EP 23
「奪われた旗」
集会所の囲炉裏で薪が小さく爆ぜ、橙色の火の粉が暗がりに舞い上がった。
空になった二つの大皿を前に、熊獣人のグラドは太い両腕を抱え、苦渋に満ちた表情で低く重い息を吐き出した。
「……俺はな、少し前まで『鉄鴉団』っていう傭兵団で、第一隊の隊長をやってたんだ」
グラドの語りは、胸に走る生々しい傷跡をなぞるように始まった。
鉄鴉団は総勢四十名ほどの規模を持つ、そこそこ名の知れた中堅の傭兵集団だった。
団長の名はヴェイン。元は戦術眼の確かな腕利きだったが、近年は金への執着を強め、どんな怪しい依頼でも報酬次第で請け負うようになっていたという。
「数日前、ヴェインの野郎が麓の怪しげな連中から『特上のシノギ』を引っ張ってきた。依頼の内容は、夜の闇に紛れて、山の中に大量の頑丈な樽を運び込むことだった」
「夜間に、樽を……?」
マコトが手帳を取り出し、ボールペンの先を走らせながら問い返す。
「ああ。だがな、その樽がただ事じゃなかった。厳重に封蝋が施されてるってのに、近づくだけで鼻を突く酸臭と、生ゴミが腐ったような酷い異臭が漏れ出てやがった。積荷の正体を問い詰めても、ヴェインは『中身を知る必要はねえ、金だけ受け取ればいい』の一点張りだ」
グラドは太い拳をギリリと握りしめ、悔しさに奥歯を鳴らした。
「冗談じゃねえ。何が入ってるかも分からねえ危険物を、部下に素手で担がせられるかってんだ! 万が一樽が割れて毒が漏れたら誰が責任を取るんだ! 俺は真っ向から反対した。こんな汚れ仕事は受けられねえ、やるなら俺と第一隊は降りる、とな」
(積荷の安全データシート(SDS)も作業手順書もなしに、危険物の運搬を現場作業員に丸投げする……典型的な違法コンプライアンス違反だな。グラドさんの現場判断は極めて全うだ)
「そしたらヴェインの奴、その場では『分かった、お前の言う通りだ』と笑って引き下がりやがった。……だが、その夜だった」
グラドの琥珀色の瞳に、昏い怒りの炎が宿る。
「幕舎で休んでいた俺の背後から、ヴェインと息のかかった幹部どもが不意打ちで切りつけてきやがった。多勢に無勢、傷だらけにされて追い詰められた俺から、奴らは愛用の大槌を奪い……さらに、第一隊の『隊旗』まで強奪しやがったんだ」
「隊旗……ですか」
「黒い麻布に、銀の糸で縫い合わせたボロ旗だ。……だがな、あそこには今まで俺と一緒に戦って、命を落としていった部下たちの名前が、一人ひとり手縫いで刺繍してあるんだよ! あいつらにとっちゃただの布切れかもしれねえが……俺にとっちゃ、あいつらが生きて戦った唯一の証なんだ……ッ!」
男の目から、大粒の悔し涙がぽろぽろと零れ落ちた。
武器を奪われ、仲間の魂がこもった旗を奪われ、瀕死の重傷を負わされたグラドは、そのまま増水した雪解けの渓流へと蹴落とされたのだという。
「鉄鴉団の奴らは今、この山を越えた反対側にある古い『廃砦』を根城にしてやがる。……マコト、止めるなよ。俺は今からそこへ乗り込んで、大槌と旗を取り戻す。這ってでも行って、ヴェインの面を張り倒してやる!」
グラドが包帯の軋みも構わず、立ち上がろうとした。
「止まってください、グラドさん」
マコトは立ち上がり、静かに、しかし断固とした声でその巨体を制止した。
「確認ですが、その傷だらけの身体で単身乗り込んで、どうやって砦を攻略するつもりですか? 武器もなく、傷口が開き、返り討ちに遭って犬死にするのが関の山です。それは部下の無念を晴らすことにはなりません」
「う……っ、だがよぉ……!」
「感情で突っ走る単独行動は、現場で最も重大な事故を招く引き金です。……一人で行く必要はありません。俺たちも行きます」
「な……ッ!?」
グラドが目を剥いた。
「お前たちを巻き込めるわけねえだろ! これは俺の、傭兵団の内輪の落とし前だぞ!」
「内輪揉めで済めばいいですが、そうはいきませんよ」
マコトは手帳の白紙にペンを走らせながら、冷静に事実を整理した。
「その異臭を放つ謎の樽です。山の反対側とはいえ、同じ山域に正体不明の有害物質が不法投棄されれば、雨水や地下水脈を通じて、いずれこのロッカ村の水源や土壌にも壊滅的な被害が及ぶ可能性があります。これは村にとっても看過できない重大な環境リスクです」
「マコトさんの言う通りです」
集会所の扉が開き、セルマが眼鏡のブリッジを押し上げながら入ってきた。胸元には愛用の測定器を抱えている。
「その異臭と怪しい樽……私が廃坑の脇道で観測した、異常な魔力の揺らぎと一致する可能性があります。もし魔術的な汚染物質なら、調査して食い止めなければ山全体が死にます。研究者として、見過ごすわけにはいきません」
「それに、グラドさんはもう私たちの友達です!」
セルマの後ろから、腰に投石紐を下げたミラが元気に顔を出した。右肩の傷口にはしっかりと包帯が巻かれているが、その足取りには狩人特有のしなやかな力強さが戻っている。
「仲間が大切なものを奪われて泣き寝入りなんて、山の女の名が廃ります! 私も行きます!」
「お前ら……」
グラドは言葉を失い、喉を詰まらせて三人を見つめた。
「決まりですね。では、体制と手順を整えましょう」
マコトは板壁に木炭で工程表を描き出した。
「まず、村の防衛線を疎かにするわけにはいきません。ダンさんには村に残ってもらい、防衛体制の維持と見張りの指揮を担当してもらいます」
「おう! 任せておけ!」
腕組みをして控えていたダンが、太い胸を叩いた。
「留守中の点検表も外柵の警戒も、俺がキッチリ回してやる。マコト、ダチの旗を必ず取り戻してこいよ!」
「ありがとうございます。出撃メンバーはマコト、グラドさん、ミラさん、セルマさんの四名。目的は『隊旗と大槌の奪還』および『不審な積荷の正体調査』です。敵の全滅は目的ではありません。深追いは厳禁、最優先は全員の完全無災害での帰還です」
明確な役割分担と、ブレない安全基準。
復讐ではなく、命と尊厳を守るための「作戦」として構造化された計画に、グラドの瞳から焦燥が消え、静かな闘志が宿っていった。
翌朝、東の空が白み始め、朝靄が立ち込めるロッカ村の出口に四人が揃った。
マコトは身支度を整え、樫の杖を手に指差呼称を行う。
「水、よし。救急包帯、よし。命綱、よし。……出発します」
見送りに集まった村人たちの間から、トタトタと小走りの足音が響いた。
「マコトお兄ちゃん! 待って!」
「グラドのおじちゃんも!」
息を切らして駆け寄ってきたのは、ピピとルゥの幼い兄妹だった。
二人は小さな両手をいっぱいに伸ばし、四人に向かって何かを差し出した。
それは、山の乾燥した木の実と、小川で拾った色とりどりの小石を、細い麻紐で器用に編み合わせた手作りのお守りだった。
「これ、昨日みんなで作ったの!」
「山の神様にね、みんなが怪我しないで、元気に帰ってこられますようにってお願いしたんだよ!」
ピピがマコトの作業着のボタン穴にお守りを結びつけ、ルゥがグラドの太い毛だらけの指先へ、小さな小さなお守りをそっと乗せた。
熊のような大男の手のひらに鎮座する、素朴で愛らしい木の実と小石。
「……お前ら……」
グラドは鼻の奥を真っ赤にし、壊れ物を扱うようにそっとその小さな手を包み込んだ。
「ありがとな……。おっちゃん、絶対にかすり傷一つ作らずに帰ってくるからな」
「うん! 絶対だよ!」
長老ネル婆も杖を突き、穏やかな目で一行を見据えて小さく頷いた。
朝の光が差し込み、霧を黄金色に切り裂いていく。
四人は胸元のお守りをしっかりと握りしめ、裏切り者たちが巣食う山の向こうの廃砦を目指して、力強く一歩を踏み出した。
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