EP 11
片腕の職人
広場の朝靄が晴れゆく中、マコトの手の中にある樫の杖は、やはりどこかしっくりと来なかった。
山羊人族の屈強な体躯に合わせて削り出されたそれは、重心がわずかに先端へ寄りすぎている。
稽古を終えて歩み寄ってきたミラが、琥珀色の瞳を瞬かせながらその杖へ視線を落とした。
「マコトさん、その杖……少し扱いにくそうですね?」
「ええ。木質は素晴らしいのですが、私の体格と手の大きさには少し太くて長すぎるようです。何より、相手の力を受け流すための重心が合っていません」
「それなら、仕立て直してもらいませんか? 村の鍛冶屋に頼めば、マコトさんの身体にぴったりの杖を作ってくれるはずです」
「この村に、木工や鍛冶を専門にしている職人さんがいるんですか?」
「はい。一人だけいます」
ミラは頷いたものの、その整った眉をわずかに曇らせた。
「崖のそばに工房を構えている、ゴッサ爺さんです。村の鶴嘴や山刀、木組みの補修具なんかは全部あの人が打っています。……ただ」
「ただ?」
「ものすごく頑固で偏屈なんです。何年も前に起きた大きな落盤事故で左腕を失ってから、ますます気難しくなって……。ネル婆様以上に人間を嫌っています。マコトさんの頼みを聞いてくれるかどうか……」
(片腕を失いながら、一人で鍛冶と木工を続けている職人か……)
職人肌の現場責任者ほど、理屈や情に流されない頑固さを持っているものだ。だが、手に馴染まない道具を妥協して使い続けることのリスクを、マコトは誰よりも知っていた。
「まず、現状を把握しましょう。会って話を聞いてみないことには始まりません」
◇
村の最奥、切り立った岩壁の窪みに張り付くようにして、その工房は建っていた。
煙突からは薄く青い煙が立ち上り、焦げた木と焼けた鉄の匂いが漂っている。
工房の入口に足を踏み入れると、薄暗い作業場の奥から、規則正しい金属音が響いてきた。
カン、カン、カン。
赤く熱せられた鉄の塊を金床に押し当て、重い金槌をリズミカルに振り下ろしている老人がいた。
深い皺が刻まれた顔、頭から生える短く太い角。火花に晒され続けた皮膚は黒く煤けている。そして何より目を引いたのは、その左腕だった。肘から先が失われており、革の帯で固定された鉄製の治具が、金床の上の熱鉄をしっかりと押さえ込んでいた。右手一本で大槌を振るい、狂いなく鉄を鍛え上げている。
ロッカ村の老職人、ゴッサだ。
「ゴッサ爺さん……」
ミラがおずおずと声をかけた瞬間、金槌の音がピタリと止まった。
ゴッサは振り返りもせず、鉄を水桶に突っ込んだ。
ジュウウゥゥッ、と激しい水蒸気が立ち込め、工房を満たす。
ようやくこちらを向いた老職人の琥珀色の瞳は、研ぎ澄まされた刃物のように冷たかった。その視線がマコトの姿を捉えた刹那、露骨な嫌悪と怒りが老人の顔を歪めた。
「……なんだ、その人間は」
低く、ひび割れた声が吐き捨てられた。
「ネルの奴が追い出し損ねた放浪者か。よりによって、そいつを俺の仕事場に連れてくるとは何の真似だ、ミラ」
「あのね、ゴッサ爺さん! マコトさんはロディを助けて、牙猿からも私たちを守ってくれたの! それで、マコトさんの手に合う杖を作ってほしくて――」
「断る」
老人はミラの言葉を即座に叩き切った。
ゴッサは金槌を乱暴に作業台へ置き、マコトを鋭く睨みつけた。
「俺が打つのは、この過酷な山で土を掘り、獣から生き延びる同胞のための道具だけだ。かつて山を食い荒らし、俺の腕を奪った人間どものために削る木も、打つ鉄も、爪の先ほども残っちゃいねえ。二度と敷居を跨ぐな。さっさと失せろ」
「ゴッサ爺さん、そんな言い方……!」
抗議しようとするミラの手を、マコトは静かに制した。
(なるほど。過去の事故で身体の一部を奪われた職人の無念と矜持……。言葉の正論だけで動く相手じゃないな)
前職の建材メーカー時代、下請け工場の頑固な職長たちと何度も渡り合ってきた。彼らが求めているのは、耳触りのいい同情でも、理不尽な頭下げでもない。「本物の仕事」に対する敬意と、職人の誇りを刺激する具体的な提案だけだ。
「突然の無礼をお許しください、ゴッサさん」
マコトは一歩前へ進み出ると、ビジネスバッグから手帳と黒い油性ボールペンを取り出した。
「人間のために打つ気がないというお言葉、重々承知しております。ですが、職人であるあなたに、まずはこれを見ていただきたいのです」
マコトは作業台の空いたスペースに手帳の白紙ページを広げ、ボールペンのノックをカチリと鳴らした。
迷いのない線で、紙の上に一本の杖の図面を素早く描き出していく。
上面図、側面図、断面図。
建材メーカーの業務改善推進室で、何千枚もの施工図面や治具の設計図をチェックしてきた技術が、ペン先から滑らかに溢れ出した。
「……あ?」
作業台の向こうで背を向けかけていたゴッサの眉が、わずかにピクリと動いた。
「私が希望している杖の仕様です」
マコトは図面を指し示しながら、淡々と数値を書き込んでいった。
「全長は百二十八センチ。私の伸長とリーチから算出した、合気道の杖術に最適な寸法です。太さは手元側が径二十四ミリ、先端側が径二十一ミリ。緩やかなテーパー(傾斜)をかけています。そして握りの部分は、単なる円形ではなく緩やかな八角形に削り出し、手汗による空転を防ぐ形状にしてください」
さらにマコトは、先端の構造図を拡大して描き足した。
「先端には、長さ八センチの鉄製の石突きを被せます。ただし、単に鉄のキャップを被せるだけでは打撃の衝撃で木が痩せて抜け落ちる。先端の樫をクサビ型に削り、熱した鉄筒を嵌め込んで収縮させる焼嵌め(やきばめ)を行った上で、真鍮か銅のピンで二箇所をリベット留めする構造にしたいのです」
「…………」
ゴッサの喉から、声が消えていた。
老職人の琥珀色の瞳が、手帳の上に描かれた緻密な図面に釘付けになっていた。
線の美しさ、寸法の合理性、そして何より「木と鉄の性質」を熟知していなければ絶対に描けない、理に適った結合構造。ただの素人が思いつきで語っているのではないことが、図面の一線一画から嫌というほど伝わっていた。
「そして……最大の問題は重心です」
マコトは図面の中央やや手元寄りの位置に、一本の基準線を引いた。
「全長百二十八センチに対し、重心位置を手元から五十二センチの地点に設定したい。先端の鉄の重みと、木材の比重を計算し、振った瞬間に手元でピタリと止まるバランスが必要です。……これを実現するには、ミリ単位の寸法管理が欠かせません」
「ミリ……? なんだ、その聞き慣れねえ単位は」
ゴッサが思わず身を乗り出し、掠れた声で問い質してきた。
「お前の描いたこの絵……筋は通ってる。だが、こんな細けえ寸法をどうやって木や鉄に落とし込むってんだ。木の厚みなんざ、指の節や手のひらで測るのが関の山だぞ」
(よし、食いついた)
職人の魂に火がついた瞬間を、マコトは見逃さなかった。
「指の感覚では、その日の体調や湿度で必ず数ミリのズレが生じます。だからこそ、この道具を使うんです」
マコトは視界の右隅、【社内購買カタログ】のタブを静かに開いた。
現在の残高は26KP。日用品・文具のカテゴリから、目当ての品を検索する。
・ステンレス製ノギス(150mm・最小読取値0.05mm):1 KP
『ノギスを取り寄せます。消費KP:1/残高:25 KP』
マコトの掌の上に、淡い光の粒子が集まった。
光が引いたあとに残されたのは、鈍い銀色の輝きを放つ、冷たい金属の器具だった。
「なっ……!?」
ゴッサが息を呑み、思わず作業台に片手をついて身を乗り出した。
「な、なんだその光は……! それに、その銀の板は……」
「ノギス、と呼ばれる測定器具です」
マコトは滑らかな金属の質感を確かめながら、作業台の上に置かれた鉄の棒を挟み込んだ。
外側のクチバシで外径を挟み、上部のクチバシで内径を測り、末端から伸びる細いデプスバーで穴の深さを測ってみせる。
「ここに目盛りが二種類刻まれています。本尺と、こちらの副尺です」
マコトは手元のノギスをゴッサの眼前へ差し出し、目盛りの読み方を平易に実演した。
「本尺の目盛りと副尺の目盛りがピタリと一致する線を読むことで、髪の毛一本分――わずか零点零五ミリの狂いまで、誰が測っても全く同じ数値を読み取ることができます」
「零点……零五……!?」
ゴッサの片腕が、小刻みに震え始めた。
老職人はマコトの手から奪い取るようにしてノギスを受け取ると、残された右手の指先で、その寸分の狂いもない精緻な目盛りを愛撫するように撫で回した。
「すげえ……なんだこの滑らかさは……。鉄の狂いが一切ねえ。外も、中も、深さまで……片手で挟むだけで、完全に同じ厚みが分かるってのか……!?」
ゴッサの琥珀色の瞳に、職人としての純粋な驚愕と熱狂が宿っていた。
片腕を失って以来、道具の固定や寸法の測定には人一倍の苦労を重ねてきたはずだ。片手だけで狂いなく厚みや内径を数値化できるこの器具が、どれほど革命的な意味を持つか、この老人が理解できないはずがなかった。
「ゴッサさん。このノギスは、あなたに差し上げます」
マコトは穏やかに告げた。
「私の杖を打つための、計測器具として使ってください。そしてあなたのこれからの仕事にも、役立てていただきたいのです」
「俺に……これを……?」
ゴッサはノギスを抱きしめるようにして固まり、それから手帳に描かれた杖の図面と、マコトの顔を交互に見つめた。
人間への怨嗟と、目の前の素晴らしい知恵に対する畏敬が、老人の胸中で激しく鬩ぎ合っているのが見て取れた。
その瞬間だった。
ポン。
頭蓋の奥で、澄み渡るような、しかし極めて重みのある印鑑の音が響いた。
視界の前面に、見たこともないほど眩い光を放つ考課票が展開される。
――――――――――――――――
【考課】行動:技術の共有/評価:A/+10KP(累計100)
――――――――――――――――
直後、ウィンドウの枠組み全体が黄金色の粒子を散らしながら、激しく明滅した。
無機質で事務的なアナウンスが、マコトの頭の中に直接響き渡る。
『累計考課ポイントが100に達しました』
『試用期間の満了に伴い、等級が【本採用】へ昇格します』
『【社内購買カタログ】の品揃えが更新されました』
(本採用……昇格したのか!)
マコトは胸中で熱い息を呑んだ。
電車のホームで命を落とし、残高ゼロの試用等級として放り出されてから、泥水を啜るようにして積み上げてきた善行と改善の成果。それが今、ついに「本採用」という一つの確かな節目として認められたのだ。
購買カタログの食品や日用品の枠に、新たな商品名がいくつも灯っているのが視界の端で見えた。
マコトが静かに息を整えていると、作業台の向こうでゴッサが重い息を吐き出した。
老職人はノギスをそっと台の上に置くと、手帳の図面を乱暴に指で叩いた。
「……おい、人間」
ゴッサの顔から、先ほどまでの刺々しい敵意は消え失せていた。残っていたのは、難題を前にして獰猛に笑う、生粋の職人の顔だった。
「この図面通り、一分の狂いもねえ八角形と重心の樫を削り出し、最高の焼き入れをした鉄を噛ませてやる。……俺の仕事を舐めるなよ」
「ありがとうございます、ゴッサさん」
「十日後に来い」
老人は背を向け、大槌を握り直した。
「それまでに、この山で一番の杖を仕上げておいてやる」
◇
工房を後にしたマコトとミラは、夕暮れに染まる坂道を並んで下りていた。
「すごいです、マコトさん! あの頑固なゴッサ爺さんが、あんなに嬉しそうな顔をして仕事を引き受けるなんて!」
「いえ、道具の価値を理解してくれたゴッサさんが素晴らしい職人だっただけですよ」
笑い合いながらミラの家へ戻り、ピピとルゥに迎えられて温かい夕食を囲んだ。本採用への昇格を果たし、手に入る装備への期待を胸に、マコトは藁の寝床で心地よい眠りについた。
――だが、平穏は長くは続かなかった。
深夜、肌を刺すような冷気の中で、けたたましい叫び声が村の静寂を切り裂いた。
「うわああっ! 出たぞッ!」
「家畜小屋だ! 山羊たちがやられたッ!」
飛び起きたマコトが闇の中へ駆け出すと、村の端にある頑丈な木柵が無残にへし折られ、引き裂かれた山羊の鮮血が夜の闇に生々しく飛び散っていた。




