EP 29
「廃坑を、もう一度」
集会所の重い空気は、まるで三十年前の落盤事故の土煙が今なお澱んでいるかのようだった。
ザイルが提示した「鉱山の再開」という提案を受け、集まった村人たちは誰一人として口を開こうとしない。
その沈黙を切り裂いたのは、上座に座るネル婆の、氷のように冷たい一言だった。
「……お断りだよ」
老女は杖の先で床を強く叩き、蜥蜴人の行商人を見据えた。
「薬草や地表の石を売るだけなら構わないさ。だがね、あの山へ再び穴を穿つことだけは、あたしが生きている限り絶対に許さないよ」
「長老さん、話を聞いておくんなせえ!」
ザイルが背中の大算盤を鳴らしながら身を乗り出す。
「あそこに眠っているのは本物の銀鉱脈なんでさ! 掘り出せば、この村は塩の心配どころか、麓の町と肩を並べる大鉱山街にだって生まれ変われる! みすみす宝の山を眠らせておく手は――」
「黙りな、商売人!」
ネル婆が怒気も露わに怒鳴りつけた。
「三十年前、あたしたちの息子や夫が、どれだけあの暗闇の中で土砂に呑まれて死んでいったか……余所者のお前に何が分かるんだい! 山は人間の強欲を怒っているのさ。銀が出ようが金が出ようが、命より重いものなどありゃしないんだよ!」
村の男たちも俯き、拳を握りしめている。
かつて家族を奪われた記憶は、彼らの心に拭い去れない恐怖と呪いとして焼き付いていた。
(利益を優先する商人に対し、過去の事故のトラウマから感情的に全面拒絶する現場……。典型的な、安全不信によるプロジェクト頓挫の構図だな)
板壁の隅に控えていたマコトは、胸ポケットから手帳と、辞めた後輩から借りたままのボールペンを取り出した。
トン、と樫の杖を床に突いて立ち上がり、中央の黒板代わりの板壁の前へ歩み出る。
「まず、現状を把握しましょう」
落ち着いた、よく通る声が集会所に響いた。
「ネル婆。怒鳴り散らして山を封鎖したところで、問題は何も解決しませんよ」
「なんだと……!? お前まであの商人の肩を持つのかい、マコト!」
「肩を持つのではなく、事実の整理を提案しているんです」
マコトは木炭を手に取り、板壁に太い横線を引いた。
「ネル婆、そして村の皆さん。確認ですが、三十年前のあの落盤事故は、本当に『山の怒り』や『避けられない天災』だったのでしょうか?」
「そ、それは……」
「業務改善の現場では、重大インシデントが発生した際、『なぜなぜ分析』という手法で原因を深掘りします。感情を排し、なぜその事故が起きたのか、論理的に原因を突き止める作業です」
マコトは板壁に『三十年前の落盤事故』と大きく書き込み、そこから下へと矢印を伸ばした。
「なぜ、坑道は崩落したのですか? ――当時の鉱山会社が、支保工(坑木)の補強を怠り、安全マージンを無視して急速に掘り進めたからです。ゴッサさん、違いますか?」
突然話を振られた片腕の老職人ゴッサは、ぎくりと肩を揺らし、苦い顔で顎髭を撫でた。
「……ああ、その通りだ。木枠の間隔は普段の倍以上に広げられ、軋み音が鳴っても『掘る手を止めるな』と怒鳴られた」
「では、なぜ作業員は逃げ遅れたのですか? ――避難経路が一本しかなく、日常点検による地圧の測定や、危険を知らせる警報システムが皆無だったからです」
矢印がさらに下へと書き足されていく。
「そして、なぜ救助ができなかったのか? ――換気設備がなく、二次災害のリスクに対応できる装備も計画もなかったため、責任者が保身のために現場を放棄したからです」
マコトは振り返り、集会所にいる全員の目を見据えた。
「原因は明白です。三十年前の事故は、山の祟りでも運の悪さでもない。安全管理をコストと切り捨て、工程を急がせた人間による『明白な人災』です」
静まり返る室内で、ネル婆の杖を握る手が微かに震えていた。
「……人災だろうが何だろうが、山に潜れば危険なことに変わりはないじゃないか。お前に、あの暗闇の恐ろしさが防げるのかい?」
「防げます。そのための計画(段取り)を組んできました」
マコトは手帳から清書した図面を板壁に貼り付けた。
「提案する安全再開計画の骨子は四点です。
第一に、坑道の安全基準の完全規格化。ゴッサさんの工房で製材した強固な坑木を用い、一・五メートル間隔で確実に枠組みを設置します。
第二に、セルマさんの魔法とふいごを活用した『強制二重換気システム』の構築。奥へ新鮮な空気を送り続け、酸欠と有毒ガスを完全に排除します。
第三に、保護具の義務化。落石から頭部を守るヘルメットの常時着用、および作業開始前の『指差呼称』による安全確認の徹底です。
そして第四に――」
マコトは板壁の端に、大きな木の札を掲げた。
そこには白墨で、力強くこう書かれていた。
『無災害記録 〇日目』
「作業に入る前、全員で『今日の危険箇所』を洗い出すKY(危険予知)活動を行い、持ち場ごとの点検を毎朝行います。目標はただ一つ、完全無災害の継続です」
(現場の安全はスローガンで祈るものじゃない。物理的な設備と、日々のルーティンという仕組みで担保するものだ)
息を呑む村人たちの前で、ネル婆がゆっくりと顔を上げた。
その深く刻まれた皺の奥にある瞳が、マコトを真っ直ぐに射抜く。
「……相沢誠。お前は、死人を一人も出さないと、あたしに約束できるかい?」
重く、逃げ場のない問いだった。
だが、マコトは迷うことなく、静かに首を横に振った。
「いいえ。約束はできません」
「……なんだと?」
「自然を相手にする現場である以上、『絶対に事故が起きない』という安請け合いは、現場監督の最も無責任な嘘です。約束はできません。――ですが、死人を出さないための『仕組み』を作り、それを毎日泥臭く徹底し続けることなら、俺の命に代えてもお約束します」
マコトの真っ直ぐな言葉に、一切の誤魔化しはなかった。
甘い夢を語って男たちを死なせた過去の商人とは違う、現場の厳しさを誰よりも知る者の誠実さがそこにあった。
ネル婆は長い沈黙の後、ふうーっと肺の中の空気をすべて吐き出すように息を漏らした。
「……頑固な男だよ、本当にね」
老女は杖を床に立て直し、周囲の村人たちを見回した。
「条件を二つ出すよ。一つ、まずは手前の崩落していない区画の整備と、換気口の確保だけに留めること。一つでも危険が見つかったら、即座に全員引き上げること。……それが守れるなら、手前の調査だけは許してやるよ」
「長老……!」
ダンの顔に歓喜の色が走った。
「ありがとうございます、長老様。手順通りに進めます」
マコトは深々と一礼した。
翌朝から、廃坑の整備作業が始まった。
マコトは【社内購買カタログ】から、主任枠の工具と資材を取り寄せた。
・工事用高耐衝撃ヘルメット(ヘッドライト装着用バンド付き):3 KP × 10個 = 30 KP
・充電式LEDヘッドライト:3 KP × 10個 = 30 KP
合計60KPを消費。残高は1,935KP。
ポン。
現れた頑丈な黄色のヘルメットを被ったダンやグラドが、頭を叩き合って目を丸くしている。
「すげえなこれ! 石で小突かれてもびくともしねえぞ!」
「額に明かりがつくのも便利だ。両手が完全に空く!」
「安全第一です。顎紐をしっかり締めてください。指差呼称、足元よし、頭上よし、換気よし!」
「「よしッ!!」」
作業は驚くほど順調に進んだ。
ゴッサの指揮で頑丈な木枠が組まれ、グラドの怪力で重い坑木が次々と据え付けられていく。セルマの土魔法で脆い岩肌が固定され、廃坑の手前五十メートルは、見違えるほど整然とした安全な通路へと生まれ変わっていた。
「マコトさん、予定していた換気口の掘削点に到達しました!」
坑道の奥から、ツルハシを振るっていた作業班の若者の声が響いた。
「了解です。外気の取り入れルートを開通させましょう」
マコトが樫の杖を手に奥へ進み、岩壁の掘削面を確認しようとした――その時だった。
ピチャ……ピチャ……。
乾いているはずの硬い岩盤の裂け目から、湿った水音が落ちてきた。
作業員が掲げたヘッドライトの白い光が、その割れ目を照らし出す。
染み出してきたのは、澄んだ地下水ではなかった。
ドロリとした粘性を帯びた、鼻を刺す強烈な酸臭を放つ――赤黒い液体だった。
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