EP 30
「坑道の赤い水」
掘削した岩肌の亀裂から、ドロリとした赤黒い液体が糸を引いて滴り落ちていた。
ヘッドライトの鋭い白光に照らされたその飛沫から、鼻を刺す強烈な酸臭がツンと立ち込める。
廃砦で発見された木樽の毒液――高純度魔石の精錬廃液が、この坑道の深部にも確実に浸透していた。
「ひっ、なんだこれ……!? 岩から血が噴き出してやがるのか!?」
ツルハシを手にしていた山羊人族の若者が腰を抜かしかけ、震える手でその赤い水滴へ触れようとした。
「触ってはいけません!」
マコトは鋭い声を張り上げ、若者の肩を掴んで力任せに後方へ引き戻した。
直後、天井の割れ目からボタリと落ちた一滴が、転がっていた木製の柄に触れた。ジュウッと嫌な煙が立ち上り、木肌が瞬く間に黒く炭化して焼け爛れていく。
「う、うわあっ……! 木が溶けた!?」
「強酸性の危険有害物質です。皮膚に触れれば重度の化学熱傷を負います。全員、直ちに掘削作業を中断し、道具を置いて五メートル下がってください!」
マコトの淀みのない退避指示に、作業班の男たちは慌てて後退した。
(現場で未知の有害物質の漏洩が確認されたら、第一に行うべきは工事の即時中断と作業員の安全圏への退避だ。工期の遅れを気にして作業を強行することほど、愚かで致命的な判断はない)
駆け寄ってきたセルマが、青ざめた表情で胸元の測定器を岩壁の亀裂へ向けた。
キリキリキリッ、と内部の真鍮の針が悲鳴を上げるように激しく震え、水晶瓶の中の液体が瞬く間に毒々しい濁色へと染まっていく。
「間違いないわ……廃砦の中庭に投棄されていた廃液と、まったく同じ魔力波形です! 岩盤の断層を伝って、この古い坑道の手前まで染み出してきています!」
「三十年前に落盤で塞がれた最奥の空洞が、不法投棄された廃液の巨大な溜まり場になっている可能性がありますね」
マコトが手帳に状況を書き留めようとした、その瞬間だった。
キィィィィッ! ギチギチギチッ!
削り広げたばかりの換気口の暗がりから、鼓膜を擦るような無数の耳障りな鳴き声が響き渡った。
坑道の冷気が一変し、ツンとした酸臭とともに、生ゴミが腐り落ちたような生々しい獣臭が吹き上がってくる。
「何かが来るぞ!」
ヘルメットを被ったグラドが、腰の大槌を構えて仁王立ちになった。
暗闇の中から飛び出してきたのは、通常の三倍以上に肥大化した巨大な山鼠の群れだった。
だが、その姿は異様を極めていた。毛並みは斑らに抜け落ち、剥き出しになった皮膚は赤黒く爛れ、眼球は白濁して爛々と狂気に濁っている。さらに頭上からは、翼膜が裂け、鋭い牙を剥き出しにした巨大蝙蝠が乱舞しながら襲いかかってきた。
「廃液の毒気を浴びて、変異した生物たちだわ……! 正気を失っています!」
セルマが悲鳴交じりに叫ぶ。
狂乱した変異鼠の一匹が、強酸で黄色く変色した牙を剥き出しにして、先頭の作業員へ跳びかかった。
「うわああああっ!」
「慌てるな、持ち場を守れッ!」
グラドの大槌が横薙ぎに唸りを上げた。
豪快な一撃が空中でネズミを叩き落とし、壁際へと弾き飛ばす。
頭上から急降下してきた蝙蝠に対しては、後方に控えていたミラの投石紐が火を噴いた。
ビュンッ!
正確無比な一石が蝙蝠の翼の付け根を粉砕し、獲物は石畳の上でのたうち回った。
「反撃しながら後退します! 迎撃に夢中になって奥へ踏み込んではいけません!」
マコトは樫の杖を構え、作業員たちを背後に庇いながら叫んだ。
「グラドさんは前衛の壁を維持! ミラさんは上空の牽制! 作業員は道具を回収して坑口へ退避! 退路の安全確認を最優先してください!」
「おうよ! 一歩も通さねえぞ!」
飛びかかってくる鼠の突進を、マコトは合気道の杖さばきで受け流し、石突きで床へ押さえ込んで無力化していった。
力でねじ伏せるのではない。狭い坑道という密閉空間において、味方の逃げ道を塞がず、整然と退避ラインを維持するための組織的遅滞戦闘だ。
「全員、坑口の手前まで抜けました!」
ミラの叫び声が届く。
「セルマさん、換気口の亀裂を土壁で塞いでください! 追撃を遮断します!」
「はいっ! 大地よ、厚き蓋となりて塞げ――『土石の防壁』!」
セルマの詠唱とともに、掘削口の周囲の土砂が生き物のように盛り上がり、亀裂を完全に覆い隠す分厚い石の蓋が形成された。
ドスン、ドスン、と壁の向こうで怪物が激突する鈍い音が響いたが、頑丈な土壁はびくともしなかった。
坑道の外へ転がり出ると、山あいの爽やかな青空が広がっていた。
「はぁ……はぁ……だ、助かった……」
ヘルメットを脱いだ作業班の若者たちが、土の上にへたり込んで肩で息をしている。
「怪我人は……いませんね。指差呼称、全員無事、よし!」
マコトは点呼を取り、全員の無傷を確認して深く息を吐き出した。
ポン。
頭蓋の奥で、澄んだ印鑑の音が響く。
――――――――――――――――
【考課】行動:危険現場からの迅速な退避指揮および無災害維持/評価:A/+40KP
(累計2,610KP/保有残高:1,975KP)
――――――――――――――――
(迅速な撤退判断も、立派な安全管理業務として評価されるんだな)
だが、安堵に浸っている暇はなかった。
「マコト! 大変だ、早く村へ来てくれ!」
見張り台の方向から、ダンが血相を変えて坂道を駆け登ってきた。
「ダンさん、どうしました!?」
「井戸だ! 村の中央にある古い井戸の水が……急におかしくなっちまったんだ!」
広場の中央にある石組みの井戸の周りには、不安そうな村人たちが集まっていた。
汲み上げられた桶の水を覗き込んだマコトは、息を呑んだ。
普段なら澄み切っているはずの清冽な地下水が、白く濁り、油のような薄い膜が水面に浮いている。顔を近づけると、微かに鼻を突く酸臭と、錆びた鉄のような金気臭が漂っていた。
「今朝までは普通に飲めたんだよ。だが、さっき水を飲んだピピが……!」
ミラの悲痛な声に導かれ、マコトは集会所の木陰へと駆け寄った。
そこには、小さな身体を丸めて腹を押さえ、脂汗を流して苦悶の声を漏らすピピの姿があった。顔色は青ざめ、激しい腹痛と下痢に襲われている。
「ピピ……! しっかりして、ピピ!」
幼いルゥが、泣きじゃくりながら兄の手を握りしめている。
(坑道に溜まっていた精錬廃液が、地層の割れ目を伝って地下水脈にまで達したのか……!)
マコトの背筋に冷たい戦慄が走った。
鉱山開発において最も恐ろしい公害――鉱毒による地下水汚染だ。放置すれば、村中の井戸が毒水に変わり、子どもや高齢者から順に命を落としていく。
「ミラさん、泣かないでください。まだ微量の毒素を口にした初期段階です。命は絶対に助けます」
マコトは自らの胸ポケットから手帳を抜き、落ち着いた声で指示を飛ばした。
「まず、現状を把握しましょう。ダンさん、今すぐあの井戸に縄を張り、『飲用禁止』の看板を立ててください! 絶対に一滴も口にしてはいけません。無事な東側の沢水だけを使い、それも必ず十分に煮沸してから使うよう全戸に徹底させてください!」
「わ、分かった!」
そしてマコトは、素早く【社内購買カタログ】を開いた。
・医療用経口補水液(ゼリータイプ・幼児用):1 KP × 5個 = 5 KP
・薬用吸着炭(毒素吸着カプセル):2 KP
合計7KPを消費。残高は1,968KP。
ポン。
現れた吸着炭の粉末をゼリーに混ぜ、スプーンでピピの乾いた唇へ少しずつ流し込ませた。
「胃腸に残った毒素を炭の微粒子に吸着させて体外へ排出します。ゆっくり飲み込んでごらん、ピピくん」
「う……ん……ごくん……」
ピピが弱々しく喉を鳴らす。
数十分後、激しい腹鳴が少しずつ治まり、荒かった子どもの呼吸が穏やかな寝息へと変わっていった。急性中毒のピークは脱したのだ。
「よかった……神様……」
ミラが胸元で手を組み、ボロボロと涙を流した。
だが、マコトの表情は険しいままだった。
これは対症療法に過ぎない。大元の汚染源である廃坑の奥をどうにかしない限り、汚染水はいずれ村のすべての水源を飲み込み、この土地そのものを壊滅させる。
夜の帳が降り、ロッカ村が重苦しい不安の静寂に包まれた頃。
マコトは樫の杖を握りしめ、土壁で固く封鎖された廃坑の入口の前に立っていた。
冷たい夜風が山肌を吹き抜けていく。
その不気味な静寂の底から、マコトの耳に届いてきたのは――
ジュウウ……と、酸が分厚い岩盤を激しく溶かし穿つような湿った音だった。
そしてそれに混じって、ギリ、ガリ、ガリ……と、坑道の鉄の支柱を巨大な顎でかじり砕くような、禍々しい捕食音が暗闇を震わせていた。
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