EP 5
子どもを背にした狩人
塩むすびで満たされた胃袋の温もりを支えに、マコトは沢の流れに沿って歩を進めていた。
ペットボトルに確保した浄水で定期的に喉を潤しながらも、泥で汚れた革靴は一歩ごとに重さを増していく。
頭上を覆う鬱蒼とした天蓋の隙間から差し込む光は、すでに黄昏の色を帯び始めていた。
(日没まで、あと二時間といったところか)
原生林の夜は、視界を完全に奪う闇の世界だ。
携帯用浄水タブレットと塩むすびで当面の飢えと渇きはしのげたが、夜露をしのげる寝床も、暖を取る火種もない。このまま川沿いを下って人里か、せめて風雨を遮る洞窟でも見つけられなければ、低体温症によるゲームオーバーが待っている。
そのときだった。
「――いやッ! あっちへ行けッ!」
耳朶を打ったのは、甲高い少年の悲鳴と、それを遮るように響いた凛とした少女の叫び声だった。
続いて、あの忌まわしい音が木霊する。
カツン、カツン。
乾いた石と石を打ち鳴らし、獲物を嬲り殺そうとする捕食者の合図――牙猿だ。それも、一匹や二匹の音ではない。
「……くそっ」
マコトは悪態を呑み込み、泥濘に足をとられぬよう慎重に、しかし素早く茂みをかき分けた。
沢がわずかに広がり、白く乾いた河原を形成している開けた場所に出た。
対岸の切り立った岩肌の麓で、絶体絶命の光景が展開されていた。
灰褐色の毛並みを持つ牙猿が、四匹。
半円を描くように散開し、岩肌を背にした獲物をじわじわと包囲している。
その標的の中心にいたのは、奇妙な風貌の少女だった。
頭部から生える、後ろへ向けて緩やかに湾曲した二本の小さな角。尖った耳と、革の狩猟服から覗く細身だが引き締まった手足。山羊の特徴を色濃く残した亜人種――山羊人族の少女だ。年齢は十九歳前後だろうか。
その少女の背後には、同じく頭に柔らかな小角を生やした、まだ十歳にも満たない幼い兄妹が身を寄せ合って震えていた。幼い男の子が、さらに小さな女の子を抱きしめるようにして必死に目を閉じている。
「寄るなッ!」
少女は革紐の端を指に巻き、猛烈な速度で頭上に旋回させていた。投石紐だ。
ヒュンッ、と空気を引き裂く甲高い風切り音とともに放たれた拳大の石が、最前列の牙猿の足元を鋭く抉る。
しかし、牙猿たちは怯まない。少女の腕が素晴らしいのは明らかだったが、彼女には致命的な足枷があった。
(背中の子どもたちを庇っているせいで、足が止まっている……!)
本来なら、身軽な身体を活かして岩場を跳躍しながら間合いを取り、一匹ずつ仕留める戦術が取れるはずだ。だが一歩でも動けば、背後の子どもたちに投石の射線が通ってしまう。子どもを守るための盾にならざるを得ず、完全に射程と足場を殺されていた。
牙猿の二匹が同時に腕を振りかぶる。狙いは少女ではなく、背後に縮こまる幼い兄妹の頭部だ。
狡猾な悪意。少女を動揺させ、防衛ラインを崩すための陽動投石だ。
「まず、現状を把握しましょう」
マコトは胸ポケットの手帳を叩く暇すら惜しみ、脳内で一秒の間に段取りを組み上げた。
【目的】三名の安全確保、および包囲網の瓦解。
【戦力差】敵四匹に対し、こちらは少女と自分。少女の攻撃力は高いが拘束されている。
【手順】
1.自分が盾となって子どもの射線を切り、少女の可動域を解放する。
2.突出した一匹を合気道で制圧し、包囲を寸断する。
3.子どもを安全圏へ退避させ、少女の遠距離制圧に繋ぐ。
「確認ですが――子どもを狙うなんざ、就業規則以前に人間性の欠如だろ!」
マコトは茂みから飛び出し、浅瀬の水を跳ね飛ばしながら一直線に突進した。
左手に抱えていたのは、骨が一本折れ曲がった黒い折りたたみ傘だ。
牙猿の手から二つの尖った石が放たれた瞬間、マコトは少女と子どもたちの斜め前へと滑り込み、傘の開き止めボタンを親指で押し込んだ。
バサァッ!
広げられた黒い傘が、夕暮れの河原で巨大な盾となって展開する。
バヂンッ! ドガンッ!
連続して響く激しい衝撃音。布地が悲鳴を上げ、親骨がさらにへし折れる感触が腕を伝ったが、マコトは合気道の腰の据え方で衝撃のベクトルを地面へと逃がした。石は傘の傾斜に弾かれ、河原の砂利へと虚しく転がる。
「えっ……!? に、人間……!?」
背後から少女の驚愕に満ちた声が飛んできた。
泥だらけのスーツを着た見知らぬ男が、得体の知れない黒い円盤を広げて割り込んできたのだから無理もない。
「話は後だ! 子どもたちの射線は俺が切る!」
マコトは怒鳴りながら、壊れかけた傘を畳んで放り捨てた。
投石を防がれた牙猿の一匹が、予期せぬ闖入者に激昂し、下顎の白い牙を剥き出しにして四つん這いで飛びかかってきた。狙いはマコトの喉笛だ。
(正面からの突進。重心が高すぎる)
力で止めようとしてはならない。相手の質量と速度を、そのまま利用する。
マコトは半身に構え、飛びかかってきた牙猿の爪を紙一重で見切ると、その右腕の内側へと滑り込んだ。手首を左手で引っ掛け、右手を相手の肩口へ添える。
呼吸を一つに合わせ、自らの腰を沈めながら円を描いて身体を反転させた。合気道の四方投げの崩しだ。
「ふッ!」
牙猿の突進力はそのまま回転運動へと変換され、怪物の頑強な身体が綺麗に弧を描いて宙を舞った。
ドシャァンッ!
湿った砂利の上に背中から叩きつけられ、牙猿は肺腑の空気をすべて吐き出して白目を剥き、痙攣して動かなくなった。殺してはいない。だが、戦闘不能の制圧には十分だった。
「な……投げ飛ばした……!?」
少女の呆然とした呟きを背中に聞きながら、マコトは素早く身を屈め、震え上がる幼い兄妹の小さな手を左右それぞれの手でしっかりと握りしめた。
「怪我はないか? 大丈夫だ、あそこの岩の隙間まで走るぞ!」
兄妹は怯えながらも、マコトの切迫した声に頷き、必死に短い足を動かした。
マコトは二人を抱き寄せるようにして、背後にある大きな岩の割れ目の中へと押し込んだ。ここなら頭上も左右も岩に覆われ、投石の死角になる。
「よし、安全確保完了!」
マコトは振り返り、少女に向かって叫んだ。
「足枷は外れたぞ! 思う存分やれ!」
少女の琥珀色の瞳に、カッと鋭い闘志の炎が灯った。
「……うんっ!」
子どもを庇う必要のなくなった少女の動きは、先ほどとは別次元だった。
山羊人族特有の強靭なバネを持つ脚が地面を爆ぜさせ、彼女の身体はまるで重力を嘲笑うかのように河原の巨石の上へと跳ね上がった。
頭上で唸りを上げる投石紐。
ビュンッ!
凄まじい風切り音とともに放たれた一撃が、仲間を投げられて狼狽えていた牙猿の額を正確無比に撃ち抜いた。
ギャンッ、と短い悲鳴を上げて一匹が崩れ落ちる。
少女は着地と同時に次弾を装填し、間髪入れずに紐を振るった。
ビュンッ!
二撃目は、逃げ腰になっていた牙猿の右肩を粉砕した。
残された最後の一匹は、一瞬にして形勢が逆転したことを悟ったようだった。投げ飛ばされて呻く仲間と、倒れた二匹を見比べると、恐怖に満ちた甲高い鳴き声を上げながら、脱兎のごとく崖の上の木々へと逃げ去っていった。負傷した二匹も、足を引きずりながら必死にその後を追って藪の中へと消えていく。
静寂が、夕暮れの河原に戻ってきた。
「ハァ……、ハァ……」
少女は投石紐を握り締めたまま息を整え、ゆっくりと視線を下ろした。
その視線の先には、岩の隙間から恐る恐る顔を覗かせる兄妹と、泥だらけのスーツ姿で膝に手をついて肩で息をしているマコトがいた。
その瞬間だった。
ポン。
澄み渡るような、しかしどこか事務的な印鑑の音が脳の芯を叩いた。
視界の前面に、淡い光を帯びたウィンドウが展開する。
――――――――――――――――
【考課】行動:人命の保護/評価:B/+20KP(累計30)
――――――――――――――――
(……プラス20KP……!)
マコトは目を見張った。
第4話で、自らの命を守るために必死の思いで牙猿を一匹倒したときの評価は「脅威の排除/評価C/+10KP」だった。
だが今回は、倒すことではなく「他人を庇い、命を救った」ことに対して、その倍の評価とポイントが与えられている。
(倒すことより、守ることの方が高く評価される……?)
課長が言っていた「評価基準は現場で察しろ」という言葉が蘇る。
このスキルの根底にある倫理の片鱗が、マコトの中で確信へと変わりつつあった。武力による破壊ではなく、人命の防衛こそが、この人事考課における明確なプラス査定なのだ。
「あの……」
恐る恐るかけられた声に、マコトは意識を現実へと引き戻した。
目の前に、少女が立っていた。
近くで見ると、日に焼けた健康的な肌に、整った顔立ちをしている。頭の小さな角と、革の服から覗く引き締まった身体つきは、過酷な山で生きる狩人そのものだった。
その後ろから、救い出された幼い兄妹が、少女の腰布にしがみつきながら大きな瞳でマコトを見上げている。
「怪我はないか?」
マコトが息を整えながら尋ねると、少女は目を見張り、それから深々と頭を下げた。
「はい……! 私たちは誰も怪我していません。あなたが飛び出してくれなかったら、子どもたちは石に当たって死んでいました……。あんな布の盾で石を止めて、素手で牙猿を投げるなんて、信じられません……!」
「いや、俺は足止めをしただけだ。見事な腕前だったよ、あの投石」
「あ、私はミラです。山の狩人をしています。本当に、ありがとうございました……!」
ミラと名乗った少女は、心からの安堵と感謝を込めて顔をほころばせた。
幼い兄妹も、マコトが危害を加える存在ではないと理解したのか、緊張を解いてぺこりと小さな頭を下げた。
マコトは胸ポケットから手帳を取り出し、状況の棚卸しを頭の中で完了させた。
累計は30KP、残高は先ほどの消費分を引いて27KPだ。食糧と水は何とかなるが、今夜の宿だけはどうにもならない。
「ミラさん、確認ですが……この近くに、人が暮らす集落や村のような場所はあるでしょうか。実は山で道に迷ってしまって、身を寄せられる場所を探しているんだ」
マコトの問いかけに、ミラは弾かれたように顔を上げた。
「それなら、私たちの村へ来てください! ここから歩いて一時間ほどのところにあります。命の恩人です、ぜひお礼をさせてください」
願ってもない申し出だった。
これで今夜の野宿のリスクは完全に回避できる。マコトが胸を撫で下ろそうとした、そのときだった。
ミラの表情が、ふっと曇った。
琥珀色の瞳に気まずい影が落ち、少女は申し訳なさそうに視線を彷徨わせた。
「……ただ」
ミラは躊躇いがちに、声を落として言った。
「私たちのロッカ村の人は……人間を、ひどく嫌っています」
読んでいただきありがとうございます。
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