EP 16
段取りの勝利、あるいは現場の夜戦
三度の鋭い角笛が闇の底へ吸い込まれた直後、ロッカ村の正面に広がる斜面一帯が、異様な気配に包まれた。
新月の闇。月明かり一つない漆黒の夜の向こうから、ガサリ、ガサリと、無数の草木を踏み鳴らす不気味な足音が波のように押し寄せてくる。
低く唸るような威嚇の声。そして、何十もの牙猿が立てる硬質な石の擦れ合う音。
先遣隊の比ではない。その密度と圧力は、まさに群れの全力が牙を剥いて迫っている証拠だった。
「来るぞ……!」
土塁の陰に身を潜めた戦士頭のダンが、山刀の柄を握りしめながら低く唸った。村の男たちの呼吸がわずかに荒くなる。極限の緊張感が、夜の冷気とともに全員の背筋を凍りつかせていた。
「まず、現状を把握しましょう」
その緊迫した空気を断ち切るように、マコトの穏やかな声が土塁の上に響いた。
マコトは樫の杖を地面に突き立て、冷静に前方の闇を見据えている。その堂々とした佇まいに、戦士たちの揺らいでいた心拍数がスーッと本来のペースへと戻っていく。
「敵の戦力は五十以上、夜行性による視覚の優位。対するこちらは地勢と事前の段取りによる完全防衛態勢です。焦る必要はありません。予定通りの工程を、一歩ずつ消化するだけです」
マコトが静かに右手を振り下ろした、その瞬間だった。
シャン、シャン、シャンッ――!
村の斜面手前の茂みや木々に張り巡らせたスチール製の空き缶の鳴子が、一斉にけたたましい金属音を奏でた。侵入検知のセンサーが、敵の先頭部隊の接触を正確に捉えたのだ。
「引っかかったぞ!」
「よし、第一防衛線、クリア!」
若者たちが息を呑む中、鳴子の音を追い越すように、不気味な影の群れが一斉に村の正面斜面へと飛び込んできた。
先頭を走る牙猿たちは、暗闇の中でも獲物を見据えて跳躍の体勢に入る。奴らにとって、急斜面などただの直線道路にすぎなかった。
――だが。
「キュギャッ!?」
着地しようと斜面に踏み出した瞬間、先頭集団の足元がまるで氷の上のように盛大に滑り散った。
マコトが事前に一斗缶何杯分もぶち撒けさせた業務用濃縮台所洗剤の界面活性剤が、夜露を吸って極限の滑りやすさを発揮していたのだ。摩擦係数はほぼゼロ。跳躍の勢いを殺しきれず、前のめりになった牙猿たちは次々と足を取られ、面白いくらいに派手に転がり始めた。
「ギャッ! グェッ!」
バランスを崩した奴らが、そのままマコトとセルマが築き上げた幅二メートルの空堀へと次々と滑り落ちていく。
さらに、斜面の背後に設置された篝火に火が入れられた。
藁と薪に大量に練り込まれていた業務用粉末激辛唐辛子が、熱せられて一気に激しい刺激臭の煙幕となって夜風に乗り、敵の群れへと直撃した。
「クエッ……!? グホッ、ゲホッ……!」
嗅覚の鋭い牙猿たちは、鼻と目の粘膜を強烈に灼かれて悶絶した。涙と鼻水を盛大に垂れ流し、目を開けていられまいと顔を掻きむしる。
そして追い打ちをかけるように、土塁の内側に敷き詰められた超厚手のアルミホイルが、篝火のオレンジ色の光を何倍にも乱反射させて彼らの網膜を強烈に襲った。
「ギャアアアッ眩しいっ!」と言わんばかりに、完全に視界を奪われた牙猿の群れは、どこが地面でどこが堀かすら分からず、ただその場でパニックを起こして同士討ちを始めるか、泥沼のように滑る斜面を転げ落ちるしかなかった。
「今だッ!!」
ダンの咆哮が夜空を切り裂いた。
「射撃部隊、一斉攻撃!」
土塁の上から、ミラを筆頭とする狩猟隊の若者たちが一斉に身を乗り出した。
彼らの手にあるのは、朝の訓練で可動域を限界までほぐし、受け身から安定した下半身を作った完璧なフォームから放たれる投石紐の弾丸だ。
ビュンッ! ヒュンッ!
正確無比な投石の雨が、混乱の極みにあった牙猿たちの急所を的確に撃ち抜いていく。力任せではなく、最短距離で正確に急所を狙う狩りの技術が、混乱した敵の群れに対して恐ろしいほどの効果を発揮していた。
「すげえ……! 面白いように当たるぞ!」
「これが、マコトの教えた段取りと連携か……!」
若者たちが歓声を上げながら次々と敵を無力化していく。
突撃部隊として待機していたダンたち戦士も、堀の底で自滅しかけている牙猿を、長柄の武器や木製の盾で安全に制圧していった。武器の性能差ではなく、完全に「地の利」と「戦術の構造化」で敵をハメ殺す、完璧な包囲殲滅戦だった。
死者ゼロ。負傷者ゼロ。
これまでのロッカ村の歴史において、牙猿の襲撃といえば必ず負傷者が出る過酷な防衛戦だったはずが、今回は一方的な狩りの場と化していた。
だが――。
(……甘くないか。これだけの混乱、本隊の王がじっと見ているはずがない)
土塁の上で周囲を警戒していたマコトは、ふと視線を群れの遥か後方、闇に包まれた高い岩陰へと向けた。
他の雑兵たちがパニックを起こして逃げ惑う中、そこだけは微動だにしない、一際巨大なシルエットがあった。
月明かりのない闇の中でも分かる、圧倒的な巨躯。そして、月光を反射して青白く鈍い光を放つ、巨大な二本の曲がり角。
群れの王――『白牙』。
ザリ、と、足元の小石が重い音を立てた。
罠の洗剤と唐辛子の煙幕をその巨体で踏み潰し、『白牙』がゆっくりと前へ歩み出たのである。その一歩ごとに、周囲の雑兵たちが恐怖に震えて道を空ける。王の放つ殺気だけで、先ほどまでの浮かれた空気が一瞬にして凍りついた。
「……来たか」
マコトは右手にしっかりと樫の杖を握りしめ、手元から五十二センチの重心位置を確認した。
ノギスで測り、ゴッサの片腕の職人技で寸分の狂いもなく削り出された最高の道具が、手のひらのなかで静かに応えていた。
読んでいただきありがとうございます。
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