EP 2
残高ゼロの辞令
湿った黒土の冷たさと、濃厚な青草の匂いで、マコトは意識を取り戻した。
見上げた視界を埋めていたのは、見慣れたオフィスの天井ではなく、天を衝くような巨木と幾重にも重なる巨大なシダの葉だった。
肌を撫でる湿った風が、自分が本当にどこか別の世界へ放り出されたのだと無慈悲に告げていた。
「……っ、痛たた」
うめき声を上げながら上半身を起こす。泥にまみれたビジネススーツに目を落とし、マコトは反射的に両手足を動かした。足首を回し、膝を曲げ、肩を回す。骨折や脱臼はない。衣服の擦れと打撲の痛みはあるが、五体満足だ。線路に落ちて電車に轢かれたはずの身体に、致命傷どころか外傷らしい外傷一つ残っていなかった。
あのくたびれた中年男――天界人事部の課長と名乗った男の顔が脳裏をよぎる。
(あの野郎、本当に辞令一枚で現場に丸投げしやがったな……)
ぼやきながら立ち上がろうとした瞬間、視界の右隅が淡く青く明滅した。
意識を向けると、視界の前面に半透明のウィンドウが展開される。まるで社内イントラネットの個人ポータル画面のような、極めて無機質で事務的なインターフェースだった。
――――――――――――――――
【人事考課シート】
氏名:相沢 誠
等級:試用
累計KP:0
保有残高:0 KP
【社内購買カタログ】
――――――――――――――――
画面の下部には、いくつかのタブが並んでいた。
マコトは期待を込めて『社内購買カタログ』を指先でタップするような感覚で意識を向けた。
画面が切り替わり、ずらりと商品一覧が並ぶ。
・ミネラルウォーター(500ml):1 KP
・塩むすび(1個):1 KP
・カロリーバー(1本):1 KP
・携帯用浄水器:5 KP
・解熱鎮痛剤(10錠):2 KP
そこには、見慣れた日本のコンビニやドラッグストアで売られているような商品名が並んでいた。
だが、そのすべてが薄暗い灰色に沈んでいる。
試しにミネラルウォーターに意識を集中させてみるが、ポータル画面からは情け容赦のないエラーメッセージが返ってきただけだった。
『保有残高が不足しています。必要KP:1/現在残高:0』
(残高ゼロで現場に放り出すとか、前払いの経費すら出ないブラック出張かよ)
思わず胸の中で鋭く舌打ちする。
「確認ですが、普通こういうのって支度金とか初期ポイントがあるもんじゃないですかね、課長さん」
虚空に向かって呟いてみるが、風がざわめくだけで返答はない。
初期残高ゼロ。何か善行を積んで【考課】されなければ、カタログから水一本、パン一つすら引き出すことができないのだ。
「……よし。まず、現状を把握しましょう」
マコトは小さく息を吸い込み、いつもの口癖を声に出した。
足元に転がっていた黒いビジネスバッグを拾い上げる。電車のホームで手放したはずの鞄は、奇跡的にマコトのすぐ脇に落ちていた。表面の泥を手で払い、ファスナーを全開にする。
平らな岩の表面を見つけ、中身を一つずつ取り出して並べていった。
現在の全保有リソースの棚卸しだ。
・手帳(B6サイズ、業務改善推進室の記録とメモがびっしり詰まった革表紙)
・油性ボールペン(前の職場で後輩から借りたままの百円均一の安物)
・名刺入れ(建材メーカー・相沢誠の名刺が二十枚ほど)
・常備薬(胃薬二包、頭痛薬二錠、個包装の絆創膏三枚)
・折りたたみ傘(軽量・撥水加工の黒い雨傘)
・モバイルバッテリー(容量10000mAh、スマホ本体はホームに落ちたのか紛失)
・飲みかけのお茶(500mlペットボトル、残量は目測で約150ml)
「……以上、か」
岩の上に並んだアイテムを見つめ、マコトは乾いた笑いを漏らした。
スマートフォンがないため、モバイルバッテリーはただの四角い文鎮と化している。名刺入れもこの世界では焚き付けの紙切れにしかならない。実質的に役に立ちそうなのは、雨傘と常備薬、そして底にわずかに残った茶だけだった。
その瞬間、背筋にツッと冷たい汗が流れた。
心臓がドクン、と大きく跳ね上がる。
(待て。俺は今、どこにいる?)
見渡す限りの見知らぬ原生林。空の太陽の高さすら分からない。人工物は影も形もなく、遠くで聞いたこともない鳥の不気味な鳴き声が木霊している。
水は150ミリリットルしかない。日没までに水場を見つけられなければ? 夜の気温が氷点下まで下がったら? 肉食の獣や、それこそファンタジーの魔物に出くわしたら、この丸腰の身体でどうやって生き延びる?
呼吸が浅くなり、指先が微かに震え始めた。
底知れない孤独と死の恐怖が、足元からじわじわと這い上がってくる。パニックの波が脳を呑み込もうとしていた。
(落ち着け。思考を止めるな。パニックが一番のコスト浪費だ)
マコトは荒れかける呼吸を無理やり整え、震える手で黒い手帳とボールペンを掴み取った。
カチリ、と静寂の森にノックの音が響く。
前職でトラブルが起きたとき、現場が炎上したとき、いつもやってきた自分のルーチンだ。
白紙のページを開き、太い文字で三つの見出しを書き殴った。
【目的】
【リスク】
【手順】
ペン先を走らせる感触が、上滑りしていた意識を現実へと繋ぎ止めていく。
【目的】
・生存。および安全な人里(文明圏)への合流。
【リスク】
1.脱水症状(手持ち水分150ml。半日で尽きる。生命活動の限界は3日)。
2.低体温症(夜間の気温低下、雨天による体温喪失)。
3.野生動物・害獣との遭遇(丸腰、防具なし)。
4.生水摂取による感染症・中毒(下痢による脱水の加速)。
【手順】
ステップ1:残存水分の厳格な配給管理(一口ずつ口を湿らす程度にとどめる)。
ステップ2:水源の捜索。尾根を避け、斜面を下って谷筋の沢を探す。
ステップ3:日没の二時間前までに、風雨をしのげるビバーク適地(岩陰など)を確保する。
ステップ4:移動時は常に五感を開放し、足元の安全を確認(単独行動のため負傷=即死)。
書き終えた文字を目で追い、マコトはふうと長く息を吐き出した。
パニックの正体は「不確実性」だ。頭の中にある漠然とした巨大な恐怖を、箇条書きにして紙の上に並べてしまえば、それはただの「解決すべき業務課題」に変わる。
「よし。現状把握と初期行動計画の策定、完了」
ペンを胸ポケットに差し、手帳を鞄に収める。
折りたたみ傘を伸ばして石突を地面に突き、杖の代わりに構えた。合気道で培った杖の構えを取ると、手の中に確かな重心の安定が戻ってくる。
マコトは立ち上がり、右手を伸ばして前方を指差した。
「装備、よし。体調、よし。進路、谷側、よし」
現場改善で何千回とやってきた指差呼称だ。声に出すことで、迷いが消える。
木々の枝の向き、シダ植物の群生密度、そして地面のわずかな傾斜を観察する。湿気の濃い空気は、斜面の下方から吹き上がってきていた。沢があるなら、あの方角だ。
マコトは慎重に斜面へと足を滑らせないよう、一歩目を踏み出した。
そのときだった。
カツン、カツン。
静まり返った森の奥から、乾いた硬い石と石を激しく打ち鳴らすような、不気味な金属質の音が響いた。
続いて、木々の梢を激しく揺らしながら、耳障りで甲高い啼き声が幾重にも重なって降り注いできた。
マコトは息を呑み、即座に大樹の太い幹の陰へと身を滑り込ませた。
読んでいただきありがとうございます。
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