EP 33
「毒を捨てた者」
白く濁った蒸気が立ち込める地下空洞で、巨大な百足の残骸が石膏のように崩れ落ちていた。
超強酸を中和され、外殻を砕かれた『鉄喰い』は完全に沈黙し、ただの白化した巨石の塊と化している。
マコトは短くなった樫の杖を地面に突き立て、荒い息を整えながら、倒れた仲間たちの無事を見回した。
「怪我人の搬出を最優先します! ダンさん、担架を組んでグラドさんを地上へ運んでください! 背中を地面に擦らないよう、うつ伏せで固定です」
「分かった、任せろ! おい、毛布を敷け、慎重に持ち上げるぞ!」
ダンと若者たちが手際よくグラドを担架に乗せ、坑道の上り坂を慎重に登っていく。
大量の流水洗浄によって最悪の深部壊死は免れたものの、背中一面に負った化学熱傷の治療は一刻を争う。
「さて……ここからが本当の『現場の復旧』ですね」
マコトは胸ポケットから手帳を取り出し、ボールペンの芯を繰り出した。
(怪物を倒して終わりなら、ただの討伐クエストだ。だが俺たちの仕事はそこから始まる。漏洩した有害物質を無害化し、村の水源を守る恒久対策を打たなければ、明日にはまた誰かが毒水を飲むことになる)
視界の端で光り輝く【社内購買カタログ】のタブを開く。
第32話で係長へ昇格したことにより、新たに解放された「建材・農業資材」カテゴリ。その一番上に鎮座していた文字を、マコトは迷わず選択した。
・消石灰(高純度水酸化カルシウム・20kg袋):1 KP × 20袋 = 20 KP
・pH試験紙ロール(測定範囲1〜14):1 KP
・水質浄化用高機能ゼオライト粉末(20kg袋):2 KP × 5袋 = 10 KP
合計31KPを消費。残高は4,066KPとなった。
ポン。
心地よい決裁印の音とともに、足元に純白の紙袋が整然と実体化した。
「マコトさん、その白い粉は……?」
杖を抱えたセルマが、疲労の色を浮かべながらも興味深そうに目を凝らす。
「高純度の消石灰です。村の壁土からかき集めたものより遥かに粒子が細かく、アルカリの反応性が高い。残ったこの赤黒い廃液の池に投入し、液性を中性に近づけて重金属や有害魔素を不溶化させます」
マコトは紙袋の端を裂き、池の縁から白い粉末を万遍なく散布していった。
ジュワジュワと微かな気泡が立ち上り、ドロドロとした赤黒い液体がみるみるうちに淡い褐色へと変色していく。刺激臭が消え、底に澱んでいた有害物質が石灰粒子と結びついてフロック(凝集沈殿物)となり、ヘドロのように沈んでいった。
マコトはロールから切り取った試験紙を水に浸す。真っ赤に変色していた紙片が、穏やかな黄緑色――中性のpH7付近を示して静止した。
「よし、中和完了です。……セルマさん、仕上げの土木工事をお願いできますか」
「はい、私にできることなら何でも!」
「この空洞から村の地下水脈へ向かう亀裂を土魔法で完全に閉塞してください。そして、坑道の外へ向けて三段の『沈殿槽』を掘り、迂回排水路を作ります。第一槽で大きなゴミと石灰の澱みを沈め、第二槽のゼオライトで微細な不純物を吸着し、第三槽から上澄みの清浄な水だけを沢へ逃がす。いわゆる凝集沈殿ろ過システムです」
「沈殿槽……! 魔法で力任せに塞ぐだけでなく、水そのものを自然に濾過して還す仕組みを作るのですね」
セルマの眼鏡の奥の瞳が、感嘆の光に輝いた。
「やります! 大地よ、清浄なる水の通り道を穿ち、澱みを留める器を成せ――!」
セルマの詠唱に合わせて、岩盤が滑らかに削り広げられ、階段状の三つの石造りプールと、坑外へと続く排水バイパスが一気呵成に形成されていった。
地上へ戻ったマコトは、村の中央井戸の復旧にも取り掛かった。
汚染されていた井戸水を滑車で限界まで汲み出して空にし、底の泥を掻き出した後、少量の消石灰と活性炭を投入して内壁を洗浄。さらに半日かけて湧き出してきた新しい地下水を何度も汲み上げてフラッシング(水管洗浄)を行った。
夕暮れ時、桶に汲み上げられた水は、光を透かすほど澄み切っており、特有の金気臭も酸臭も完全に消え失せていた。
「水が……戻った……! いつもの冷たくて甘い水だ!」
一口含んだゴッサが、髭を濡らしながら叫んだ。
集まっていた村人たちから、安堵の歓声が沸き起こった。
その瞬間、頭蓋の奥で澄み渡るような印鑑の音が鳴り響いた。
ポン。
――――――――――――――――
【考課】行動:公害の鎮圧および恒久的水道インフラの再建/評価:S/+150KP
(累計5,230KP/保有残高:4,216KP)
――――――――――――――――
(よし、インフラの立て直しがしっかり評価された。だが……まだ根本的な原因の調査が残っている)
翌日、マコトとセルマ、そしてミラの三人は、坑道最奥の天井の亀裂がどこから繋がっているのかを突き止めるため、尾根を越えて山の裏側へと分け入っていた。
セルマが測定器の針の振れを頼りに岩肌を辿っていく。
「魔力の残滓が濃くなっています。……この谷の陰です!」
枯れ草をかき分けた先、切り立った崖の窪地に、苔むした古い石造りの建造物が姿を現した。
崩れかけた煙突、赤錆びた破砕機、そして干からびた木製の樋。
「ここは……古い精錬所の跡地ですね。三十年前に鉱山会社が引き揚げた際、放棄された施設でしょう」
「放棄された……? いいえ、マコトさん、地面を見てください!」
ミラが鋭く地面を指差した。
草が不自然に押し潰された深い轍。重い荷車が、ごく最近まで何度も行き来していた生々しい痕跡だった。
精錬所の奥へ足を踏み入れた三人は、息を呑んだ。
崩れかけた地下貯蔵庫の床に、何重ものタールで目張りされた木樽が、無残に叩き割られて散乱していたのだ。
樽からぶちまけられた赤黒い廃液は、床の割れ目――ロッカ村の旧坑道へと直結する断層の亀裂へと、そのまま垂れ流されていた。
「酷すぎる……! こんな亀裂に直接流し込めば、山の地下水脈がどうなるか分かりきっているのに!」
セルマが怒りに肩を震わせた。
マコトは割れた樽の破片の前にしゃがみ込み、木肌に焼き付けられた印を見つめた。
二匹の蛇が絡み合い、歪んだ天秤を支える刻印。
廃砦の帳簿にあった封蝋、そしてあの悪徳仲介商人ヤーコフの荷車にあったものと、寸分違わぬ紋章だった。
「やはり、あの商会か……」
マコトは冷徹な眼差しで手帳にスケッチを写し取った。
鉄鴉団に運ばせていた樽も、この精錬所跡に捨てられていた廃液も、すべて同一の出どころだ。
麓の巨大な組織が、コストを浮かすためにこの山を巨大な不法投棄場として利用していたのだ。
(証拠は揃った。だが、今の俺たちに麓の権力者を直接告発する力はない。まずは村を盤石にし、力を蓄えるのが先決だ)
村へ戻ったマコトは、集会所の奥で休んでいるグラドの様子を見に立ち寄った。
熊獣人の大男は、清潔な包帯を上半身に幾重にも巻かれ、分厚い毛布の上でうつ伏せになっていた。
「グラドさん、背中の具合はどうですか」
「……おう、マコトか」
グラドは首だけを苦しげに回し、自嘲気味に口元を歪めた。
「見ての通り、動けねえ蓑虫状態だ。せっかく村の役に立とうと思ったのによ……初っ端から大怪我して寝たきりたぁ、情けねえったらありゃしねえ」
「何を言ってるんですか。あなたが身を挺してミラさんを庇わなければ、彼女は命を落としていました。立派な人命救助ですよ」
「へっ……隊長ってのはな、いざって時は盾になって部下を逃がすもんなんだよ」
グラドの琥珀色の瞳に、かつて鉄鴉団で散っていった部下たちの面影が過ったようだった。
「俺の命一つで仲間が助かるなら、安いもんさ。盾になって死ぬのが、俺たち前衛の誇りってもんだろ」
「確認ですが、グラドさん」
マコトはスツールに腰掛け、静かに、しかし一切の妥協のない声で告げた。
「一人で盾になるのは禁止です」
「あ……? 禁止って、お前な……」
「うちはそういう職場じゃないので」
「しょ、職場ぁ!?」
グラドが目を丸くした。
「誰か一人の自己犠牲に依存する現場は、安全管理の観点から言えば『設計ミス』です。あなたが死んだら、助かったミラさんは一生その十字架を背負って生きることになる。残された村人たちも、深い悲しみと無力感に苛まれる。……誰かを守るために命を捨てるのではなく、全員が生きて現場から帰るための段取りを組む。それが俺のルールです」
マコトはグラドの太い毛並みの腕にそっと手を置いた。
「二度と、自分の命を『安い』なんて言わないでください。あなたも、守られるべき大切な仲間の一人なんですから」
「…………」
グラドは言葉を失い、太い鼻の奥を真っ赤にして顔を背けた。
「……たくよぉ。ほんと、お前には敵わねえな……。分かったよ、次は絶対に全員で躱して、全員で帰ってくるさ」
「ええ、約束ですよ」
マコトが微笑むと、大男は小さく頷いて、安心したように目を閉じた。
外に出ると、夕暮れの茜色の空が稜線を美しく染め上げていた。
集会所の縁側に腰を下ろしたマコトは、作業着の胸ポケットから手帳を取り出し、今日の復旧工事の記録と、明日から再開する坑道の補強工程を書き留め始めた。
手帳の上を走るボールペンのペン先が、カリカリと小気味よい音を立てる。
「お疲れ様です、マコトさん」
静かな足音とともに、セルマが隣に腰を下ろした。湯気の立つ野草茶の椀を差し出してくる。
「ありがとうございます、セルマさん」
茶を一口啜り、再びペンを走らせるマコトの手元を、セルマがじっと見つめていた。
その視線は、マコトの指先――
軸のプラスチックが所々擦れ、クリップ部分が少しだけ緩み、インクの残量が半分を切っている、一本の黒いボールペンに注がれていた。
元の世界で、壊れて会社を去っていった後輩から、借りたままになっていたペンだ。
セルマは長い睫毛を伏せ、その細い指先で、手帳の上のペンの軸をそっと、壊れ物に触れるようになぞった。
そして、夕暮れの風に紛れるような柔らかな声で、小さく問いかけた。
「……それ、とても大切に使われていますね。これ、大事な人のですか?」
読んでいただきありがとうございます。
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