EP 4
最初の考課
沢の中央に座す一匹の牙猿は、手にした石をもてあそびながら、マコトが潜む斜面をじっと見据えていた。
木々の間から差し込む光を浴びて、その口元から突き出た二本の白い牙が冷たく光っている。
群れが去ってもあいつが居座り続ける限り、マコトは水場に近づくことすら叶わなかった。
(……居座る気満々だな。完全に陣地防衛の手順を踏んでやがる)
倒木の根元の空洞にうずくまりながら、マコトは乾ききった喉を鳴らした。
ペットボトルに残った水は、先ほどの一口でさらに減り、底にわずか百ミリリットル程度が揺れているだけだ。このまま息を潜めてやり過ごすという選択肢もある。だが、あの見張り役がいつ立ち去るのかは分からない。日が暮れれば視界を奪われ、気温は一気に氷点下近くまで落ち込む。別の水場を探して彷徨おうにも、未知の原生林で体力を浪費すれば、日没までに力尽きるのが関の山だった。
生き延びるためには、あの沢を取り戻すしかない。
そのためには――目の前の怪物を、排除しなければならない。
(排除……つまり、殺すのか? 俺が?)
自らの思考に、冷たい悪寒が走った。
二十八年間、法律と秩序に守られた現代日本で生きてきたのだ。仕事で競合他社を出し抜いたことはあっても、生きた動物の首を絞めたことすらない。ましてや、知性すら感じさせる二足歩行の生物の命を奪うなど、生理的な嫌悪感と倫理的なブレーキが全身を縛り付ける。
だが、躊躇えば死ぬのは自分だ。
電車のホームで命を落としたあの日とは違う。あれは他人を救うための咄嗟の行動だった。しかし今は、自分が生き残るために、明確な殺意を持って他者の命を奪わなければならないのだ。
心臓が早鐘を打ち、手のひらが嫌な脂汗で濡れていく。
「……まず、現状を把握しましょう」
マコトは震える唇を噛み締め、いつもの言葉を呪文のように呟いた。
泥だらけの指先で胸ポケットから手帳と油性ボールペンを抜き取り、白紙の頁を乱暴に開く。恐れや迷いを頭から追い出すには、すべてを客観的なデータとして紙に落とし込むしかない。
【目的】沢の確保。および単独脅威の排除。
【偵察】相手の状況と行動パターンの分析。
・位置:沢の中央、高さ約一メートルの平らな大岩の上。周囲は遮蔽物のない水面。
・装備:両手に角ばった石。接近戦用の牙と爪。
・行動:五分おきに手元の石を打ち鳴らし、斜面を凝視している。警戒度は中程度。
・風向き:沢から斜面へ吹き上がっている。つまり、斜面側は「風下」。気配を察知されにくい。
【勝てる条件】
1.遠距離での撃ち合いを絶対に避ける(投石の初速は人間以上。正面から近づけば撃ち殺される)。
2.投石の予備動作を突く(石を投げる瞬間、相手は大きく腕を振りかぶり、重心を片足に乗せる)。
3.間合いをゼロにする(飛び道具は密着状態では使えない。合気道の入り身で懐に潜り込む)。
4.足場の悪さを利用する(濡れた大岩の上。相手の踏ん張りを奪い、バランスを崩させる)。
【実行手順】
ステップ1:風下から死角を利用して河原の茂みへ潜行。
ステップ2:小石によるデコイ(投石音で注意を斜め後方へ誘導)。
ステップ3:振り向いた隙に間合いを詰め、投石の振りかぶりに合わせて入り身。
ステップ4:重心を崩して岩から叩き落とし、手近な鈍器で急所を破壊する。
ペンを止め、マコトは手帳を閉じた。
業務の手順書と同じだ。やるべきことを極限まで分解し、一つずつチェックボックスを埋めていくだけだ。そこに「恐れ」や「罪悪感」を挟み込む余地はない。
「確認ですが……死にたくないなら、やるしかないだろ」
足元に転がっていた太く硬い枯れ枝を拾い上げる。長さは九十センチほど、握り拳ほどの太さがあり、適度な重みがあった。骨折した折りたたみ傘は鞄にねじ込み、身軽な状態で倒木の陰から這い出た。
ステップ1、実行。
マコトは音を立てないよう、腐葉土の上に身を伏せて匍匐前進で斜面を下った。風は正面から吹き付けている。こちらの匂いは相手に届かない。背の高いシダの茂みを遮蔽物にし、足音を完全に殺しながら、大岩からわずか五メートルほどの水際へと肉薄した。
牙猿はまだ大岩の上に座り込み、斜面の上方を睨みつけている。背中が完全に無防備に晒されていた。
マコトは足元から拳大の丸い石を拾い上げた。
ステップ2、実行。
腕の力だけで、石を牙猿の斜め後方――対岸の茂みめがけて放り投げた。
カサリ、と鋭い音が茂みを揺らす。
ギロッ、と牙猿の首が猛烈な反射速度で音の方角へと回った。獲物が回り込んできたと錯覚したのか、怪物は即座に立ち上がり、右手の石を大きく振りかぶった。
(今だ!)
ステップ3、実行。
マコトは茂みを蹴り破り、水面を跳ね飛ばしながら一直線に大岩へと突進した。
水飛沫の音に気づいた牙猿が、ぎょっとしたように視線を戻す。だが、すでに身体は反対方向へ開かれ、右腕は投擲のために引き絞られた状態だった。
怪物は無理やり上半身を捻り、マコトめがけて石を投げつけようと腕を振り下ろす。
だが、その初動作は遅すぎた。
「ふッ!」
マコトは合気道の摺り足で大岩の角へと飛び込み、相手の投擲の軌道の内側――懐の深部へと深く踏み込んだ。入り身だ。
空を切った牙猿の右腕が、マコトの肩の上を虚しく通過する。投石の運動エネルギーをそのまま利用するように、マコトは左手で相手の手首を巻き込み、右の掌底を牙猿の顎の下へと鋭く突き上げた。
濡れた岩の上で、怪物の足元が摩擦を失う。
円を描くように自らの身体の軸を回すと、牙猿の頑強な身体は軽々と宙を舞い、大岩の縁から放り出された。
ドガァンッ!
浅い川底の丸石の上に、怪物の背中が激突した。
肺の空気をすべて吐き出した牙猿が「ゲヒュッ」と苦悶の声を漏らし、もがくように手足をバタつかせる。
だが、その凶悪な目はまだ死んでいなかった。下顎の牙を剥き出しにし、四つん這いになって飛びかかろうと腕を突っ張る。
(ここで躊躇えば、俺が殺される……!)
ステップ4、実行。
マコトは大岩から飛び降り、両手で構えた太い枯れ枝を、全体重を乗せて振り下ろした。
狙うのは胴体ではない。頭蓋の付け根、延髄の一点だ。
ゴッ、と鈍く重い衝撃が、枯れ枝を通して両腕の骨にまで響いた。
生々しい肉と骨の砕ける感触。
牙猿の身体がビクンと一度大きく痙攣し、そのまま泥水の中へと崩れ落ちた。赤黒い血が、清冽な沢の流れの中にゆらりと溶け出していく。
四肢の力が完全に抜け、二度と動かない肉の塊へと変わるまで、マコトはその場から一歩も動けなかった。
「ハッ……、はぁッ……、ぐッ……」
枯れ枝を取り落としたマコトの右手が、激しく震えていた。
胃の底から熱いものがせり上がり、その場に膝をついて激しく嘔吐した。胃の中には水しか入っておらず、苦い胃液が喉を焼くだけだったが、吐き気は容易に収まらなかった。
手のひらに残る、頭蓋を粉砕した感触。鼻腔を突く鉄臭い血の匂い。
自分が一つの命を確かに終わらせたという冷徹な事実が、鉛のように重くのしかかる。
だが、同時に――。
(……生きてる。俺は、助かったんだ)
猛烈な安堵感が、罪悪感の隙間を縫って全身の細胞を満たしていった。生き残った。手順通りにやり切り、生き延びたのだ。相反する二つの感情に引き裂かれ、マコトは泥水を啜りながら肩を震わせた。
そのときだった。
ポン。
静寂を取り戻した森に、不釣り合いなほど軽快で乾いた音が、脳の芯に響き渡った。
書類に朱肉つきの木製印鑑を押し通す、あの役所の音だ。
視界の前面に、淡い光を放つ考課票が強制的に展開された。
――――――――――――――――
【考課】行動:脅威の排除/評価:C/+10KP(累計10)
――――――――――――――――
(……脅威の排除、評価C、プラス10ポイント……?)
マコトは呆然と宙を見つめた。
あれほど魂を削り、恐怖と嫌悪に耐えて命を奪った結果が、書類一枚の事務的な査定で「評価C」と片付けられたのだ。
あまりにも無機質で、血の通わない現実。だが、それこそがこのスキルのルールなのだと思い知らされる。
「確認ですが……命のやり取りにしては、ずいぶん安い査定だな、課長さん」
震える息を吐き出しながら、マコトは【社内購買カタログ】のタブを開いた。
先ほどまで灰色に沈んでいた商品群のうち、もっとも安価な数点が淡く点灯している。
残高は10KP。今はこの対価を使って、生き残るための基盤を固めなければならない。
マコトは迷わず、カタログの二つの項目に意識を向けた。
・携帯用浄水タブレット(10錠入り):2 KP
・塩むすび(1個):1 KP
『上記の商品を取り寄せます。消費KP:3/残高:7 KP』
淡い光が手のひらに集まり、実体化した。
一つは銀色のシートに包まれた小さな薬品。そしてもう一つは、白いラップに包まれた、まだほんのりと温かい三角のおにぎりだった。
沢の水をペットボトルに汲み、銀のシートからタブレットを一粒押し出して投入する。シュワシュワと微細な泡が立ち、わずか数分で水中の細菌や不純物を不活性化していく。
その間に、マコトは震える手で塩むすびのラップを剥がした。
米の炊けた匂いが鼻腔をくすぐるだけで、目頭が熱くなった。かぶりつくと、硬めに炊かれた米粒の甘みと、舌を刺激するしっかりとした塩気が口いっぱいに広がった。
「……うまい」
噛み締めるごとに、冷え切っていた身体の芯に温かいエネルギーが戻ってくる。
奪った命の対価で手に入れた食糧だ。その重みと後ろめたさを噛み締めながら、マコトは一粒残さず腹に収めた。浄化された水を一気に喉へと流し込むと、ようやく思考の霧が晴れ、体力が底から湧き上がってくるのを感じた。
ふと、マコトは視界の隅に残る【人事考課シート】へと視線を戻した。
累計10KP、等級は『試用』のままだ。
だが、画面の最下部、これまで気にも留めていなかった枠外のスペースに、いくつかの文字が薄暗い灰色のまま並んでいるのが目に入った。
[チーム] [稟議] [減点]
どれも今は選択できず、機能の詳細は分からない。
そして――その灰色の項目のさらに下、最終承認を示す枠には、見覚えのある空欄が存在していた。
[考課者: ]
判子を押す神は「自分は異動課の課長にすぎない」と言っていた。
では、この世界の片隅で泥にまみれ、生き延びようともがく俺の行動を、いったい誰が値踏みし、査定しているというのか。
答えのない疑問を胸にしまい、マコトは手帳を抱えて立ち上がった。
読んでいただきありがとうございます。
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