EP 27
「見覚えのある紋章」
煙と粉塵が沈みゆく廃砦の中庭で、マコトは拾い上げた革表紙の帳簿を凝視していた。
固められた黒い封蝋の表面に、冷酷な陰影を落とす刻印。
二匹の蛇が絡み合い、歪んだ天秤を両側から支えている意匠――それは間違いなく、ロッカ村を訪れて塩を高値で売りつけ、鉱石を二束三文で買い叩いていったあの商人、ヤーコフの荷車に焼き付けられていた紋章だった。
「……どうした、マコト? そんな難しい顔をして」
大槌を肩に担いだグラドが、怪訝そうに覗き込んできた。
「グラドさん、この紋章に見覚えはありませんか?」
「ん? いや……俺たち傭兵は依頼主の顔までいちいち詮索しねえからな。ヴェインの野郎が麓の街で金主と密談してたってこと以外、知らねえよ」
「そうですか……」
マコトは指先で蝋の冷たい凹凸をなぞり、思考を巡らせた。
ヤーコフ個人の浅ましい悪徳商売ではない。その背後に、この紋章を掲げる巨大な組織――商会か、あるいは利権を牛耳る何らかの勢力が存在している。そしてその組織の手先が、逃げ去ったヴェインのような傭兵を使い、この山域に何かを運び込ませていたのだ。
「マコトさん、その帳簿の文字……読めますか?」
駆け寄ってきたミラが不安そうに尋ねる。
「大まかな数字と帳尻は追えます。搬入された樽の数量、日付、そして多額の金貨の支払い記録です。ですが、肝心の依頼主の正式名称や積荷の品名部分は、意図的に隠語で濁されていますね」
(帳簿の形式だけは一人前に整っているが、品名コードを偽装して裏金を動かす手口だ。脱税と裏取引の現場で山ほど見てきた典型的な二重帳簿だな)
「品名の特定なら、私に調べさせてください」
中庭の隅へ歩み寄ったセルマが、割れずに残っていた三つのタール塗り木樽の前に膝をついた。
胸元から取り出した測定器の針が、樽に近づけるだけで激しく小刻みに震え、水晶瓶の中の液体が赤く濁っていく。
セルマは手袋をした指先で、樽の隙間から滲み出ていたドロドロとした赤黒い残滓を微量だけガラス棒で掬い取り、小瓶の水で薄めて光にかざした。
「……やっぱり、酷いものです」
研究者としての冷静な眼差しに、隠しきれない怒りが滲んでいた。
「これは、高純度の魔石や希少鉱石を短時間で精錬する際に出る、強烈な毒性を持った『精錬廃液』です。魔導院の軍事研究室でも厳重に隔離保管が義務付けられている劇薬ですよ。土に染み込めば草木を枯らし、川に流れれば魚や獣を死滅させ、吸い込んだ生物の体内の魔力を暴走させて変異を引き起こします」
「そんな危険な劇毒が、なぜこんな山奥に……?」
ミラの問いに、マコトが硬い声で答えた。
「適正な無害化処理を行えば、莫大な設備費用と時間がかかります。だから……人目のつかない未踏の山奥へ持ち込み、不法投棄して処理費用を丸ごと浮かせようとしたんでしょう」
(コスト削減のために産業廃棄物を山林に垂れ流す悪質業者……。どこの世界に行っても、利益至上主義の成れの果てがやる愚行は変わらない)
「放置はできませんね。セルマさん、残った三つの樽を土魔法で完全に覆い、密閉石室を作って隔離してください。雨風に晒されて漏洩したら二次災害になります。この帳簿と樽は、後で真相を暴くための重要な物的証拠として保全します」
「了解しました。外気も水分も通さない、強固な石の殻で封印します!」
セルマが杖を振るうと、地面から盛り上がった分厚い岩石が三つの樽を隙間なく飲み込み、頑丈な石の棺を作り上げた。
現場の安全確保と証拠保全。初動の処置として完璧な手当てを終え、四人は夜明け前の冷たい風の中、廃砦を後にした。
朝日が稜線を金色に染め上げる頃、四人は懐かしいロッカ村の入口へと辿り着いた。
見張り台の上のソーラー投光器が静かに消灯し、朝露に濡れた新設の頑丈な外柵が朝陽を浴びて輝いている。
「おーい! 戻ったぞッ!」
見張り台の上に立っていたダンが、四人の姿を認めるなり、谷底まで響くような大声を張り上げた。
広場から村人たちが次々と飛び出してくる。
「マコトお兄ちゃん!」「ミラねえちゃん!」
ピピとルゥが駆け寄り、無事に戻ったミラの腰にしがみついた。
「ダンさん、ただいま戻りました。怪我人はゼロ、完全無災害で作戦終了です」
マコトが胸を張って報告すると、ダンは太い両手でマコトとグラドの肩を力いっぱい叩いた。
「よく無事で帰ってきた! 見張りの点検表も、異常なしで引き継ぎ完了してるぞ!」
歓声に包まれる広場の中央で、グラドが静かに足を止めた。
熊獣人の大男は、腰元に結わえ付けていた黒い布の塊を、震える太い指先で解いた。
手にした樫の長柄の先へ、その布を結びつける。
朝の爽やかな山風を受け、バサリと翻ったのは――煤と泥に汚れながらも、気高く銀色の光を放つ、第一隊の『隊旗』だった。
ざわめいていた村人たちの声が、潮が引くように止まった。
布地にびっしりと縫い込まれた、無数の名前。銀の糸で丁寧に施されたその刺繍のすべてが、かつて誰かの息子であり、夫であり、父であった戦士たちの生きた証だった。
グラドは旗竿を地面に突き立て、背筋を限界まで伸ばした。
そして、胸の奥底から絞り出すような、深く通る重低音で、その名を一つずつ読み上げ始めた。
「オロフ……。アルト……。ヒューゴ……。レックス……。バルツ……」
広場を渡る風の音だけが、男の声を運んでいく。
使い捨ての駒として戦場へ放り込まれ、死ねば路傍の小石のように忘れ去られていく傭兵たち。
だが、この隊長だけは、彼らを決して忘れなかった。
冷たい川底に沈められようと、裏切りに引き裂かれようと、その魂を連れて戻ってきたのだ。
「……カイル。以上、二十三名」
最後の名を読み終えたグラドの頬を、一筋の熱い涙が伝い、黒い毛並みを濡らした。
「連れて帰ってきたぞ……。お前たちの名前を、薄汚ねえカラスどものゴミ溜めから……陽の当たる場所へ、取り戻してやったからな……」
コツ、と静かに杖の音が響いた。
長老のネル婆が歩み出ると、隊旗の前に立ち、深く瞼を閉じて頭を垂れた。
それに倣うように、ダンが、ゴッサが、ミラが、そして村人全員が、胸元に手を当てて静かに黙祷を捧げた。
種族は違えど、理不尽に命を奪われた同胞の痛みを、この山羊人族の村人たちは誰よりも知っていた。
奪われた尊厳が、長い祈りとともに、確かにこの山あいの澄んだ空へと還っていく。
黙祷を終え、目を開けたグラドは、集まった村人たちの温かい顔を見回した。
そして、マコトとネル婆の正面へ向き直ると、大槌を地面に置き、太い膝をついた。
「……ネルの長老。そしてマコト」
「なんだい、大熊。改まって」
「俺を……この村に置いてくれねえか」
グラドは頭を下げ、飾らない言葉で胸中を告げた。
「鉄鴉団はもうねえ。俺に帰る場所はねえんだ。……だが、この村で、お前たちの背中を見て、気づいたんだ。誰かを殺すための力じゃねえ。大切な仲間や、子どもたちの平穏を守るためにこの腕を使いたい。……大工仕事でも、見張りでも、土運びでも何でもやる! 俺を、この村の一員にしてくれ!」
ネル婆は呆れたように小さく鼻を鳴らし、杖の先でグラドの太い肩を突いた。
「何を馬鹿な寝言を言ってるんだい。うちの子らにお守りをもらっておいて、今さら余所者面するんじゃないよ。……腹が減ったなら、とっとと顔を洗って粥を食いな」
「長老……!」
「歓迎しますよ、グラドさん。防衛線の補強も、これからの村の再建も、人手はいくらあっても足りませんからね」
マコトが手を差し伸べると、グラドはその大きな手で握り返し、子どものように顔をくしゃくしゃにして笑った。
広場に、割れんばかりの歓声と拍手が響き渡った。
それから一夜が明けた、翌朝のことだった。
すがすがしい朝の光の下、マコトの号令に合わせて村人全員が体を伸ばす朝の体操が終わり、点呼の清々しい声が広場に響き渡っていた。
グラドもすっかり列の中に馴染み、ぎこちない動きで深呼吸を繰り返している。
フォオオオン――。
見張り台から、短く澄んだ角笛の音が一度だけ響いた。
敵襲を告げる甲高い連吹ではない。村の外からの来訪者を知らせる、穏やかな合図の音だった。
「客か……? ヤーコフの野郎が来る時期にはまだ早いはずだが」
ダンが首を傾げ、村の入口へと視線を向ける。
坂道を登ってきたのは、一台の見慣れない頑丈な屋根付き荷車だった。
二頭の走竜に引かれたその荷車の御者台で、緑色の鱗に覆われた小柄な影が、手綱を器用に引いてブレーキを踏み込んだ。
カタカタと乾いた音を立てて荷車が広場の入口に止まると、御者台から跳び下りてきたのは、背中に大きな算盤を背負った、一匹の蜥蜴人の商人だった。
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