EP 7
白い塩
暖炉の薪が爆ぜる音だけが、静まり返った小さな石造りの部屋に小さく響いていた。
食べ終えた素焼きの椀を前に、マコトは土間の隅に置かれた調味料用の甕をじっと見つめていた。
底に張り付いた灰色のにごった結晶は、指先で二、三度なでれば消えてしまいそうなほど頼りない量だった。
「あの、お口に合いませんでしたか……?」
心配そうに顔を覗き込んできたミラに、マコトは慌てて首を振った。
「いえ、本当に美味しかったですよ。ただ……気になってしまって。あの甕の中、塩ですよね。もう底が見えていますが、村の備蓄もあのような状態なのですか?」
マコトの問いに、ミラは気まずそうに視線を伏せ、小さく息をこぼした。
「はい……。うちだけじゃなくて、ロッカ村のどの家も同じです。山には塩が出る場所がありませんから、麓からたまにやってくる仲介商人から買うしかないんです」
「麓の商人から、ですか」
「ええ。でも、すっごく高いんです。私たちが山で命がけで獲った毛皮や干し肉、村の男たちが拾い集めた鉱石のくずを山のように積んでも、ほんのひと握りの塩としか換えてもらえなくて……。だから、普段は本当に少しずつ、溶かして薄めて使うしかありません」
ミラの言葉を聞きながら、マコトは膝の上で丸まっていた二つの小さな頭を見下ろした。
兄のピピと、妹のルゥ。
マコトが沢で牙猿から救い出した、山羊人族の幼い兄妹だ。二人はマコトの両脇にぴったりと寄り添い、暖炉の火の温もりに微睡みながら、小さな手でマコトの汚れたスーツの上着をぎゅっと握りしめていた。
「その子たちは、ミラの弟妹なんですか?」
「いえ、いとこなんです」
ミラは暖炉の火を見つめながら、ぽつりぽつりと静かな声で紡いだ。
「二人の両親も、私の両親も……数年前に山を襲った流行り病で亡くなりました。この村には薬も満足に届きませんから。それ以来、私が狩りに出て、この子たちと三人で暮らしているんです」
「そうだったんですか……」
(十九歳で親代わりになって、子ども二人を養いながら狩人をしてるのか)
過酷な山の環境で、育ち盛りの子どもを抱えながら、命を削るようにして日々を凌いでいる。
そして何より、塩の欠乏は単なる味付けの不満では済まない。
前職の建材メーカー時代、夏場の工場や建設現場における熱中症対策は業務改善推進室の最重要課題の一つだった。人間や獣人の体内におけるナトリウムは、浸透圧を保ち、神経伝達や筋肉の収縮を司る生命活動の根幹だ。塩分が不足すれば、倦怠感、筋痙攣、思考力の低下を招き、極度の脱水状態に陥れば命を落とす。
(生活必需品であり、代替のきかない独占物資を高値で売りつけて買い叩く。……絵に描いたような悪質な価格吊り上げだな)
胸の中で鋭く舌打ちが鳴る。
弱者の生命維持を人質に取ったような商売に、マコトの営業肌と業務改善の倫理が激しい拒絶反応を示していた。
「まず、現状を把握しましょう」
マコトはいつもの口癖を小さく呟き、視界の右隅へと意識を向けた。
半透明のウィンドウが眼前に静かに展開する。
――――――――――――――――
【人事考課シート】
氏名:相沢 誠
等級:試用
累計KP:30
保有残高:27 KP
【社内購買カタログ】
――――――――――――――――
マコトは『社内購買カタログ』のタブを開いた。
食品カテゴリの項目を目で追っていくと、探していたものがすぐに見つかった。
・塩(1kg・精製塩):1 KP
一キログラムで、わずか一ポイント。
先ほどマコトが食べた塩むすび一つと同じ対価だ。
残高は二十七ポイントある。この村の生命線を潤すには、十分すぎるほどの数字だった。
(一晩の宿と、温かい食事の恩返しだ。これくらい経費で落とせなきゃ男が廃る)
マコトは画面越しに購入の承認を念じた。
『塩(1kg)を取り寄せます。消費KP:1/残高:26 KP』
淡い青白い光が、マコトの膝の前の空間にふわりと集まった。
光が粒子となって霧散したあと、そこには見慣れた透明なポリエチレンの袋が、ドサリと音を立てて現れた。
袋の表面には、現代日本のスーパーで誰もが見かけるような、簡素で無機質な青いロゴが印刷されている。そして袋の中を満たしているのは、不純物が一切混ざっていない、眩いばかりの純白の結晶だった。
「えっ……!?」
ミラが目を見張り、暖炉の前で息を呑んだ。
「な、なんですか、今の光……!? それに、その袋……」
兄妹のピピとルゥも目を丸くし、怯えと好奇心が入り混じった顔で、マコトの膝の上から袋を覗き込んでいる。
「お兄ちゃん、てじな……?」
「ゆき……? ふくろのなかに、ゆきがはいってるの?」
「雪じゃないですよ。……ミラさん、手を出してください」
マコトは袋の端を指で器用に裂き、ミラの平たい手のひらの上へ、サラサラと音を立てて白い粉をひとすくい零した。
ランプの明かりを浴びて、粒揃いの結晶がキラキラと銀色に輝く。
ミラは吸い込まれるように自らの手のひらを見つめ、言葉を失っていた。
「これ……本当に塩なんですか……?」
ミラの声が震えていた。
「こんなに白くて……石の粉も、泥の濁りも、何一つ混ざってない……。麓の商人が持ってくる一番高い塩だって、もっと茶色くて苦いのに……」
「少し舐めてみてください」
促され、ミラは恐る恐る人差し指の先で白い結晶を微かにすくい、唇に乗せた。
その瞬間、ミラの琥珀色の瞳が見開かれた。
「…………っ! か、辛い……ううん、しょっぱい! 雑味が全然なくて、舌が痺れるような嫌な苦味もない……すごく、澄んだ塩です……!」
「ピピも! ルゥもなめたい!」
身を乗り出してきた二人の小さな手のひらにも、マコトはほんの数粒ずつ塩を乗せてやった。
二人はペロリと舌先を伸ばすと、顔をくしゃくしゃにして笑い声を上げた。
「しょっぱい!」
「おいしい! お口のなかが、きゅーってする!」
「ミラさん、さっきの麦粥、まだ鍋に残っていますか?」
「あ、はい。少しだけ残ってますけど……」
「それに、この塩をひとつまみ入れてみてください」
ミラは頷き、震える指先で塩をつまむと、火から下ろした鉄鍋の中に慎重に落とし、木べらで静かにかき混ぜた。
器によそい、スプーンで口に運ぶ。
ひとくち咀嚼した瞬間、ミラの肩が大きく跳ねた。
「……全然ちがう」
ミラは信じられないといった様子で、器の中の粗末な黒麦を見つめた。
「ただの硬くて苦い麦だったのに……甘みが引き立って、すごく美味しいスープになってる……! たったひとつまみ入れただけなのに、こんなに味が変わるなんて……!」
ピピとルゥも分け与えられた粥をスプーンで貪るように口へ運び、「おいしい!」「あまい!」と歓声を上げている。
硬い麦を噛み締める二人の頬には、ほんのりと赤みが差していた。
その光景を眺めながら、マコトは静かに自分の胸ポケットに触れた。
指先に触れる、後輩から借りたままの油性ボールペン。
(……そうか)
胸の奥に沈んでいた、鉛のような重みが微かに揺らいだ。
この塩を取り寄せるために使ったポイントは、第4話で沢を奪い返すために、牙猿の頭蓋を枯れ枝で打ち砕いて得たものだ。
命を奪ったときの生々しい感触。胃の底からこみ上げてきた吐き気と罪悪感。あんな無機質な数字のやり取りで命を値踏みされることに、拭いきれない後ろめたさを抱えていた。
だが――あのとき奪った命の対価が、今、この飢えた少女と子どもたちの命を支え、笑顔を生み出している。
奪った事実が消えるわけではない。正当化するつもりもない。けれど、目の前で嬉しそうに粥を啜る子どもたちの姿を見て、あの泥まみれの戦いが、ほんの少しだけ報われたような気がした。
「ミラさん。その塩、袋ごと受け取ってください」
マコトは一キロの塩が入った袋を、ミラの膝の上へと押しやった。
「えっ……!? だ、ダメです! 受け取れません!」
ミラは飛び退くようにして両手を振った。
「こんな貴重なもの、村の財産が全部吹き飛ぶくらいの価値があります! それに私たちは、泊まる場所と粗末な粥を一杯出しただけなんですよ!?」
「いいえ、受け取ってください。命の危険があった俺を一晩泊めてくれた、その恩返しです」
マコトは穏やかに、しかし断固とした口調で告げた。
「それに、子どもの身体には塩分が絶対に必要です。ピピとルゥの健やかな成長のためだと思って、使ってください」
「マコトさん……」
ミラは胸の前で両手を握りしめ、ポロポロと大きな涙を琥珀色の瞳から零した。
「ありがとう……ございます……。本当に、ありがとうございます……!」
深々と頭を下げるミラの横で、ピピとルゥも真似をして小さな頭をぺこりと下げた。
◇
夜が更け、暖炉の火が静かな熾火に変わる頃、マコトは土間に敷かれた藁の上で横になった。
隣の寝台からは、ピピとルゥの規則正しく穏やかな寝息が聞こえてくる。
約束は一晩だけだ。太陽が昇れば、ネル婆の言いつけ通り、速やかにこの村を出て行かなければならない。
次の行き先を手帳にどう書き出すか、段取りを考えながら、マコトは深い眠りに落ちていった。
――そして、翌朝。
石造りの隙間から差し込む冷たい朝の光で、マコトは目を覚ました。
スーツの埃を払い、靴紐を結び直して立ち上がる。ミラに最後の礼を言い、村の外へ向かおうと土間の扉に手をかけた、その瞬間だった。
「おいッ! 誰か来てくれッ!」
「ネル婆様を呼べ! 急げッ!」
張り詰めた静寂を切り裂くような、男たちの切迫した怒鳴り声が村の広場から響き渡った。
続いて、広場の鐘が乱打される金属音が耳朶を激しく打つ。
何事かと扉を勢いよく開けたミラの顔が、一瞬にして青ざめた。
「坑道の入口で落盤だ! 人が……人が生き埋めになったぞッ!」
読んでいただきありがとうございます。
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