EP 21
「川が運んできた熊」
山肌を覆っていた冬の残雪が春の日差しに解け出し、ロッカ村の谷底を流れる渓流は、泥を巻き込んで猛烈な濁流と化していた。
ゴウゴウと地鳴りのような水音が岩肌を震わせ、白く泡立つ飛沫が冷気とともに吹き上がってくる。
マコトは樫の杖を突いて足場を確かめながら、増水した川沿いの小道を慎重に進んでいた。
「水量が普段の三倍近くまで跳ね上がっていますね。上流からの流木が川幅の狭い箇所に引っかかれば、天然のダムとなって決壊し、鉄砲水を引き起こす危険があります」
「春先はいつもこうなんです。雪解け水で道が削られて、危なくて谷には近づけないのが山の常識でした」
隣を歩くミラが、首元に巻いた手ぬぐいを押さえながら答えた。肩の傷は順調に塞がり、今ではこうして護岸の見回りに同行できるほど回復している。
「危険だからこそ、事前に現場を見ておく必要があります。災害が起きてから『想定外でした』では、管理者の怠慢ですから」
(前職の工場でも、台風や大雨のたびに排水溝の詰まりを点検させられたものだ。あの頃は面倒で仕方がなかったが、予防保全に勝る安全対策はないと今なら痛いほど分かる)
手帳を広げ、川の屈曲点や崩れかけた法面をチェックしていたその時だった。
前方で魔術の測定器を構えていたセルマが、甲高い声を上げた。
「マコトさん、あそこを見てください! 川の湾曲部……流木の山の中に、何か引っかかっています!」
「流木……? いや、毛皮だ!」
ミラの鋭い視線が激流の一点を射抜く。
水中に沈んだ太い倒木の間、激しい水流に揉まれながら、黒々とした巨大な塊が半ば水没していた。人の形をしている。だが、その肩幅と体躯は山羊人族の大男であるダンよりもさらに二回りは巨大だった。
「人間じゃない……熊獣人だわ!」
「引き上げます! ミラさん、決して一人で飛び込まないでください!」
マコトは即座に指示を飛ばした。
水難救助における最悪の失敗は、救助者が濁流に呑まれる二次災害だ。
マコトは作業着のポケットから麻縄を取り出すと、岸辺の太い松の木の根元にもやい結びで固く結束した。
「セルマさん、泥魔法で足場の岩を滑らないよう固めてください! ミラさんは命綱を握って後ろで確保を! 俺が引っ掛かりを外します!」
「はいっ!」
セルマの詠唱によって足元の濡れた岩場が瞬時に平坦に固まり、マコトは命綱を腰に回して浅瀬へと踏み込んだ。骨の髄まで凍りつくような冷水が長靴を叩く。
樫の杖の先端を倒木と男の衣服の隙間に差し込み、てこの原理で力任せに煽る。
水圧で頑丈に食い込んでいた流木がバキリと音を立てて外れ、巨大な身体が水面に浮き上がった。
「今です、引いてくださいッ!」
ミラとセルマが渾身の力でロープを手繰り寄せ、マコトが巨体の襟首を掴んで岸へと引きずり上げた。
河原の湿った土の上に横たえられたのは、筋骨隆々たる巨躯を持つ熊獣人の男だった。
年齢は三十代半ばほどだろうか。
だが、その状態は極めて凄惨だった。
分厚い毛皮のベストや革鎧は激しく切り裂かれ、胸から腹部にかけて無数の刃物傷が走っている。打撲の痕跡も酷く、激流に流される前に凄まじい乱戦をくぐり抜けてきたのは明白だった。
「息は……っ、ほとんど止まりかけています!」
ミラが男の口元に耳を寄せ、青ざめて叫んだ。
男の唇は土気色を通り越して紫色に変色し、肌は氷のように冷え切っている。全身が激しく痙攣した形跡があり、今はその震えすら止まっていた。呼吸は浅く途切れ途切れで、頸動脈の脈拍は糸のように頼りない。
「重度の低体温症です。雪解け水に長時間浸かっていたせいで、体幹の温度が限界まで下がっている。このままでは心肺停止に陥ります」
「た、焚き火を起こします! 火を近づけて温めないと……!」
セルマが慌てて火種を探そうとしたが、マコトは断固とした声で制止した。
「ダメです! 急激に外から熱を与えてはいけません!」
「えっ……!? でも、凍え死にそうなのに……!」
「冷え切った四肢を手足から急激に温めると、末梢の血管が一気に開き、手足に溜まっていた冷たい血液と老廃物が一気に心臓へ逆流します。『アフター・ドロップ』と呼ばれる現象です。心臓が急激な温度低下のショックに耐えきれず、その場で心停止を引き起こす危険が極めて高いんです」
(救急講習で耳にタコができるほど叩き込まれた鉄則だ。良かれと思った素人判断の加温が、遭難者のトドメを刺す。まずは身体を乾かし、体幹の熱を逃がさないことだ)
「まず、濡れた衣服をすべて剥ぎ取ります。水を含んだ布を着せたままだと、気化熱で体温が永遠に奪われ続けます。ミラさん、手伝ってください!」
マコトは常備薬の缶から取り出した救急用のハサミを使い、男の濡れそぼった革鎧の留め具や分厚い上着を、迷うことなくジョキジョキと切り裂いていった。無理に脱がせようとして身体を揺さぶるだけでも、心臓に致命的な不整脈を誘発する恐れがあるためだ。
冷水を吸って氷のように冷たくなった布地をすべて切り落とし、清潔な手ぬぐいで男の巨体の水分を徹底的に拭き取る。
そしてマコトは、素早く【社内購買カタログ】を呼び出した。
(主任枠の防災用品だ。今こそ使い時だ!)
・高機能アルミ製エマージェンシー保温シート(厚手・透湿型):2 KP × 3枚 = 6 KP
・化学カイロ(貼るタイプ・大型10個入り):1 KP
合計7KPを消費。残高は920KP。
手元に現れた銀色の薄いシートを広げると、男の太い胴体、首筋、そして脇の下にカイロを挟み込み、上からシートを幾重にも巻きつけた。
「これは……?」
「自身の体温の熱を反射して閉じ込める保温シートです。加温する箇所は首、脇の下、太ももの付け根の太い血管が通る『体幹部』だけに限定します。手足の先は温めず、身体の中心だけを、時間をかけてゆっくりと平温に戻していくんです」
銀色に包まれた熊獣人の胸元が、十数分後、かすかに大きく上下した。
「……ごほっ……! ぐ……ぅ……」
喉の奥から微かな唸り声が漏れ、唇の紫色の暗さがわずかに引いていく。脈拍も少しずつ力強さを取り戻していた。
「自発呼吸、回復……! 最悪の峠は越えました」
マコトは胸中で深く息を吐き出した。
その瞬間、澄み切った印鑑の音が頭蓋に心地よく響いた。
ポン。
――――――――――――――――
【考課】行動:人命の救助(低体温症への適切な応急処置)/評価:A/+40KP
(累計1,490KP/保有残高:960KP)
――――――――――――――――
人命の保護に対する正当な評価だ。
程なくして、ミラの角笛の合図を聞きつけたダンたちが担架を担いで駆けつけてきた。
「うおっ、でけえ熊獣人だな! 生きてるのか!?」
「一命は取り留めましたが、傷の手当てと安静が必要です。村の集会所へ運びましょう」
男たち四人がかりで巨体を担架に乗せ、慎重に坂道を上がっていった。
集会所の奥、囲炉裏の柔らかな温もりが満ちる板敷きの上で、男は分厚い毛布にくるまれていた。
切り裂かれた傷口はセルマの水魔法で清浄に洗い流され、マコトが取り寄せた清潔な包帯と消毒液で処置されていた。
外はすでに夕暮れを迎え、窓の外が藍色に染まり始めている。
板壁に背を預けて手帳の記録をつけていたマコトの耳に、ガサリと藁の擦れる重い音が届いた。
「……う……ぐ……」
寝台の上の巨体が、微かに身じろぎした。
分厚い黒毛に覆われた太い腕が、ぎこちなく持ち上がる。
ゆっくりと開かれた男の瞳は、燃え殻のような暗い琥珀色をしていた。視界はまだ定まっていないようだったが、その呼吸は荒く、全身の筋肉が獲物を前にした獣のように一瞬で緊張へと跳ね上がった。
目を覚ました男が、激痛に顔を歪めながらも、真っ先に手を伸ばしたのは己の腰元だった。
手探りで、狂おしいほど必死に、何かの感触を求めて太い指先を這わせる。
だが、そこには包帯が巻かれているだけで、男が求めていた硬い手応えは何一つ存在しなかった。
「……ねぇ……」
掠れた、しかし腹の底から絞り出すような重低音が、暗い集会所に低く響き渡った。
「……俺の……大槌は……どこだ……」
男の血走った視線が、闇の中でマコトを射貫くように据えられた。
読んでいただきありがとうございます。
面白いと思っていただけましたら、★評価やブックマークで応援していただけると励みになります。




