EP 34
「借りたままのペン」
夕暮れの冷たい山風が、集会所の縁側を静かに吹き抜けていた。
茜色に染まる空の下、セルマの白い指先が、手帳の上に置かれた黒いボールペンの擦れたプラスチック軸をそっとなぞる。
「……それ、とても大切に使われていますね。これ、大事な人のですか?」
思いがけない問いに、マコトの手がピタリと止まった。
指先に触れるペンの感触は、いつものように冷たく、滑らかだった。
中に入っている黒い油性インクの残量は、日々の記録と段取り表を書き殴り続けたせいで、すでに半分を切っている。
クリップの部分は長年胸ポケットに差していたせいで少し緩み、メーカーのロゴはすっかり削れて消えかけていた。
「大事な人……というのとは、少し違いますね」
マコトは苦笑し、ペンの軸を親指の腹でゆっくりと転がした。
「前の職場で、俺のすぐ後ろの席にいた後輩のものです。……借りたまま、返せなくなってしまったペンなんですよ」
「返せなくなった……?」
セルマが群青色の瞳を瞬かせ、小首を傾げた。
マコトは遠く、夕闇に沈みゆく鉱山の尾根を見つめた。
元の世界で過ごした、あの息の詰まるようなオフィスビルの風景が脳裏をかすめる。
(誰かに話すような立派な武勇伝でもない。ただの、俺の情けない後悔の残骸だ)
だが、同じように組織に切り捨てられ、傷を負ってきたこの魔術師の前だからだろうか。自然と言葉が喉から滑り落ちていった。
「物静かで、真面目なやつでした。不器用で、要領が悪くて……でも、頼まれた仕事は絶対に手を抜かずにやり遂げるような男でした」
マコトはポツリ、ポツリと、言葉を選びながら語り始めた。
「当時の俺の上司は、売上と数字しか見ない人間でね。少しでも現場のミスや納期の遅れが出ると、その彼を全員の前で何時間も怒鳴りつけ、理不尽なノルマを押し付けていました」
「…………」
「日に日に、そいつの顔から生気が消えていくのが分かりました。朝の挨拶の声が小さくなり、昼飯も喉を通らなくなって、手の震えが止まらなくなっていった。……すぐ隣にいた俺には、彼が限界を迎えていることが、痛いほど見えていたんです」
セルマは息を呑み、静かにマコトの横顔を見つめていた。
胸を締め付けるような苦い記憶が、冷えた空気の中に溶け出していく。
「でも、俺は何も言えませんでした。自分の担当業務で手一杯だったし……何より、上司に盾突いて自分の立場が悪くなるのが怖かった。『大丈夫か』と上っ面の声をかけるだけで、組織の理不尽に対して、最後まで声を上げることができなかったんです」
マコトの握る拳に、ぎゅっと力がこもった。
「ある日の夕方、急なメモを取るために彼からこのペンを借りました。『明日返せばいいや』と胸ポケットに差したまま退勤して……彼は、次の日から会社に来なくなりました」
電話も繋がらず、数週間後に届いたのは、家族が代筆した短い退職届だけだったという。
「それっきりです。このペンは、俺の臆病さと無力さの象徴ですよ。助けを求めるサインを見て見ぬふりをして、仲間の足元が崩れ落ちるのをただ見過ごした……あの現場での、一生消えない負債です」
(現場改善だの安全管理だのと偉そうな顔をしていても、根底にあるのはただの自己嫌悪だ。あいつを救えなかった後ろめたさから、目の前の誰かが倒れるのを見過ごせないだけなんだ)
自嘲気味に息を吐き、マコトは手帳を閉じようとした。
だが――
「だから、あの時……言ったんですね」
セルマの穏やかな、しかし芯の通った声が、夕暮れの静寂に落ちた。
「え……?」
顔を上げたマコトの瞳を、セルマは眼鏡の奥の深い群青色の瞳で真っ直ぐに見つめ返していた。
「あの悪徳商人……ヤーコフが村に来て、みんなが恐怖で口をつぐんでいた時です。村人全員が目を逸らし、長老様すら耐えるしかないと諦めていたあの場で……マコトさんだけが一歩前に進み出て、はっきりと声を上げた」
セルマの脳裏にも、かつて自分が魔導院で味わった冷たい絶望が重なっていた。
数字にならない基礎研究を嘲笑われ、同僚たちが保身のために目を逸らす中、誰一人として味方になってくれずに追放されたあの屈辱。
あの時、もし自分の隣に、理不尽に対して「それはおかしい」と声を上げてくれる誰かがいてくれたなら――どれほど救われただろうか。
「『その値段は、おかしいです』って。……あの言葉、私には、震えるほど格好良く見えましたよ」
セルマはふっと口元を綻ばせ、慈しむように微笑んだ。
「後悔している過去があるからこそ、今のマコトさんは誰のSOSも見逃さないんじゃないですか? 酸欠の穴から私を引きずり出してくれた時も、グラドさんを激流から拾い上げた時も……マコトさんは一度だって、保身のために足を止めたりしませんでした」
「それは……」
「そのペンは、罪の証なんかじゃありません。マコトさんが誠実な人で在り続けるための、大切な誓いの道具です。……だから、そんなに悲しそうに扱わないでください」
澄んだ風が、二人の間を吹き抜けていく。
胸の奥底でずっと澱のように沈んでいた重い痛みが、セルマの柔らかな言葉によって、ふわりと温かく包み込まれていくのをマコトは感じていた。
「……ありがとうございます、セルマさん」
マコトは小さく息を吸い込み、少しだけ軽くなった手で、ボールペンを胸ポケットへと収めた。
――カサリ。
その時、集会所の板壁の角から、微かな乾いた音が響いた。
「……誰ですか?」
マコトが視線を向けると、板壁の陰から、薬草を盛った素焼きの盆を抱えたミラが姿を現した。
「あ……ご、ごめんなさい! 盗み聞きするつもりじゃなくて……!」
少女は慌てて盆を抱え直し、顔を真っ赤にして視線を泳がせた。
「グラドさんの傷に塗る薬草をネル婆からもらってきて……そしたら、二人の話し声が聞こえて……」
「ミラさん。入ってくればよかったのに」
セルマが穏やかに声をかける。
だが、ミラは足元を見つめたまま、複雑そうに唇をキュッと引き結んでいた。
二人の間に流れていた、誰にも踏み込めない静かで知的な空気。
マコトが胸の奥に隠していた深い傷と、それをそっと癒やすように微笑みかけていたセルマの姿。
自分は狩人として、崖を駆けて石を投げることしかできない。マコトの心にあるその難しい痛みや、遠い世界の出来事を、自分はセルマのように理解して言葉をかけてあげることができない――。
胸の奥で、チクリと小さな棘が刺さったような、名づけようのない熱い疼きが少女の胸を焦がしていた。
「あ、あの……マコトさん!」
ミラは俯いていた顔を勢いよく上げ、大きな琥珀色の瞳でマコトを真っ直ぐに見据えた。
「私、難しいことはよく分かりません! でも……マコトさんがどれだけすごい人か、どれだけこの村を大切にしてくれてるかは、誰よりも分かってますから!」
まるで自らを奮い立たせるような、力いっぱいの宣言。
「だから……自信を持ってください! 明日の坑道だって、私が絶対に誰のことも怪我させませんから!」
一生懸命なその瞳に、マコトは思わず目を見張り、それから柔らかく相好を崩した。
「ええ。頼りにしていますよ、ミラさん」
「……っ、はい!」
少女の表情がパッと明るくなり、元気よく集会所の奥へと駆け出していった。
その背中を見送りながら、セルマは眼鏡の奥で何かを察したように、悪戯っぽく小さく微笑んでいた。
翌朝、冷涼な山の空気が満ちるロッカ村に、清々しい太陽の光が降り注いでいた。
朝の体操を終え、点呼を完了した村人たちが、全員揃って廃坑の坑口前へと集まっていた。
背中の火傷が驚異的な回復力で塞がり始めたグラドも、無理をしない約束で列の端に立ち、力強く腕を組んでいる。
中和され、安全な排水路が整い、頑丈な木枠と換気システムが組み上げられた坑道。
三十年の封印を解き、村が自らの足で立ち上がるための、本格的な採掘再開の初日だった。
ダンとゴッサが、分厚い樫の板を掲げて坑口の太い梁の前へと進み出た。
その板の中央には、マコトの手帳の文字を手本にして、ゴッサが鑿で深く彫り込み、黒漆で丁寧に墨入れされた文字が刻まれていた。
カン、カン、カン。
木槌の乾いた音が山肌に響き渡り、坑道の入口の最も見えやすい位置へと、その札がしっかりと打ち付けられた。
朝の澄んだ光を浴びて掲げられたのは――
『無災害 1日目』と力強く刻まれた、真新しい木の札だった。
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