨をも打ち砕くだろう。
だが、これはあくまで山羊人族の体格と腕力に合わせて切り出された棒切れだった。マコトの身長に対してわずかに短く、重心が先端側に偏りすぎている。相手の力を滑らかに流し、繊細な手首の返しで関節を制するには、先端が重すぎて手元がブレるのだ。
振るうたびに、手のひらの皮が擦れ、わずかな違和感が指先に残る。
生き死にを分ける間合いのやり取りにおいて、このほんの数ミリの重心のズレは、致命的な隙になりかねなかった。
(手に馴染まない道具を無理に使うのは、現場における最大のヒューマンエラーの要因だ……)
マコトが杖を握り直し、思案の溜息をついていた、そのときだった。
広場の向こうから歩み寄ってきたミラが、その視線に気づいて声をかけてきた。
「マコトさん、その杖……少し扱いにくそうですね?」
読んでいただきありがとうございます。
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