EP 3
水場は、狩り場だった
大樹の陰に張り付いたまま、マコトは肺の中の空気をすべて吐き出さないよう、浅く細い呼吸を保ち続けた。
頭上の梢を激しく揺らしながら通り過ぎていった不気味な気配が、稜線の向こうへと遠ざかっていく。
静寂が戻った森の中で、マコトはぎしりと軋む心臓を宥めるように、胸に手を当てて深く息を吸い込んだ。
(……危なかった。通り魔にでも出くわした気分だ)
冷や汗でぐっしょりと濡れたワイシャツが背中に張り付き、森の冷気で急速に熱を奪っていく。
先ほど響いた「カツン、カツン」という硬い石を打ち鳴らす音、そしてあの甲高い鳴き声。自然の鳥獣が立てる音にしては、あまりにも意図的で統率が取れていた。明らかに群れで意思疎通を図る高等な捕食者の兆候だ。
「まず、現状を把握しましょう」
微かに震える唇でいつもの台詞を呟き、マコトは手帳の最初のページを脳内で反芻した。
最優先課題は水分の確保だ。
鞄に残された飲みかけのペットボトルには、目測でわずか百五十ミリリットル程度しか残っていない。人間の身体は、一日で約二リットルから二・五リットルの水分を失う。運動時やストレス下ではその消費はさらに加速する。このまま手持ちの茶をちびちびと舐めていたところで、明日の昼を待たずに脱水症状で足が止まり、判断力を奪われて野垂れ死ぬのが関の山だった。
(尾根を避けて、湿度の高い谷筋へ。シダの群生地帯を追う)
マコトは折りたたみ傘を杖代わりに、慎重に斜面を下り始めた。
足元は腐葉土が幾重にも堆積した泥濘だ。靴底の溝が浅いビジネス用の革靴では、体重のかけ方を一つ誤るだけで滑落のリスクがある。合気道の摺り足を意識し、常に重心を低く保ちながら、木の幹や太い根を支えにして一歩ずつ下っていく。
歩くこと二十分。斜面を覆う草の背丈が高くなり、空気の中に冷たい水煙の気配が混じり始めた。
微かな、しかし確かな水音が耳朶を打つ。
岩肌を縫うようにして鬱蒼としたシダをかき分けると、そこには幅二メートルほどの澄んだ沢が流れていた。
木漏れ日が水面を照らし、苔むした丸石の間を清冽な水がサラサラと音を立てて滑り落ちている。
「……あった」
思わず声が漏れた。喉の奥がカラカラに干からび、猛烈な渇きがマコトの全身を支配しかけていた。今すぐにでも両手で水を掬い、貪るように喉へ流し込みたい衝動に駆られる。
だが、マコトはその場でぐっと踏みとどまり、水際から二歩下がった。
(落ち着け。現場の基本を思い出せ。安易な直感は事故の元凶だ)
マコトは手帳を挟んだ胸ポケットを軽く叩き、頭を冷やした。
相手は未知の異世界の自然水だ。見た目がどれほど清らかに澄んでいようと、上流に動物の死骸や排泄物があるかもしれない。エキノコックスのような寄生虫や、大腸菌、ピロリ菌、あるいは未知の病原菌が潜んでいるリスクは極めて高い。
下痢を引き起こせば、脱水は数倍の速度で進行する。発熱すれば動けなくなる。この孤独な状況において、腹を下すことは即座に『死』を意味していた。
(煮沸消毒用の鍋も火種もない。携帯用浄水器を取り寄せるためのKPもない)
社内購買カタログの画面を呼び出すが、相変わらず『5 KP』と記された携帯用浄水器は冷酷に灰色のままだ。
選択肢は二つ。
手持ちの百五十ミリリットルを飲み干してジリ貧で倒れるか、それとも感染リスクを背負って目の前の生水を少量摂取し、行動可能時間を延ばすか。
「……リスクの受容と許容限界の設定、だな」
マコトは慎重に周囲を見渡した。
水深は浅く、底の砂利まで透き通っている。水面に油膜や泡立ちはない。藻類の異常繁殖も見られない。
マコトは手元のペットボトルを空にし、流れの淀んだ場所ではなく、白く波立っている流速の速い流心を狙ってボトルを沈めた。満たされた水を手で受け、まずは鼻に近づけて臭いを嗅ぐ。腐敗臭や刺激臭はない。唇を湿らせ、微かに舐めて味を確認する。金気や苦味もない。
意を決し、ごくりと一口だけ喉の奥へと流し込んだ。
冷たい感触が食道を通って胃に落ちていく。それだけで、全身の細胞が歓声を上げるような錯覚を覚えた。
これ以上の過剰摂取は避ける。胃液による殺菌能力の許容範囲に留めるため、マコトはボトルの蓋を固く閉めた。
(ふう……。とりあえず、水分補給の第一段階はクリアだ)
一息つき、ふと張り詰めていた肩の力を抜いた。
その瞬間だった。
カツン、カツン。
背筋を凍りつかせるあの硬質な音が、今度は頭上すぐの頭蓋を揺るがすほどの至近距離から響き渡った。
「――!?」
咄嗟に見上げた沢の対岸、切り立った崖の上の木の枝に、灰褐色の毛並みを持つ獣の姿があった。
一匹ではない。二匹、三匹――十匹近くの異様な影が、木々の枝に器用にぶら下がり、こちらを見下ろしていた。
猿に似ていた。だが、地球のそれとは決定的に異なる特徴を持っていた。
口元から下顎を突き破るようにして左右に伸びる、湾曲した凶悪な二本の白い牙。そして何より異様なのは、その両手だった。前足の爪は黒く硬質化し、まるで鏨のように尖っている。彼らは手にした尖った石同士を打ち鳴らし、嘲笑うような甲高い鳴き声を上げながら、赤いぎらついた瞳でマコトを値踏みしていた。
(牙猿……! まずい、囲まれてる!)
次の瞬間、最前列の一匹がしなやかな腕を大きく振りかぶった。
ヒュッ、と空気を切り裂く鋭い風切り音。
拳大の角ばった石が、恐るべき初速でマコトの顔面めがけて一直線に飛来した。
「っ――!」
考えるより先に、マコトの手が動いていた。
右手に持っていた黒い折りたたみ傘の開き止めボタンを親指で押し込み、正面へ向けて一気にバネを弾けさせた。
バサッ、と広がった軽量強化親骨の布地が、飛来した石の直撃を受ける。
バヂンッ!
凄まじい衝撃が傘のグリップを通じて右腕全体に走った。
合気道で培った体捌きで瞬時に右半身を引き、傘の傾斜を利用して石の運動エネルギーを斜め上方へと受け流す。石は布地を擦り抜け、背後の水面へと派手な水柱を上げて落下した。
だが、傘の骨組みからはメキリと嫌な軋み音が鳴り、親骨の一本が無残に折れ曲がっていた。
(重い……! 人間の投石機並みの初速があるぞ!)
息を呑む間もなく、崖の上の牙猿たちが一斉に嘲笑うような啼き声を上げた。
彼らの手には、それぞれぎっしりと角ばった石が握られている。
十匹による一斉掃射。あの威力の投石をまともに浴びれば、傘どころか頭蓋骨を粉砕されて即死する。
「確認ですが――その数の暴力は、完全に労働基準法違反だろうが!」
マコトは心の底から悪態を叫びながら、傘を畳んで抱え込み、地を蹴った。
逃げるしかない。相手は高所を陣取り、こちらは開けた沢の低地。遮蔽物のない場所で遠距離攻撃の集中砲火を浴びるのは、戦術以前に自殺行為だった。
バシュッ! ドガッ!
背後の地面に、無数の石が突き刺さる轟音が連続して炸裂する。
水飛沫と泥が背中に降り注ぐ中、マコトは沢沿いに背を向け、先ほど降りてきたばかりの急斜面へ向けてがむしゃらに駆け上がった。
革靴が泥に滑り、膝を強打する。スーツのズボンが棘だらけの低木に裂かれ、生々しい痛みが太ももを走る。だが足を止めれば、次の瞬間には後頭部を石で砕かれる。
樹上からは、枝を渡る激しい音と、獲物を追い詰める歓喜の啼き声が執拗について回っていた。
マコトは必死に頭を巡らせた。直線で走れば格好の的にされる。ジグザグに太い木の幹を盾にしながら、あえて視界の悪い密集した藪の中へと身体をねじ込んだ。
「ハッ……、カハッ……!」
肺が焼き切れるような苦痛と、泥を吸い込む喉の痛みに耐えながら、無我夢中で藪を突き進む。
どれほど走っただろうか。
やがて、背後を追う足音と啼き声の密度が、少しずつ薄れていくのを感じた。牙猿たちにとって、藪が深すぎて石の射線が通らなくなったのか、あるいは自分たちの縄張りの境界に達したのか。
巨大な苔むした倒木の根元に隙間を見つけ、マコトは転がり込むようにしてその狭い空洞へと身を滑り込ませた。
泥と落ち葉をかき集めて自らのスーツの上に被せ、息を殺す。
遠くで、苛立ちに満ちた甲高い鳴き声がいくつか交わされ、やがて沢の方角へと戻っていく気配がした。
「…………っ、……」
震える手で口元を押さえ、激しい呼吸の音を必死に殺す。
冷たい泥の感触が頬に伝わっていた。全身の筋肉が痙攣するように小刻みに震え、膝はガクガクと音を立てていた。
死の恐怖が、遅れて胃の底からせり上がってくる。
(甘かった……)
マコトは泥にまみれた手で自らの額を強く押さえつけた。爪が食い込むほどに握りしめ、自らの浅薄さを猛烈に叱責した。
水を見つけて安堵した。たったそれだけのことで、警戒を緩めたのだ。
現場改善を偉そうに語っておきながら、自分は何をしていた? 水源というのは、人間だけでなくあらゆる生物が集まる場所だ。つまり、捕食者にとってもっとも効率の良い『狩り場』に他ならない。そんな初歩的な危険予知(KY)すら怠り、のこのこと無防備に姿を晒したのだ。
ここには、安全通路を示す白線もなければ、非常停止ボタンもない。
呼べば駆けつけてくれる警察も、過労を訴える労働基準監督署も、何一つ存在しないのだ。あるのは、手順を一つ違えた瞬間に無慈悲に命を刈り取られる、剥き出しの自然の掟だけだった。
「……冷静になれ。手帳を開け」
震える指先を無理やり動かし、泥に汚れた手帳とボールペンを取り出す。
ペン先を走らせることで、暴走しかける心拍数を強制的に落ち着かせる。
【反省】危険予知の著しい欠如。水場=狩り場という前提の失念。
【現状】一時退避に成功。負傷は軽微(擦り傷、打撲のみ)。水は確保したが、残量に不安あり。
そこまで書いたところで、マコトは倒木の隙間から、恐る恐る先ほどの沢の方向を見下ろした。
藪の合間から覗く水面は、再び静けさを取り戻していた。大半の群れは追跡を諦め、木々の奥へと消え去ったようだ。
だが――。
(……あいつ)
沢の真ん中に転がる平らな大岩の上に、一匹の牙猿が座り込んでいた。
他の仲間たちが去った後も、その一匹だけが沢に残り、手にした尖った石をもてあそびながら、マコトが逃げ込んだ斜面の藪をじっと見つめ続けていたのである。
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