EP 24
「廃砦の現状把握」
ロッカ村から尾根を二つ越えた山陰に、灰色の苔に覆われた古い石造りの廃砦が口を開けていた。
かつて国境警備のために築かれ、数十年前に放棄されたその遺構は、今や鉄鴉団の荒くれ者どもが巣食う無法の拠点と化している。
マコトは胸ポケットの手作りのお守りにそっと触れ、眼下の砦を見下ろす岩陰へと身を潜めた。
「……懐かしいなんてもんじゃねえな。薄汚ねえカラスどものねぐらだ」
隣で伏せていたグラドが、琥珀色の瞳を険しく細めて低く唸った。太い腕にはまだ包帯が痛々しく巻かれているが、その呼吸には歴戦の傭兵らしい冷静さが保たれている。
「グラドさん、逸る気持ちは分かりますが、まずは深呼吸です」
マコトは胸ポケットから手帳とボールペンを抜き出すと、落ち着いた声でいつもの口癖を紡いだ。
「まず、現状を把握しましょう」
白紙のページに、素早いペン先が砦の俯瞰図を描き出していく。
外壁の崩落箇所、見張り台の数、侵入可能な動線、そして巡回している傭兵の姿。
「ミラさん、砦の上層の見張りの数を教えていただけますか」
「はい。見張り台に弓兵が二名、崩れた城壁の通路に槍持ちが三名です。……あ、東側の見張り、交代の合図もなしに欠伸をして持ち場を離れました」
狩人特有の並外れた視力で状況を捉えるミラへ、マコトはペンを走らせながら頷いた。
「了解です。……グラドさん、鉄鴉団の警備シフトの基本周期は把握していますか?」
「いや……そんなもん決まってねえよ。適当に交代して、酒飲んで寝てるだけだ」
(タイムカードも勤怠管理もない現場特有のルーズさだな。統率が取れていないのはこちらにとって最大の隙になる)
マコトは手帳の余白に、観察から導き出した数字を書き込んでいった。
見張りの巡回周期は約四十五分。しかし西側の物見櫓は死角が多く、交代のタイミングで約五分間の完全な監視空白が生じている。
「……おいマコト、お前は何を書いてるんだ?」
覗き込んできたグラドが、整然と並ぶ数字や記号を見て目を丸くした。
「敵の行動パターンと動線のタイムスタンプです。いつ、どこに隙が生まれるかを可視化しています」
「た、タイム……? 戦う前から、そんなことまで全部帳面に付けてんのかよ……」
「戦いの勝敗は、現場に入る前の段取りで八割決まりますから」
マコトが淡々と返すと、グラドは呆れたように首を振りながらも、頼もしそうに口元を緩めた。
その時だった。
ギィィッ……と軋んだ車輪の音が、谷底の小道から響いてきた。
二頭立ての頑丈な荷車が、砦の大門へと滑り込んでいく。荷台に積まれているのは、黒いタールで幾重にも目張りされた巨大な木樽だった。
「あの樽です!」
グラドの身体が緊張で跳ね上がった。
「俺が裏切られる原因になった、あの異臭のする樽だ!」
風向きが変わり、谷底から吹き上がってきた風を吸い込んだ瞬間、マコトの喉が激しく痛んだ。
(うっ……! 鼻を突く強烈な酸臭と、生ゴミが腐敗したような不快なケミカル臭……! 前職の産廃処理場や化学プラントでも嗅いだことのない酷い悪臭だ)
隣のミラが思わず鼻と口を手ぬぐいで覆い、苦悶に眉をひそめる。
チリチリチリッ、と甲高い金属の摩擦音が響いた。
抱えていた真鍮の円筒器具を見つめていたセルマが、青ざめた顔で息を呑む。
「マコトさん、これを見てください……!」
測定器の盤面の中央で、水晶の小瓶に満たされた青い液体が濁った赤紫色に変色し、真鍮の針が振り切れたまま激しく小刻みに震えていた。
「魔力の波形が完全に狂っています。……間違いありません。私がロッカ村の廃坑の脇道で観測した、あの不気味な魔力の歪みと完全に同じ揺らぎです!」
「やはり繋がっていましたか」
マコトの表情が引き締まる。
廃坑の奥で起きていた異変と、この廃砦に持ち込まれている毒の樽。何者かがこの山域一帯に、人知れず危険な有害物質を運び込んでいるのだ。
「奪還作戦の重要性がさらに上がりましたね。敵の規模は約四十名。正面から突入すればすり潰されます。ここは感覚器を麻痺させる奇襲で一気に混乱を起こし、その隙に目的を果たします」
「感覚器を麻痺……? 毒薬でも使うのか?」
グラドの問いに、マコトは首を横に振った。
「命を奪う必要はありません。使うのは、ただの防災・防犯用品です」
マコトは視界の端の【社内購買カタログ】を素早く開いた。
主任等級の解放カテゴリから、必要な備品を次々とピックアップしていく。
・業務用大型発煙筒(高濃度赤色煙・燃焼時間5分):3 KP × 4本 = 12 KP
・超高音量防犯ブザー(130デシベル・ピン引き抜き式):2 KP × 4個 = 8 KP
合計20KPを消費。残高は935KPとなった。
ポン。
静かな印鑑の音とともに、手元に赤い筒状の器具と、手のひらサイズの小さな樹脂製のブザーが現れた。
「作戦を説明します。突入は監視の隙が生まれる深夜の交代時。まずミラさんに、投石紐でこの発煙筒を砦の広場と幕舎へ投げ込んでもらいます。火をつけると猛烈な煙が噴き出し、視界をゼロにします」
マコトは発煙筒の着火手順を示し、続けて防犯ブザーを指差した。
「さらに、このピンを抜いたブザーを放り込みます。耳をつんざくような百三十デシベルの爆音が鳴り響き、煙の中で敵の聴覚と指示系統を完全に麻痺させます」
(耳元で飛行機のプロペラ音を鳴らされるようなものだ。視覚と聴覚を同時に奪われれば、どれほど屈強な兵士でもパニックを起こして同士討ちを始める)
「敵が混乱に陥っている間に、グラドさんと俺が西側の死角から砦内部へ潜入。大槌と隊旗を回収します。セルマさんは外壁の崩落部で待機し、私たちの退路を土魔法で確保してください。……いいですね?」
「ああ……! 完璧な段取りだ!」
グラドは太い拳を握りしめ、熱い吐息を漏らした。
「よーし、カラスどもに目にもの見せてやるぞ……!」
やがて太陽が沈み、新月の夜が山々を深い闇で塗りつぶしていった。
砦の篝火が風に揺れ、酒に酔った傭兵たちの下品な笑い声が途切れ途切れに届いている。
西側の見張り台で、槍を持った傭兵があくびを噛み殺しながら持ち場を離れた。監視の空白時間が訪れたのだ。
「時間です。……作戦を開始します」
マコトが低く呟いた、その瞬間だった。
ゴゴゴゴ……と、足元の岩盤が微かに震えた。
風の音ではない。
静まり返った廃砦の最奥部――地下へと続く石造りの古びた大扉の向こうから、身の毛もよだつような、低く重い何かの唸り声が闇を伝って這い上がってきた。
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