EP 17
群れの王と、点呼
地響きとともに、常識を塗りつぶす巨躯が跳躍した。
幅二メートルの空堀も、斜面に撒かれた洗剤の滑りも関係ない。牙猿の王『白牙』は、ただ純粋な質量と脚力だけで防衛線をねじ伏せ、土塁の天端へと着地したのだ。
吹き荒れる土煙の向こうで、青白く光る二本の曲がり角が凶暴に蠢いていた。
「グルルルアッ……!」
王の黄色く濁った双眸は、土塁上の戦士たちを一瞥しただけで、その先――村の最奥部、子どもたちや弱者が身を潜めている穀物貯蔵庫の厚い石扉へと向けられた。
弱者のいる場所を本能で察知したのか、あるいは群れの統率者としての悪辣な知恵か。守るべき急所を真っ先に踏み潰し、村の心を根底からへし折るつもりだ。
「行かせるかあっ!」
ミラが身を投げ出すように前に出た。
腰の投石紐を限界まで旋回させ、放たれた硬質な石が唸りを上げて白牙の眉間を捉える。
バツンッ! と鈍い音が響いた。だが、分厚い筋肉と硬化魔術を帯びた白牙の皮膚は、直撃した投石を火花とともに弾き返した。
「ギシャアッ!」
苛立ちを露わにした白牙の太い剛腕が、薙ぎ払うように振るわれる。
ミラは間一髪で身を捻ったものの、巻き起こる突風と鋭い爪の先端に掠り、土塁の斜面へと激しく叩きつけられた。
「ミラッ!」
ダンの悲鳴のような怒号が上がる。
転がったミラの右肩から脇腹にかけて、獣の爪痕が深く走り、鮮血が夜の草を濡らした。少女は立ち上がろうとするが、激痛に顔を歪めて膝をつく。
その倒れた少女の頭上へ、白牙が太い腕を振り上げ、トドメの踏みつけを放とうと迫った。
(間に合え――ッ!)
マコトは迷うことなく、土塁の上から斜面へと身を滑り込ませた。
ミラの前に割って入り、樫の杖を両手で構える。
見上げる視界のすべてを、白牙の圧倒的な質量が覆い尽くしていた。丸太のような腕が、頭上から叩き落とされる。
恐怖で心臓が早鐘を打ち、全身の毛穴が開く。だが、マコトは奥歯を噛み締め、手帳に殴り書きしたいつもの思考を脳裏に叩きつけた。
(感情で突っ込むな。パニックになった現場監督から真っ先に事故死する。まず、現状を把握しろ!)
観察。
白牙の力と速度は雑兵の比ではない。だが、前進の慣性が強すぎる。あの巨体だ、直線的に速度が乗れば乗るほど、急激な方向転換は絶対に利かない。
「ダンさん! セルマさん! 役割通りに行きます!」
マコトの声が鋭く夜気を切り裂いた。
振り下ろされる巨腕。
マコトは力で受け止めようとはしなかった。大学時代、道場で何千回、何万回と繰り返した合気道の体捌き――入り身と転換。
爪が作業着の肩をかすめる紙一重の距離で半身を切り、白牙の腕の外側へと滑り込む。
同時に、両手で保持した樫の杖の軸を白牙の肘の関節部へ添え、その凄まじい前進のベクトルを殺さず、円を描くように下方へと誘導した。
「……流す!」
ズシン、と地面が揺れた。
自らの突進力によって前のめりに引きずり倒された巨獣が、体勢を大きく崩して片膝を折る。
(一人で勝とうとするな。チームで囲め!)
「ダンさん、正面!」
「応ッ!!」
土塁から飛び降りたダンが、全身の怪力を込めて樫の木製大盾を白牙の側頭部へと叩きつけた。
ドガァンッ! と重い衝撃音が響き、白牙の巨頭が跳ね上がる。
「セルマさん、足元を固めて!」
「はいっ……! 大地よ、泥濘となりて捕らえよ――『泥の枷』!」
背後からセルマの凛とした詠唱が響く。
白牙の足元の土砂が一瞬にして深い泥沼へと変わり、巨獣の太い両脚が膝下まで一気に沈み込んだ。
「ギャオオッ!?」
白牙がもがくが、泥が急激に粘度を増して固まり、自由を完全に奪う。
そこへ、土塁の上から狩猟隊の若者たちの叫びが重なった。
「ミラをやらせるかよッ!」
「喰らえッ!」
ビュンッ、ビュンッ!
朝の体操で肩の可動域を限界までほぐし、安定したフォームを叩き込まれた若者たちの投石が、白牙の目、鼻、耳といった急所へ正確無比に突き刺さる。
視界を塞がれ、顔面を滅多打ちにされた王が、混乱と激痛に咆哮を上げた。
受け、拘束、撹乱。
完璧に分担されたチームの工程が、圧倒的な怪物を完全に縛り上げていた。
残るは最後の一工程だ。
マコトは泥に縫い留められた白牙の懐へと踏み込んだ。
ゴッサが削り出し、手元から五十二センチの位置に重心が据えられた樫の杖。先端には、黒く鈍い光を放つ鉄の石突き。
(命を奪う必要はない。二度とこの村に手を出せないと、骨の髄まで分からせればいい!)
狙うは、白牙の太い首元、下顎の付け根にある神経の交差点。
全身の体重を杖の軸に乗せ、槍を繰り出すように鋭く突進させた。
「ふッ――!」
ゴッ! と鈍く硬い感触が、杖を通じてマコトの両腕に跳ね返る。
白牙の巨体が硬直し、黄色い瞳がカッと見開かれた後、白目を剥いて脱力した。
呼吸筋と神経を支配する急所への的確な打撃。
「ガ……ッ、ゲホッ……!」
白牙は泥の中から這いずり出ると、巨躯を震わせて後退した。もはや王の威厳など欠片もない。目の前の人間と村人たちへの純粋な恐怖に怯え、尻尾を巻いて闇の山中へと逃げ去っていった。
王の敗走を見た残党の牙猿たちも、蜘蛛の子を散らすように山奥へと退却していく。
夜の山肌に、嘘のような静寂が戻った。
「退いた……?」
「逃げていくぞ……! 勝った……勝ったんだ!」
戦士たちが歓声を上げかけたが、マコトは鋭く声を張り上げた。
「喜ぶのは後です! ダンさん、周囲の警戒を解かないでください! セルマさん、清潔な水と綺麗な布を持ってきてください!」
マコトは真っ先に、草むらに倒れているミラのもとへ膝をついた。
「ミラさん!」
「マコト……さん……。子ども、たちは……?」
青ざめた顔で、少女は弱々しく問う。
「全員、無事です。石扉は破られていません。あなたのおかげです」
マコトは自らの作業着の上着を脱ぎ、鞄から取り出した清潔な手ぬぐいとともに、ミラの右肩の傷口へ重ねた。
鮮血がじわりと布を染めていく。
(傷口を縛って血を止めるのは、神経麻痺や壊死の危険がある最終手段だ。まずは直接圧迫止血!)
マコトは傷口の上に置いた布の上から、自らの両の手のひらで全体重をかけるようにして強く圧迫した。
「少し痛みますが、我慢してください。強く押さえて血を止めます」
「くっ……!」
ミラが痛みに耐えて唇を噛む。
「いい呼吸です。そのままゆっくり息を吐いて。ダンさん、ミラの頭を少し高くして、声をかけ続けてください。セルマさん、傷口を固定するための包帯代わりに、清潔な布を裂いて持ってきてください」
的確で淀みのない指示。
数分間、全力で圧迫を続けると、傷口からの出血が目に見えて治まり、ミラの顔色に血色が戻ってきた。
命に別状はない。神経や動脈の重大な損傷も免れていた。
「……よかった」
マコトは額の汗を拭い、深く息を吐き出した。
東の空が、ゆっくりと白み始めていた。
朝霧が山肌を薄く覆い、長い夜の終わりを告げる。
マコトは立ち上がり、樫の杖を地面に突いて、集まった村人たちを見回した。
「ダンさん。点呼を取りましょう」
「て、点呼……? あ、ああ、毎朝やってるアレか!」
ダンは太い胸を叩き、村中に響き渡る野太い声を張り上げた。
「全員、持ち場ごとに報告しろ! 一番、土塁防衛隊!」
「一番、怪我人なし! 全員います!」
「二番、投石狩猟隊!」
「二番、軽微な擦り傷二名! 欠員なし!」
「三番、貯蔵庫避難班!」
奥の岩肌から、避難していた老人や母親たちが顔を出した。
「三番、子どもたちも年寄りも、全員無事だよ! 指一本触れさせちゃいない!」
次々と返ってくる、力強い声。
名前を呼び合い、互いの無事を確認し合うたびに、村人たちの瞳に熱いものが込み上げていく。
(死者、ゼロ)
過酷な夜戦を終えて、誰一人として命を落としていなかった。
「う、うおおおおおおっ!!」
「誰も死んでねえぞ! あの牙猿ども相手に、一人も死人が出なかったんだ!!」
男たちが抱き合い、女たちが子どもを抱きしめて涙を流す。
歓喜の雄叫びが、夜明けのロッカ村を揺るがした。
その歓喜の中心で、マコトの頭蓋に心地よい澄んだ音が響いた。
ポン。
黄金色の枠を持つ考課票が、視界の前面に静かに展開される。
――――――――――――――――
【考課】行動:脅威の撃退/評価:A/+40KP
【考課】行動:重要防衛ラインの維持および人命の保護/評価:S/+70KP
【考課】行動:完全無災害(死者ゼロ)での防衛達成/特別評価:特A/+900KP
(累計1,150KP)
――――――――――――――――
『累計考課ポイントが1,000KPを突破しました。』
『等級が【主任】へ昇格します。』
『【社内購買カタログ】に「防災用品・工具・照明」カテゴリが解放されました。』
ポン。
立て続けに響いた重厚な印鑑の音に、マコトは目を見張った。
(無災害の特別加点が900ポイント……!? やはり、倒すことよりも『守り切ること』、そして『無災害であること』が圧倒的に高く評価されるんだ)
しかも、主任昇格。
視界の端のカタログを開くと、灰色だったページが鮮やかに色づいていた。
充電式LED投光器、大型発電機、土のう袋、万能工具セット、ブルーシート、救急医療キット……。
(これだけの資材があれば、崩れた柵の補修どころか、村全体の防犯とインフラの再建ができる)
疲労困憊の身体の奥から、確かな希望が湧き上がってくるのを感じた。
朝日が差し込み、荒れた土塁と村の広場を黄金色に染め上げていく。
歓喜に沸く村人たちの輪から、一歩引いて静かに佇んでいたマコトの耳に、規則的な乾いた音が届いた。
コツ、コツ、コツ。
木製の杖が、広場の硬い地面を突く音だ。
ざわめいていた村人たちが、潮が引くように道を開ける。
現れたのは、黒い毛織りのショールを羽織った老女――村の長老、ネル婆だった。
いつもなら人間を忌避するように目を背け、毒づいて去っていく老女が。
朝の光の中、まっすぐに、迷いのない足取りでマコトの目の前へと歩み寄ってきた。
ネル婆の深く刻まれた皺の奥にある双眸が、じっとマコトを見据えていた。
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