第一章 残高ゼロの異動辞令
終電のホームと、判子を押す神
日付が変わったばかりの深夜、吹きさらしの私鉄ホームは芯から凍えるような寒さだった。
黄色い点字ブロックの内側に立ち尽くす相沢誠は、かじかむ指先でビジネスバッグの持ち手を握り直した。
終電を待つ会社員たちの疲れた息が、青白い蛍光灯の光に白く滲んでは消えていく。
二十八歳。中堅の建材メーカーで営業を三年経験したのち、業務改善推進室に配属されて丸三年が経っていた。
今夜も残業だった。半年かけて全国の製造ラインを回り、現場の職長たちと膝を突き合わせて練り上げた『搬出動線の最適化および危険予知(KY)活動の標準化マニュアル』は、先ほど直属の室長によって呆気なく突き返されたばかりだ。
「机上の空論だよ、相沢くん。現場は今のままでも事故を起こさず回ってる。余計な手数を増やしてラインを止める気かね?」
そう吐き捨てられ、赤字で『保留』と書きなぐられた提案書は、室長の手でゴミ箱へ放り込まれた。
(現状維持は後退と同じだって、経営方針発表会であんた自身が言ってただろうが)
胸中で鋭く悪態を吐き、マコトは小さく息を吐き出した。
コートのポケットから手を出してバッグのファスナーを開けると、内ポケットの定位置に一本の黒い油性ボールペンが差してあった。軸の文字がかすれた、どこにでもある百円均一の安物だ。
それに触れた瞬間、胸の奥がぎゅっと縮むような鈍い痛みが走る。
前の職場で、上司の執拗な叱責に追い詰められていった後輩から借りたまま、とうとう返せなくなってしまったペンだった。
「……まず、現状を把握しましょう」
声に出して呟いてみる。苛立ちや焦りで頭に血が上ったとき、呼吸を整えるためのいつもの口癖だ。
終わったことを悔やんでも始まらない。明日の朝一番で、現場の歩留まりデータをグラフ化して再提出の段取りを組むだけだ。そう自分に言い聞かせ、ファスナーを閉じた。
そのときだった。
「うっぷ……おい、終電……」
視界の端で、酒臭い息を撒き散らしながら千鳥足で歩く中年男性の姿が映った。ネクタイを緩め、スーツの上着をだらしなく崩した男は、足元もおぼつかない様子でホームの端へとふらふらと近づいていく。
足元には黄色い点字ブロック。その向こうには、冷たい闇を湛えたレールが二本、夜光を反射して沈んでいる。
(おいおい、歩行者限界線を越えてるぞ。危険予知どころの話じゃない)
マコトが眉をひそめた刹那、男の革靴の踵がホームの縁を滑った。
「あ――」
情けない声とともに、男の上半身がぐらりと線路側へ傾く。線路の奥からは、終電の接近を知らせる警告音と、車輪が軋む重い振動が伝わってきていた。
考えるより先に、身体が動いていた。
大学時代、合気道部の主将として何万回と繰り返した重心の移動だ。
マコトは手元のビジネスバッグを取り落としながら地を蹴り、線路側へ倒れ込む男の背後へと回り込んだ。足を踏み込み、腰を落とす。相手の勢いに逆らわず、襟首と右腕を同時に掴むと、呼吸を合わせて自らの身体の軸をホームの内側へと捻り倒した。
相手の体重と落下エネルギーを利用して、強引に軌道を逸らす。
「うわっ!?」
男の身体はマコトの腕の中で綺麗に弧を描き、安全なホームの床の上へと転がり込んだ。
だが、代償は大きかった。
雨上がりで湿っていたホームの縁に踏み出したマコトの革靴が、ツルリと摩擦を失ったのだ。
(……しまっ――)
引き上げた男の反動が、今度はマコトの身体を空へと押し出す。
視界が百八十度回転した。見上げた夜空から一転、目の前に飛び込んできたのは、闇を切り裂く巨大な二筋のヘッドライトと、けたたましく鳴り響く警笛の爆音だった。
ブレーキの焼ける激しい匂い。巨大な鉄の塊が、マコトの網膜を白く塗りつぶした。
衝撃は、想像していたほど痛くはなかった。
◇
「……ん」
マコトはゆっくりと瞼を開いた。
背中に感じるのは硬いプラスチックの感触だ。冷え切ったレールの感触でも、救急車のストレッチャーでもない。
目を開けると、蛍光灯の光が目に飛び込んできた。
だが、そこは病院の集中治療室でも駅のホームでもなかった。壁一面には無機質なスチール製の書類棚がずらりと並び、床には使い古された灰色のリノリウムマットが敷かれている。漂ってくるのは消毒液の匂いではなく、古紙と朱肉の混ざり合った、妙に懐かしい役所の匂いだった。
(……どこだ、ここ? 区役所の地下保管庫か?)
マコトが座らされていたのは、会議室によくあるパイプ椅子だった。
そして目の前には、薄汚れた灰色の事務机。その向こう側に、一人の男が座っていた。
年齢は五十代半ばほどだろうか。よれた白いワイシャツの袖を腕まくりし、だらしなく緩めたネクタイをぶら下げた中年男性が、山のように積まれた書類の束に向き合っていた。
男はマコトに視線も向けず、リズミカルに右手を動かし続けている。
ポン。ポン。ポン。
乾いた木製の印鑑が、朱肉と紙を叩く音だけが部屋に響いていた。手首の返しだけで驚異的な速度を叩き出している。完全に長年ルーチンワークを極めたベテラン公務員の動きだ。
「あの……確認ですが」
マコトは恐る恐る声をかけた。
「ここはどこでしょうか。俺はさっき、駅のホームで電車に――」
「あ、起きた? ちょっと待ってね、これ三十枚で一束だから」
男は顔も上げずに答え、リズミカルに判子を押し切ると、書類の山を横のトレイへと放り投げた。
そしてようやく、疲労の濃い充血した目をマコトへと向けた。
「お疲れさま。相沢誠くんだね。結論から言うと、君はさっき死にました。即死。実に見事な軌道修正で他人を引き上げて、代わりに自分が線路に落ちてペチャンコ。救急車呼ぶ隙もなかったよ」
「……死んだ」
「そう、死亡。で、ここは天界人事部・異動課。見ての通り、管轄外からの異動手続きを処理する部署だ」
男は名刺サイズのプレートを指先でトントンと叩いた。そこには黒マジックで『異動課 課長』と殴り書きされていた。
(天界人事部……? 課長……?)
情報量が多すぎて脳の処理が追いつかない。だが、目の前の『課長』と名乗る男のまとう、残業百時間を超えた中間管理職特有の澱んだオーラだけは本物だった。
「死んだ後の行き先って、天国とか地獄じゃないんですか?」
「あー、そういう旧態依然とした二元論は先代の体制で廃止されたの。今は適性と生前の実績に応じた再配置、平たく言えば別世界への出向・配置転換が基本方針になってるわけ」
課長は引き出しから一枚のカーボン複写用紙を取り出すと、ボールペンでサラサラと記入を始めた。
「君のケースはね、実に査定が難しかったんだよ。普段の勤務成績は極めて優秀、現場改善の意識も高い。なのに最後の最後で、他人の不注意によるリスクに単身で飛び込んで自爆した。完全に安全管理手順の逸脱だ」
「それは……見過ごせなかっただけで」
「分かってるよ。だからこそ、現場の即時判断による人命救助として『特例加点』がついた。結果として君には、新しい配属先で活用できるユニークスキルを一つ支給することになった」
「スキル……?」
「そう。君の行動特性に一番マッチした権限だ」
課長が書類にバン、と大きめの角印を押した。
『ユニークスキル【人事考課】が付与されました』
頭の中に、無機質なシステムアナウンスのような声が直接響いた。
同時に、視界の隅に半透明のウィンドウのようなものが浮かび上がる。そこには自分の名前と、いくつかの見慣れたビジネス用語が並んでいた。
「【人事考課】……ですか」
「君が向こうの世界で行った行動を、こっちの基準で考課(査定)してポイントを付与する。そのポイントを使って、君がいた元の世界の物資を取り寄せられる仕組みだ。福利厚生みたいなもんだね」
「なるほど。確認ですが、その評価基準はどのようなものでしょうか。達成目標(KPI)や評価シートのマニュアルがあれば事前に確認したいのですが」
業務改善推進室の癖でそう尋ねると、課長は心底面倒くさそうな顔で薄く笑った。
「マニュアルなんてないよ。それに、評価基準を事前に教えたら評価にならないでしょ。そんなの単なる穴埋めテストじゃないか」
「それはそうかもしれませんが、基準が不透明な評価制度は現場の不満を生む温床ですよ」
「うるさいな。詳細は現場のOJTで学んでよ。社会人ならそれくらい自分で察しなさい」
(OJTって便利な言葉を使えば教育コストをゼロにできると思うなよ……!)
マコトはこめかみを押さえた。異世界転生の手続きだというのに、やっている会話が前職の無茶振り上司と何一つ変わらない。
「じゃ、時間押してるから手続き完了ね。次の案件が山積みなんだ」
課長は書類ばさみから一枚の辞令書を引き抜くと、乱雑にマコトの足元へ放り投げた。
「配属先へ行ってらっしゃい。せいぜい身体壊さない程度に働きな」
「待ってください、配属先ってどこなんですか!?」
マコトが慌てて足元に落ちた辞令を拾い上げると、そこには見覚えのある赤いインクで、乱暴な判子が押されていた。
『異動先:未定』
(おい、確認ですが――引き継ぎは!?)
マコトの鋭い心の叫びが届く間もなく、足元の床が音もなく四角く抜け落ちた。
重力に引かれ、マコトの身体は果てしない暗闇の底へと真っ逆さまに吸い込まれていった。
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