EP 12
その値段は、おかしいです
夜明けのロッカ村を包んでいたのは、家畜小屋を荒らされた怒りと、それ以上に深い沈痛な空気だった。
木柵をへし折って侵入した牙猿に山羊を二頭食い殺され、冬を越すための貴重な乳と毛皮の源を奪われたのだ。
重苦しい静寂が広場に垂れ込める中、坂道の下からギシギシと軋む車輪の音が響いてきた。
「おい、商人だ。ヤーコフが来たぞ」
見張りの若い山羊人族が声を上げた。
村の広場へ上がってきたのは、頑丈な二頭立ての荷馬車だった。御者台から降り立ったのは、仕立ての良いウールの外套をまとい、脂ぎった丸顔に細い目を貼り付けた太った人間の男――仲介商人のヤーコフだった。
荷馬車の側面には、黒い焼き印が押されていた。
丸い枠の中に、幾何学的な三本の牙と鎖が組み合わされた、見慣れない奇妙な意匠だ。どこかの商会か領主の紋章だろうか。マコトはその紋章にわずかな違和感を覚えつつも、視線を荷降ろし場へと向けた。
「やあやあ、ネル殿。ひと月ぶりだな。相変わらず陰気な山だことだ」
ヤーコフは鼻を鳴らし、広場に集まった村人たちを値踏みするように見回した。
村人たちが運んできたのは、命がけで山奥から採取してきた薬草の束と、廃坑の周囲から拾い集めた銅混じりの鉱石くずが入った木樽だ。
ヤーコフは豚革の手袋をはめた指先で、木樽の鉱石を乱暴にかき回した。
「相変わらず質の悪いクズ石ばかりだな。不純物だらけで精錬の手間ばかりかかる。薬草も葉先が縮んでおる。……全部まとめて、鉄貨二十枚だな」
「なっ……!?」
鉱石を運んできた若者が息を呑み、拳を震わせた。
「そんな馬鹿な! 薬草は乾燥を徹底した特級品だぞ! 鉱石だって、前の崩落で命がけで掘り出したやつだ! 鉄貨二十枚じゃ、道具の油代にすらなりゃしねえ!」
「嫌なら持ち帰るがいい」
ヤーコフはせせら笑い、荷台の幌をめくって素焼きの小壺を取り出した。
「わしが持ってきた塩はこれだけだ。……この塩壺一つで、銀貨二枚。鉱石と薬草を全額引き取った上で、足りない分はツケにしておいてやろう。ありがたく思え」
壺の蓋が開けられた瞬間、マコトは目を見張った。
中に詰まっていたのは、灰色にひどく濁り、砂利や粘土の粉末が混ざり込んだ粗悪極まりない岩塩だった。量にして五百グラムにも満たない。
(確認ですが……原価と輸送費をどう積算したら、その暴利になるんだ?)
マコトの脳内で、前職の営業時代に叩き込まれた相場感とコスト計算の歯車が、凄まじい速度で回転を始めた。
薬草の乾燥状態は完璧で、生薬としての価値は高い。銅鉱石のくずも品位は低くない。麓の町までの輸送コストと荷馬車の損料、商人の粗利を多めに見積もったとしても、買い取り額は市場価格の十分の一以下だ。
一方で、あの泥混じりの塩の価格は法外の極みだった。銀貨二枚といえば、平地の町なら上等な布や麦が袋ごと買える大金だ。粗利率にして九割を優に超えている。商取引などではない、ただの略奪だった。
「……ネル婆様」
若い鉱夫が悔し涙を滲ませて長老を振り返った。
杖を突いたネル婆は、深く刻まれた顔の皺をさらに険しく歪め、ただぎゅっと唇を噛み締めていた。
「……分かったよ。その条件で、塩を分けてもらいましょう」
「ネル婆様!?」
「お黙り! 塩がなきゃ、子どもたちが倒れるんだよ……!」
老女の悲痛な声に、広場全体が絶望的な沈黙に包まれた。山羊人族の戦士たちも、悔しさに顔を背けて俯くしかない。この男を怒らせて塩の供給を止められれば、村が干からびて死ぬことを誰もが知っているからだ。
ヤーコフが満足げに豚のような喉を鳴らし、粗悪な塩壺を差し出そうとした。
マコトの右手が、無意識にスーツの内ポケットへと伸びていた。
指先に触れる、冷たいプラスチックの感触。
百円均一の、使い古された黒い油性ボールペン。
――前の職場の光景が、痛烈なフラッシュバックとなって脳裏を灼いた。
『おい、お前のミスで納期が遅れたらどう落とし前をつける気だ!』
フロア中に響き渡る上司の罵声。青ざめ、過呼吸を起こしかけながら机にすがりついていた後輩の丸まった背中。
あのとき、同じフロアにいた自分は何をした?
波風を立てるのを恐れ、自分の査定を守るために、パソコンの画面を見つめたまま指を動かすふりをして黙り込んだのだ。理不尽だと分かっていながら、声を上げなかった。その結果、後輩は心を壊して会社を去り、借りたままのこのペンだけが手元に残った。
(声を上げないことは、その理不尽に加担しているのと同じだ)
胸の奥で、カチリと何かが噛み合った。
損得勘定でも、査定ポイントの計算でもない。これ以上、理不尽に踏みにじられる者を前にして沈黙することは、己の魂に対する背信だった。
「その値段は、おかしいです」
静かな、しかし広場中の空気を震わせるほど澄んだ声が響いた。
全員の視線が一斉にマコトへと集まった。
ヤーコフが怪訝そうに眉を跳ね上げ、泥だらけのスーツを着たマコトを睥睨する。
「ああん? なんだ貴様は。見慣れん成りだが……村の余所者か?」
「建材メーカーの営業におりました、相沢誠と申します」
マコトは一歩前へ進み出ると、懐から手帳を取り出し、淀みない口調で突きつけた。
「確認ですが、麓の町からこの村までの行程は、荷馬車で片道およそ二日。途中の関税や飼料代を上乗せしたとしても、岩塩五百グラムの適正原価は銅貨五枚前後のはずです。それを銀貨二枚で売りつけるのは、通常の商業利幅の十倍以上の暴利です」
「な、何をわけの分からん世迷い言を……!」
「さらに、この乾燥薬草」
マコトは広げられた薬草の束を指差した。
「水分含有率を極限まで落とし、日光による変色も防いである特級品です。平地の薬師ギルドなら、この一束だけで銀貨一枚の買い取りがつきます。それを鉱石と合わせて鉄貨二十枚に買い叩くなど、相場を無視した不当廉売の強要――完全な優越的地位の乱用ですよ」
論理的で、一切の隙のない指摘。
ヤーコフの丸顔がみるみるうちに屈辱と怒りで赤黒く染まっていった。
「き、貴様ッ……! 商売の素人が、偉そうに口を挟むな!」
「素人ではありません。商売の基本は『双方の利益の継続性』です」
マコトは一歩も引かず、冷徹な視線で商人を見据えた。
「片方を一方的に飢えさせ、搾り取るだけの関係は取引とは呼びません。ただの寄生です」
「マコト、やめなさい!」
ネル婆が青ざめて杖を叩き、マコトの前に割り込んできた。
「余計なことを言うんじゃないよ! あんたにこの村の何が分かるんだい!」
周囲の村人たちも、マコトの言葉に目を見張りながらも、報復を恐れて身を縮こまらせ、視線を逸らしていた。
ヤーコフは鼻から荒い息を吹き出し、荷台の塩壺を乱暴に引っ込めた。
「フンッ! よく分かっておるではないか、古だぬき!」
商人は御者台へと飛び乗り、手綱を握り直すと、村人全員を見下ろして獰猛に嘲笑った。
「いいか、よく覚えておけ! こんな魔物の巣窟の山奥まで、わざわざ危険を冒して物を売りに来る物好きは、わし以外に誰一人としておらんのだぞ!」
ヤーコフはマコトを指差して唾を吐きかけた。
「その口の減らん人間の言う通りにしたいなら、勝手にするがいい! 鉱石も薬草も買い取らん! そして次の満月まで、一粒の塩もこの村には運んでやらんからな! 干からびて死ぬがいいわ!」
ビシィッ、と鞭の音が響き、荷馬車は猛烈な砂煙を上げて坂道を駆け下りていった。
車輪の側面に刻まれた、あの不気味な三本の牙の紋章が、土煙の向こうへと消えていく。
重苦しい沈黙が、再び広場を支配した。
「……どうするんだよ」
「塩が……次の月まで来ないなんて……」
若者たちが絶望に肩を落とし、マコトを見る村人たちの目には、助けられた感謝と、生活を脅かされた困惑が入り混じっていた。
「余計な真似を……」
ネル婆はマコトを一瞥し、忌々しそうに吐き捨てて踵を返した。
「正論で腹が膨れるなら、誰も苦労はしないんだよ」
背を向けて去っていく老女の後ろ姿を、マコトは静かに見つめていた。
(……これで良かったんだ)
胸ポケットのペンに触れる。後悔は微塵もなかった。理不尽に頭を下げ続けても、いずれ村は緩やかに殺されていたのだ。声を上げたことに、悔いはない。
「おい、マコト」
低くしゃがれた声が、背後からかかった。
振り返ると、片腕の老職人ゴッサが、煤けた前掛け姿で立っていた。
「……仕事場へ来い。できてるぞ」
◇
鍛冶工房の作業台の上に、一本の杖が横たわっていた。
マコトは息を呑み、吸い寄せられるようにその杖へと手を伸ばした。
手帳に描いた図面通りの寸法。全長百二十八センチ。
手元から先端にかけて緩やかな八角形に削り出された樫の木肌は、職人の掌で徹底的に磨き上げられ、鈍い光を放っている。握り込むと、手のひらの皮に吸い付くように馴染み、汗をかいても決して滑らない絶妙なエッジが立っていた。
そして先端には、焼嵌めによって樫の木と完全に一体化した、長さ八センチの頑強な鉄製の石突きが嵌め込まれていた。二箇所に打ち込まれた真鍮のピンが、寸分の狂いもなく木と鉄を繋ぎ止めている。
持ち上げ、軽く振るってみる。
ビュンッ、と風を切り裂く鋭い音が工房に響いた。
(……完璧だ)
手元から五十二センチの重心位置。先端の重みが合気道の遠心力を自然に引き出し、止めるべき位置でピタリと掌の中に静止する。手足の延長どころではない。自らの神経が、そのまま一本の樫の木へと通ったかのような一体感だった。
「ノギスってやつは、とんでもねえ化け物道具だな」
ゴッサは腕を組み、満足そうに鼻を鳴らした。
「片手しかねえ俺でも、図面通りの厚みと深さを完璧に出せた。……お前の図面、一分も狂わせず形にしてやったぞ」
「ありがとうございます、ゴッサさん。最高の道具です」
マコトが深く頭を下げると、老人は照れ隠しのように顔を背けた。
そのときだった。
バァンッ!
工房の粗末な木扉が激しい勢いで蹴破られた。
転がり込んできたのは、息を乱し、肩で息をする狩猟隊の青年だった。その顔は恐怖で真っ白に引き攣っている。
「マコト! ゴッサ爺さん! 大変だッ!」
青年は悲鳴のような声を張り上げた。
「牙猿の群れだ……! 何十匹もの大群が、山を駆け下りてくる!」
「何だと……!?」
ゴッサが息を呑む中、青年は震える指先で窓の外の稜線を指差した。
「普通の群れじゃねえ! 先頭に……体長が倍もある、白銀の毛並みの巨躯がいる! 群れの王――『白牙』だッ!」
読んでいただきありがとうございます。
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