EP 35
「指示待ちの現場」
坑口の梁に掲げられた真新しい樫の札に、墨で書かれた数字が毎日一つずつ増えていった。
『無災害 7日目』。
三十年ぶりに再開されたロッカ村の採掘作業は、信じられないほどのハイペースで、しかも何一つ滞りなく進んでいた。
「一番班は第二区画の瓦礫撤去。二番班は支保工の丸太の搬入、三番班はセルマさんと一緒に排水溝の土砂さらいです。作業間連絡を密にして、足元の小石一つ見落とさないようにしてください」
「「はいッ!」」
毎朝、マコトが集会所前の広場に立てた黒板にチョーク代わりの白墨を走らせ、工程表に沿って指示を飛ばす。
どの班が、どの時間に、どの道具を使い、どこまで進めるか。
手帳にびっしりと書き込まれたマコトの段取りは、ミリ単位の狂いもなく現場をコントロールしていた。
建材メーカーの業務改善推進室で培った徹底的な工程管理と、主任等級の工具。
怪物の脅威は去り、坑道の手前区画からは質の良い銀鉛鉱が次々と運び出され、広場の一角には出荷用の鉱石がうず高く積まれていく。
村人たちはマコトの背中に全幅の信頼を寄せ、言われた通りの作業を懸命にこなしていた。
効率は上がり、成果は目に見えて現れていた。
だが――。
「マコトさん、東の壁から少し水が滲んできたんですが、掘り進めていいですか?」
「待ってください、今すぐ俺が見に行きます」
「マコト、坑木の楔が一本足りねえんだが、予備の棚のどこだっけか?」
「二番棚の右奥です、俺が取ってきますね」
「マコトさん、運搬用の車輪の軸が少し軋む音がするんですけど、油を差しても大丈夫ですか?」
「使っている油の粘度を確認します、俺がやりますから触らないでください」
(……何か、おかしいな)
額の汗を拭いながら、マコトは胸ポケットの手帳を握り直した。
現場のあらゆる質問、あらゆる判断、些細な資材の移動に至るまで、すべての伺いがマコト一人に集中していた。
村人たちは指示されれば完璧に動く。
しかし、マコトが口を開くまでは、誰一人として自分の頭で考え、判断を下そうとしないのだ。
道具を手に持ったまま、マコトの次の言葉をじっと待つ男たち。
(前職の工場でもよく見た光景だ。優秀すぎる現場監督がすべてを一人で仕切った結果、作業員全員が思考停止に陥る『指示待ち人間化』だ……)
違和感の正体に気づきながらも、マコトは立ち止まることができなかった。
自分が目を離せば、また誰かが怪我をするかもしれない。
三十年前の落盤事故の恐怖が村人たちの心の底に残っている以上、自分が完璧な安全レールを敷き続けなければならないのだと、無意識のうちに己を追い込んでいた。
採掘再開から八日目の朝。
マコトは行商人のザイルと交わした出荷契約の最終確認のため、半日ほど村を離れ、谷の下流にある合流地点の検問所まで下りることになった。
「ダンさん、今日の工程表は黒板にすべて書いてあります。午前の作業は第二坑道の崩落瓦礫の搬出だけです。新しい発破や掘削は絶対にしないでください。俺は昼過ぎには戻りますから」
「おう、任せとけ! 書いてある通りに運べばいいんだろ? 行ってこい!」
ダンが太い胸を叩き、頼もしそうに笑った。
マコトは何度か後ろを振り返りながらも、樫の杖を突いて坂道を下りていった。
麓の検問所でザイルとの事務手続きを滞りなく済ませ、手紙の控えを受け取ったマコトは、予定よりも一時間早く村への帰路についた。
道中、胸の奥で理由のない胸騒ぎがずっと消えなかった。
(大丈夫だ、危険な作業は何一つ組み込んでいない。安全マージンは普段の三倍取ってある……何事も起きるはずがない)
そう自分に言い聞かせながら、坂道を駆け上がる足に自然と力が入った。
だが、村の入口をくぐった瞬間、マコトの足が止まった。
静まり返っていた。
いつもなら坑道から響いてくるはずの、岩を削る音も、滑車の軋む音も、男たちの掛け声も、何一つ聞こえてこない。
見張り台の上では若い戦士が青ざめた顔で立ち尽くし、坑口の前には十数人の作業員たちが、ツルハシやシャベルを持ったまま、呆然と円を作って立ち往生していた。
「……どうしたんですか!?」
マコトが駆け寄ると、人垣が割れた。
「あ、マコト……!」「マコトさんが戻ってきた!」
安堵と怯えが混ざり合った声が上がる。
輪の中心には、ヘルメットを脱ぎ捨て、眉間に深い皺を刻んで腕を組むダンの姿があった。
そしてその足元――坑道の手前十メートルの線路上に、天井から剥落した頭ほどの大きさの岩塊が、ゴロゴロと三つ、粉々に砕けて転がっていた。
「落石……!?」
マコトの心臓が激しく跳ねた。
「怪我人は!? 誰か当たったんですか!?」
「いや……怪我人はいねえ。作業員が台車を押して通り過ぎた直後に、後ろの天井から急に落ちてきたんだ。……かすり傷一つねえよ」
ダンは低く、感情を押し殺した声で答えた。
「よかった……!」
マコトは崩れ落ちそうになる膝を辛うじて支え、深く息を吐き出した。
だが、安堵したのも束の間、すぐに現場監督としての疑問が湧き上がった。
「確認ですが、ダンさん。この落石が起きたのは何時頃ですか?」
「……お前が出て行ってすぐだ。朝の二刻(約三時間前)前だな」
「三時間前!?」
マコトは思わず声を荒らげた。
「三時間も前なら、なぜ直ちに天井の亀裂を確認し、仮設の支保工を入れて落石防止ネットを張らなかったんですか! あるいは、危険と判断したならなぜ全員を退避させて坑口を封鎖しなかったんですか! 道具を握ったまま三時間も立ち尽くしていたら、二次災害に巻き込まれる危険があるじゃないですか!」
矢継ぎ早に飛んだマコトの叱責に、周囲の作業員たちはビクリと肩をすくめ、申し訳なさそうに視線を落とした。
「だ、だってマコトさん……黒板には『瓦礫の搬出』としか書いてなくて……」
「天井を見ても、これが崩れそうなのか、ただの小石なのか、俺たちじゃ分からなくてよ……」
「勝手に触って、お前の立てた段取りを狂わせたら怒られると思ったんだ……。だから、お前が戻るのを待つしかないって……」
口々に漏れる、頼りない弁解。
(怒られると思った……? 俺が戻るのを待つしかない……?)
マコトは言葉を失った。
落石という明確な異常が発生していたにもかかわらず、誰も判断できず、誰も動けず、ただマコトの帰りを待って三時間も危険な坑口の前に突っ立っていたというのか。
「……聞いた通りだよ、マコト」
重く、擦れた声が響いた。
ダンがゆっくりと顔を上げ、マコトの目を真っ直ぐに見据えていた。
その瞳には、怒りでも苛立ちでもなく、深い悲哀と悔しさが滲んでいた。
「お前のおかげで、この一週間、誰も怪我をしなかった。銀の石も山ほど掘れた。飯も美味くなって、村中がお前に感謝してる。……だがな」
ダンは太い拳をギリリと握りしめ、転がる落石を爪先で小突いた。
「石が落ちてきた瞬間、俺たちは全員、頭が真っ白になっちまったんだ。逃げるべきか、支えるべきか、掘るのをやめるべきか……誰一人、何一つ決められなかった。みんなでお前の黒板を眺めて、お前の顔を探すことしかできなかったんだよ」
「ダンさん、それは……」
「お前がいないと回らない村なら、前と同じだ」
ドスン、と胸の真ん中を丸太で殴られたような衝撃が、マコトを貫いた。
「三十年前、人間の会社がいなくなった時と同じだ」
ダンの言葉が、容赦なくマコトの急所を抉る。
「あの時もそうだった。言われた通りに穴を掘り、言われた通りに石を運び、人間たちが逃げ出した途端、俺たちは何一つできなくなって飢えたんだ。……お前は優しいよ。何でも一人で段取りを組んで、危ないことは全部背負い込んでくれる。だがなマコト……お前が全部仕切って、お前の言う通りにしか動けねえなら、俺たちは永遠にお前の家畜のままだぞ」
ぐうの音も出なかった。
反論の言葉など、どこを探しても見つからなかった。
マコトは自らの胸ポケットに差した、擦れたボールペンを握りしめた。
(俺は……何をしていたんだ)
前の職場で、壊れていく後輩に声をかけられなかった後悔。
あの痛みを二度と味わいたくない一心で、「俺がすべて守らなければ」「俺がすべてを完璧に仕切らなければ」と、独善的な責任感に逃げ込んでいただけではないのか。
現場を守っているつもりで、その現場から「考える力」と「誇り」を奪っていたのは、他ならぬ自分自身だったのだ。
(倒すより守る、守るより立て直す……。そう自分で決めていたはずなのに、俺がやっていたのは『立て直す』ことじゃない。ただの過保護な支配だ)
静寂が、坑口の前に重く垂れ込めていた。
村人たちが息を呑み、俯くマコトを見守っている。
やがて、マコトはゆっくりと顔を上げた。
その瞳から、迷いと焦燥が完全に消え去っていた。
作業着の胸ポケットから、ボロボロになった革表紙の手帳を抜き取る。
開かれたページには、今日のためにマコトが深夜までかかって書き上げた、時間刻みの完璧な段取り表がびっしりと並んでいた。
――ビリッ。
静かな山あいに、乾いた紙の裂ける音が響き渡った。
「マコト……!?」
ダンが目を丸くした。
マコトは自らが書き上げた完璧な段取り表を、迷うことなく真っ二つに引き裂いた。
破片を無造作にポケットへねじ込むと、手帳の次の一枚――何一つ文字の書かれていない、真っ白な頁を勢いよく破り取った。
そしてマコトは、その白紙の紙片を、ダンの太い手のひらへと真っ直ぐに差し出した。
「……ダンさん。次の工程表は、皆さんが書いてください」
読んでいただきありがとうございます。
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