EP 18
「長老の頭」
朝の澄んだ冷気が満ちるロッカ村の広場で、長老ネル婆が杖を突き、マコトの真正面で足を止めた。
ざわめいていた村人たちが一斉に息を呑み、静まり返る。
いつもなら人間を蔑み、鋭い敵意を隠そうともしなかった老女が、静かにその瞼を伏せた。
そして――深々と、腰を折って頭を下げたのである。
「長老様……!?」
思わず叫んだのは、傍らに控えていた戦士頭のダンだった。屈強な大男が、信じられないものを見たように目を丸くしている。
「ネル婆、頭を上げてください!」
マコトは慌てて両手を前に出し、営業時代に培った反射的な低姿勢で身を引いた。
(村の最高権力者からの最敬礼なんて、建材メーカーの平社員が受けていい角度じゃない。胃に穴が空く)
「……いいや、下げさせておくれ」
低く、かすれたネル婆の声が、静まり返った広場に染み渡っていく。
「あたしはね、お前がこの村に来た日、疫病神が転がり込んできたと思ったのさ。人間なんてものは、口先では甘い約束を並べ立て、最後にはすべてを奪っていく薄汚い連中だと……骨の髄まで信じ込んでいたからね」
杖を握る老女の節くれだった手が、かすかに震えていた。
「三十年前さ。この村に、麓から人間の鉱山会社がやってきた」
ネル婆は顔を上げず、地面の冷たい土を見つめたまま、絞り出すように語り始めた。
「奴らは村に銀貨をばら撒き、豊かな暮らしを約束して、男たちを総出で山へ掘りに行かせた。だが、掘れば掘るほど要求は増え、坑道は無謀に広げられ、危険を訴える声は『工期が遅れる』の一言で握り潰された」
「…………」
「そして、大落盤が起きた。山が鳴り、坑道が崩れ落ち……坑口の奥に閉じ込められた十数人の若い男たちが、生き埋めになったのさ」
広場に立つ男たちの中にも、苦い表情で拳を握りしめる者が何人もいた。彼らにとって、それは決して昔話ではなく、肉親や先代を奪われた癒えない傷なのだ。
「会社の人間の長は、救助の費用も出さず、二次災害の責任を恐れて、夜の間に道具ごと逃げ去ったよ。山を食い荒らし、村人を殺し、残されたのは掘り尽くされて崩れかけた廃坑と、塩すら買えない貧しさだけだった。……だからあたしは、人間を二度と信用しないと誓ったんだ」
ネル婆が、ゆっくりと顔を上げた。その深く刻まれた皺の奥にある瞳には、乾いた諦念ではなく、熱い湿り気が宿っていた。
「だが、お前は違った」
老女の視線が、マコトの手帳が覗く胸元と、汚れきった作業着へ向けられる。
「お前は真っ先に、戦えない子どもや年寄りを逃がす段取りを組んだ。武器も持たぬお前が、自ら泥をかぶり、命懸けで白牙の前に割り込んで、あの子たちを守り抜いた。……そして、誰一人死なせなかった」
(工期と利益を優先して安全基準を無視し、大事故を起こして現場を放棄する悪徳業者……どこの世界でも、起きる悲劇の構造はまったく同じだな)
マコトは胸中で苦い息を吐きながら、ネル婆の言葉を受け止めた。
「あたしの偏見で、お前を理不尽に追い立てようとした非礼を詫びるよ。……村の命を、子らの未来を守ってくれて、本当にありがとうよ、相沢誠」
初めて、その唇から「人間」ではなく、マコトの名が明確に紡がれた。
「ネル婆……。俺は、当たり前の安全管理と段取りを提案しただけです。それを信じて、一歩も引かずに持ち場を守り抜いてくれたのは、村の皆さん自身ですよ」
マコトが穏やかに返すと、ネル婆はふっと口元を緩め、ようやくいつもの険を解いた。
その光景を見ていた村人たちから、温かいどよめきと拍手が自然と湧き上がった。
防衛戦の後片付けがひと段落した昼下がり、マコトは村の端にあるミラの家を訪れていた。
粗末な木製の扉をそっと開けると、奥の寝台の周囲に小さな影が二つ張り付いていた。
「あ、マコトお兄ちゃん!」
「お兄ちゃん、ミラねえちゃんね、お熱下がったよ!」
ピピとルゥが駆け寄ってくる。二人の頭を優しく撫でながら、マコトは寝台の上へ視線を向けた。
毛布にくるまったミラが、青白かった顔にほんのりと赤みを差して、浅い呼吸を繰り返している。
「マコトさん、来てくれたんですね」
寝台の脇の丸椅子から立ち上がったのは、魔術師のセルマだった。
「セルマさん、付き添いありがとうございます。容態はどうですか?」
「はい。傷口の熱感や化膿の兆候はありません。マコトさんが最初にしっかりと清潔な布で圧迫止血してくださったおかげで、皮下出血も最小限で済んでいます。私の水魔法で創面を洗い流し、清潔な布で保護しました」
「よかった……。破傷風や細菌感染だけが心配でしたから」
気配に気づいたのか、ミラがうっすらと瞼を開けた。
「……マコト、さん……」
「無理に起き上がらないでください。まだ安静第一です」
マコトが寝台のそばに膝をつくと、ミラは困ったように小さく笑った。
「情けないです……。狩人のくせに、白牙の一撃もかわせなくて……」
「とんでもない。あそこであなたが命懸けで白牙の突進を止め、意識を引きつけてくれなければ、貯蔵庫の扉まで一気に突破されていました。あれは、全員を守るための立派な時間稼ぎでしたよ」
「でも……結局、最後はマコトさんに助けられて……」
ミラは包帯の巻かれた右肩をそっと押さえ、潤んだ瞳でマコトを見上げた。
「子どもたちを……ピピやルゥを、村のみんなを守ってくれて、本当にありがとうございました……」
その飾らない感謝の言葉を聞いた瞬間、マコトの胸の奥で、何かが静かに軋んだ。
(守った……?)
違う。マコトは自らの手のひらを見つめた。
前の職場で、上司の過剰なノルマと叱責に追い詰められていく後輩を前に、自分は何も言えなかった。声を上げられず、助けを求めるサインを見過ごし、後輩は壊れて会社を去っていった。
その消えない後悔があるからこそ、この世界に来てからは「自分がすべて段取りを組まなければ」「自分がすべてを背負って守らなければ」と、無意識に一人で抱え込もうとしていたのだ。
だが、昨夜の防衛戦はどうだったか。
白牙の圧倒的な質量を受け流せたのは、ゴッサが作ってくれた手寸分の狂いもない杖があったからだ。
巨獣を制圧できたのは、ダンが大盾で正面を受け止め、セルマが泥で足を縫い留め、狩猟隊の若者たちが正確な投石で目を塞いでくれたからだ。
そして何より、白牙が弱者のもとへ辿り着くのを命懸けで防いだのは、目の前の少女の勇気だった。
(俺が守っていたんじゃない。俺もまた、この村の連中に背中を守られていたんだ)
一人で背負い込む必要など、最初からなかったのだ。
胸を締め付けていた重い鉛のような強迫観念が、微かに解けていくのをマコトは感じていた。
「お礼を言うのは俺の方です、ミラさん。あなたの勇気が、みんなを救ったんです。……だから今は、何も心配せず、しっかり休んで身体を治してください」
マコトが微笑んで言うと、ミラは安心したように大きく息を吐き、再び心地よさそうに眠りに落ちていった。
西の空が茜色から深い群青へと移り変わり、ロッカ村に夕暮れが訪れた。
防衛戦で荒れた斜面の洗剤は綺麗に水で洗い流され、散乱していた空き缶の鳴子やアルミホイルは、マコトの指示による『5S(整理・整頓・清掃・清潔・躾)』の徹底で整然と回収・分別されていた。
危険予知と片付けまで完了して、初めて現場の仕事は終わる。
「おーい、マコト! いつまで箒を握ってんだ、こっちに来い!」
広場の中央から、ダンの野太い呼び声が響いた。
振り返ると、広場の中央には山のように積まれた太い薪に、パチパチと勢いよく赤橙色の炎が焚きつけられていた。
立ち上る煙とともに、香ばしい獣肉の焼ける匂いと、村人たちの陽気な笑い声が夜風に乗って漂ってくる。
恐怖と緊張に凍りついていた昨夜の闇とは違う、温かな宴の灯火だった。
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