EP 25
「発煙筒と防犯ブザー」
新月の漆黒を切り裂き、ミラの投石紐が鋭く夜気を唸らせた。
放たれたのは、頭部を擦って激しく点火された業務用大型発煙筒。
赤い火花を散らしながら砦の中庭へ飛び込んだ円筒から、次の瞬間、視界を完全に遮断する濃密な赤色煙が猛烈な勢いで噴き出した。
ビュンッ!
続けざまにミラが撃ち出したのは、ピンを引き抜かれた手のひらサイズの防犯ブザーだ。
傭兵たちの幕舎の天幕を突き破って飛び込んだプラスチックの塊が、密閉された空間でその凶悪な性能を遺憾なく解き放った。
――ピギイイイイイイイイイッッ!!!
百三十デシベル。ジェット機のエンジン音に匹敵する超高周波の電子警報音が、夜の静寂を木っ端微塵に粉砕した。
「ぎゃあああっ!? な、なんだこの音はぁっ!?」
「耳が、鼓膜が破れるッ!」
「火事か!? 前が見えねえ、煙で息ができねえぞ!」
幕舎から飛び出してきた傭兵たちは、真っ赤な煙に巻かれて激しく咳き込み、耳を押さえて地面をのたうち回った。
酒に酔い、まともな防犯体制も敷いていなかった荒くれ者どもだ。
視覚を奪われ、聴覚を破壊され、誰が敵で誰が味方かも分からない極限のパニックの中、抜いた剣を無差別に振り回して同士討ちを始めている。
(非常ベルの音圧基準が九十デシベル以上なのは、確実に人間の足を止めるためだ。誘導灯も避難訓練もない現場でこれだけの感覚妨害を食らえば、どんな屈強な兵隊でも一瞬で統率を失う)
「今です! 予定通り、五分で離脱します!」
マコトは手帳のタイムテーブルを脳裏に描きながら、短く指示を飛ばした。
「応ッ!」
岩陰から飛び出したマコトとグラドは、西側の死角となっていた城壁の亀裂へと身を滑り込ませた。
外壁の崩落部では、セルマが杖を構えて待機している。
「足元は私が固定しておきます! 退路は絶対に塞がせません!」
「頼みます!」
煙の立ち込める通路を、グラドが迷うことなく突き進む。かつて自分が起居していた砦だ、構造は熟知していた。
混乱して逃げ惑う傭兵が正面から飛び出してきたが、マコトは樫の杖の先端でその足首を軽く払った。
「っと、失礼」
バランスを崩した男が石畳に派手に転倒し、起き上がる間もなくグラドの巨体によって壁際へと弾き飛ばされた。武器で斬りつける必要すらない。
階段を駆け上がり、砦の最奥――かつての司令室であり、現在は団長ヴェインの居室となっている重い木製扉を、グラドが太い肩で力任せにぶち破った。
ドォンッ!
「な、何事だッ! 外の騒ぎは一体――」
机の上の金貨を革袋に詰め込んでいた細身の男が、血相を変えて剣を抜いた。
鉄鴉団団長、ヴェイン。冷酷そうな細い吊り上がった目に、深い狼狽が張り付いている。
その男の視線が、扉の前に立つ熊獣人の巨躯を捉えた瞬間、凍りついたように見開かれた。
「グ……ラド……!? 馬鹿な、貴様、あの激流に落ちて生きていたのか……!?」
「死に損ないが、地獄の底から戻ってきたぜ、ヴェイン」
グラドの太い喉から、地鳴りのような重低音が響いた。
だが、その琥珀色の瞳は、目の前の裏切り者の男には向けられていなかった。
部屋の隅、雑多なゴミ箱の上に無造作に放り出されていた、黒い麻布の塊――。
そしてその脇に立てかけられた、分厚い鋼鉄の塊を据えた巨大な戦鎚。
「……あった」
グラドは一歩、また一歩と部屋の隅へ歩み寄った。
ヴェインが怯えから切っ先を突き出してきたが、マコトがすっと横から割り込み、樫の杖の軸でその剣撃を上方へと受け流した。
「なっ、人間……!?」
「確認ですが、交渉の余地はありませんよ」
マコトは冷徹に告げ、合気道の転換でヴェインの体勢を大きく崩した。
その間に、グラドは震える太い指先で、黒いボロ布を抱え上げた。
銀の糸で縫い合わされた、死んでいった部下たちの名前。泥と煤に汚れながらも、その刺繍は確かにそこに刻まれていた。
グラドは布に顔を埋め、熱い吐息を漏らすと、それをしっかりと自らの腰帯へと結びつけた。
そして、傍らにあった巨大な大槌の柄を、太い毛並みの手で力強く握り直した。
ずっしりとした金属の質量が、歴戦の傭兵の右手に蘇る。
「……おかえり」
グラドは愛用の武器に、まるで長年連れ添った古女房に語りかけるように小さく呟いた。
その横顔には、ロッカ村で倒れていた時の悲壮感は欠片も残っていなかった。失われた誇りを取り戻した、一人の堂々たる戦士の顔だった。
「目的は達成しました! グラドさん、退却します!」
マコトが叫んだ。
「ああ! こんな悪臭のするカラスの巣穴、長居は無用だ!」
「ま、待て……! 逃がすと思うかッ!」
床に転がっていたヴェインが、屈辱に顔を歪めて絶叫した。
「金も……名誉も……あの商会との契約も、全部貴様らのせいで台無しだ! 生きてここから出られると思うなよッ!」
男は狂乱した様子で懐へ手を突っ込むと、黒ずんだ禍々しい光を放つ小さな石の呪具を取り出した。
そしてそれを、迷うことなく石造りの床へと叩きつけた。
パリンッ! と甲高い破砕音が響いた直後、砦の石壁に刻まれた古い紋様が一斉に禍々しい赤紫色の光を放ち始めた。
ズズズズ……と砦全体が激しく揺れ動く。
「な、なんだこの揺れは……!?」
グラドが眉をひそめた。
室外の中庭から、木材が激しく砕け散る重い破裂音が連続して響いてくる。
昼間、荷車で運び込まれていたあのタール塗りの木樽だ。呪具の魔力に共鳴したのか、箍が弾け飛び、中から粘性を帯びたドロドロの赤黒い液体が大量に噴き出していた。
(あの異臭の液体……! 中庭の石畳の溝を伝って、地下へ流れ込んでいるのか!?)
鼻を刺す強烈な酸臭が、発煙筒の煙を押し退けて急激に立ち込めてくる。
「マコトさん、逃げてくださいッ!」
中庭の見張り台から、ミラの悲鳴のような警告が響いた。
「中庭の床が……床が持ち上がっています! 何か出てくる!」
部屋を飛び出し、階段を一気に駆け下りて中庭へ滑り出たマコトとグラドの目の前で、石畳が内側から爆発するように跳ね飛んだ。
地下から這い出してきたのは、崩れかけた城壁の巨石を無数に繋ぎ合わせたような、異形の石造りの四肢だった。
その巨躯の表面には、木樽から溢れ出た赤黒い廃液がまるで血管のようにドクドクと脈打ち、不気味な光を撒き散らしている。
立ち上がったその質量は、ゆうに五メートルを超えていた。
廃砦の守護者として数百年前に眠りについたはずの古代の石像兵が、現代の毒の廃液を吸い上げ、凶暴な破壊機械へと変貌を遂げていたのだ。
赤黒く光る巨人が、地鳴りのような足音とともに大門の前に立ち塞がった。
砦から外界へと通じる唯一の脱出ルートが、完全に遮断された瞬間だった。
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