EP 15
段取り八分
畑を荒らしかけた牙猿の先遣隊を追い払ったものの、村に安堵の気配は微塵もなかった。
偵察の狩人がもたらした報せは、村人たちの心を根底から叩き折るのに十分だったからだ。
群れの王『白牙』が率いる本隊は五十匹を超え、新月の夜の闇に乗じて村を一網打尽にする構えを見せていた。
集会所の薄暗い板敷きの中央で、屈強な山羊人族の男たちが怒鳴り声を張り上げていた。
「打って出るしかねえ! 広場に引き込んで、全員で刺し違えてでも止めるんだ!」
「馬鹿を言え! 五十匹の投石を一斉に浴びたら、広場に出た瞬間に全員ミンチだぞ!」
「じゃあどうすんだよ! 家に閉じこもって、屋根を破られて皆殺しにされるのを待てってのか!?」
(感情論と根性論で工程表が引けるなら、プロジェクトマネージャーはこの世にいらんのだよ)
板壁の隅に控えていたマコトは胸中で鋭く悪態を吐き、こめかみを軽く押さえた。
炎上した現場の典型例だ。直面した危機の大きさに全員がパニックを起こし、恐怖を紛らわせるために怒声をぶつけ合っている。このままでは、敵が来る前に組織が自壊してしまう。
「……静かにおし」
低く、ひび割れた老女の声が、怒号に満ちた集会所をピシャリと打った。
上座に座る長老ネル婆が、杖の先で床を強く叩いていた。
老女の深く刻まれた皺の奥にある瞳が、男たちを黙らせ、やがて壁際に立つマコトへと据えられた。
「人間。何か言いたげな顔をしているね」
ネル婆は突き放すように言った。
「だが、この村の戦いに、余所者の指図を受ける筋合いはないよ。お前の知恵でロディやセルマが助かったのは事実だが……村の存亡を賭けた血の戦いにまで、人間の口出しを許すわけにはいかないんだ」
依然として頑なな拒絶だった。
男たちも口をつぐみ、マコトを見る目に戸惑いと警戒の色を浮かべている。
だが、マコトは動揺しなかった。一歩前へ進み出ると、建材メーカーの営業時代に身につけた、背筋の伸びた完璧な礼を取った。
「指図などとんでもありません、長老様」
通る、しかし決して威圧的ではない穏やかな声で、マコトは告げた。
「これは指図ではなく『提案』です。この村を守るために命を賭けるか否かを最終的に判断するのは、ここにいる皆様ご自身です。現場の納得がない計画など、どれほど精緻であってもただの紙屑にすぎませんから」
ネル婆が怪訝そうに眉をひそめた。
怒鳴り返すでもなく、不貞腐れるでもなく、村人自身の決定権を尊重した物言いに、老女の毒気がわずかに抜けたようだった。
「……提案だと? 何を提案するというんだい」
「命を守るための、段取りです」
マコトは顔を上げ、集会所の黒ずんだ板壁の前に立った。
囲炉裏の隅から燃え残りの白い木炭を拾い上げると、黒板代わりに壁面へと迷いのない太い線を引き始めた。
「まず、現状を把握しましょう」
いつもの口癖とともに、炭の線が壁に図面を描き出していく。
村全体の立体的な地形図と、縦横に区切られた工程管理の表――ガントチャートだ。
「私が提案する防衛計画において、敵を殲滅することは主目的ではありません。最優先すべき絶対目標はただ一つ――『村人の死者ゼロ(完全無災害)』です」
「死者ゼロだと……!?」
戦士の一人が思わず声を荒らげた。
「五十匹を超える牙猿の群れを相手にして、一人も死なないなんて寝言が通るかよ!」
「通します。そのために、一番最初に行うべきは戦いの準備ではありません」
マコトは木炭の先で、村の最奥部、崖の岩盤をくり抜いた穀物貯蔵庫を丸で囲んだ。
「子どもや老人、傷病者の完全避難です。ピピやルゥたち子どもを含め、武器を持たない者は今から全員、あそこの貯蔵庫へ退避させます。あそこは厚い石扉があり、外からの投石は絶対に届きません。退避路には専属の見張りを二名配置し、万が一の事態に備えた直通の連絡網を敷きます」
ネル婆の瞳が、かすかに見開かれた。
敵をどう倒すかではなく、真っ先に弱者の生命線を確保することから始める段取り。かつて人間たちが村を捨てたとき、真っ先に見殺しにされた子どもたちの命を、この青年は誰よりも重く扱っていた。
「背後が安全だと確信できて初めて、前線の戦士たちは迷いなく戦えます」
マコトは振り返り、集まった全員の目を見据えた。
「守るべき者を背中に抱えたまま戦えば、第5話のミラの時のように足が止まり、判断が遅れます。弱者を切り離して安全地帯へ隔離することこそが、前線の防衛力を最大化するための第一歩です」
「…………」
ネル婆はしばらく黙り込み、やがて深く息を吐き出した。
「……続けな。聞くだけは、聞いてやるよ」
「ありがとうございます」
マコトは軽く会釈し、壁の表に炭で次々と文字を書き込んでいった。
「仕事の成否は準備で決まります。『段取り八分』です。全員に明確な役割を与え、防衛ラインを分担します」
マコトは隣に座っていたセルマに視線を向けた。
「セルマさん。あなたの土魔法が必要です。村の正面の斜面に、幅二メートル、深さ一・五メートルの空堀と、その背後に土塁を築いていただけますか」
「えっ……!? わ、私ですか?」
セルマは眼鏡の奥の目を丸くし、自らの胸元を指差した。
「私の土魔法なんて、土を盛り上げたり小石を動かす程度しかできませんよ? 王都の魔導院では『派手な攻撃魔法も使えない役立たず』と笑われていたんです」
「笑う連中の頭が化石なだけです。重機もなしに、数時間で強固な堀と土塁を立ち上げられる即時施工能力なんて、元の世界なら大手ゼネコンが白紙の小切手を用意して奪い合う神業ですよ」
(現場の土工を魔法で一瞬で終わらせられるとか、工期短縮のチート以外の何物でもないだろ)
マコトの真顔の断言に、セルマは頬を真っ赤に染めながらも、嬉しそうに胸を張った。
「……分かりました! 斜面を切り崩して、跳び越えられない深さの堀と土塁を固めてみせます!」
「頼みます。そして狩猟隊はミラさんを筆頭に、土塁の上から投石紐で敵の前進を削る射撃部隊です。ダンさん率いる戦士隊は、堀や障害物で足を止めた敵だけを各個撃破する迎撃部隊を担当してください。力任せの正面衝突は厳禁です。敵が勝手に崩れる罠を張り巡らせます」
「罠……? だがマコト、そんな大掛かりな罠を作る資材なんて、この村のどこにもねえぞ」
ダンが太い腕を組み、怪訝そうに唸った。
「資材なら、ここにあります」
マコトは静かに息を吸い込み、視界の右隅へと意識を集中させた。
――――――――――――――――
【人事考課シート】
氏名:相沢 誠
等級:本採用
累計KP:140
保有残高:63 KP
――――――――――――――――
(武器や兵器は買えない。……だが、知恵と工夫で防衛資材に変えられない日用品など存在しない)
マコトは【社内購買カタログ】のページを高速でめくり、迷うことなくすべての保有残高を注ぎ込んだ。
・業務用粉末激辛唐辛子(1kg):3 KP × 5袋 = 15 KP
・空き缶セット(スチール缶100個・結束用針金付き):5 KP
・業務用濃縮台所洗剤(18L缶):2 KP × 10缶 = 20 KP
・業務用超厚手アルミホイル(大容量ロール):3 KP × 7本 = 21 KP
・強力両面テープ&麻紐セット:2 KP
『上記の商品を取り寄せます。消費KP:63/残高:0 KP』
集会所の土間に、眩い青白い光が奔流となって満ちた。
光の粒子が弾け飛ぶと、床の上には山のように積まれた銀色のロール、巨大な金属の一斗缶、真っ赤な粉末が詰まった透明な大袋、そしてガラガラと音を立てる大量の空き缶が出現した。
残高は完全にゼロ。だが、勝算の数字は確実に跳ね上がっていた。
「な、なんだこれは……!? 神の奇跡か!?」
「銀色に光る薄い皮に、赤え粉……!?」
村人たちが息を呑んで後ずさり、鍛冶屋のゴッサが目を剥いてアルミホイルのロールを恐る恐る指先で撫で回す。
「ただの日用品です」
マコトは立ち上がり、澱みのない声で指示を飛ばした。
「まず、空き缶と針金! これを二個ずつ結び合わせ、村の侵入経路となる茂みや木々の間に張り巡らせてください! 暗闇で敵が足を引っかけたり枝を揺らせば、けたたましい金属音が鳴る。侵入検知の鳴子です!」
「次に、洗剤の一斗缶を開けて、正面の滑らかな岩肌と斜面一面にぶち撒けてください! 界面活性剤で地面の摩擦係数を限りなくゼロにする。跳躍しようとした牙猿の足元を滑らせ、堀の中へ勝手に滑り落ちる罠になります!」
「そして、この真っ赤な粉――唐辛子です。乾燥させた薪と藁にこれを大量に練り込み、風上に向けて篝火の準備をしてください。火をつければ猛烈な刺激臭の煙が立ち上る。夜目が利き、嗅覚が発達した野生の魔物にとって、目と鼻の粘膜を灼く最悪の催涙煙幕になります!」
「最後に、アルミホイル! 土塁の内側に敷き詰め、篝火の光を乱反射させて敵の目を眩ませます! 光に慣れていない夜行性の魔物の網膜を焼き、こちらの正確な位置を悟らせない目眩ましです!」
矢継ぎ早に明かされる、見たこともない道具の恐るべき転用術。
村人たち、そして戦士頭のダンは鳥肌を立て、息を呑んでマコトの顔を見つめていた。
「す、すげえ……! 武器なんか一つもねえのに、これ全部が敵をハメる罠になるのか……!?」
「これなら……これなら勝てるぞ! あの忌々しい猿どもを、返り討ちにしてやれる!」
絶望に染まっていた集会所の空気が、一瞬にして反撃の熱気へと塗り替わった。
上座にいたネル婆が、杖を握る手にぐっと力を込めて立ち上がった。
「……全員、聞いたね。この男の指図……いや、提案に従いな。一人の死者も出さずに、あの忌々しい猿どもを追い払うよ!」
「「「おおおおおおっ!!」」」
地鳴りのような雄叫びとともに、村人たちが一斉に作業へと飛び出していった。
そこからの動きは、驚くほど迅速だった。
子どもたちと老人はマコトの指示通りに穀物貯蔵庫へ整然と退避し、ピピとルゥが「お兄ちゃん、がんばって!」と小さな手を振って石扉の奥へと収まった。
斜面ではセルマが杖を振るい、土砂が生き物のようにうねって見事な空堀と土塁が築き上げられた。その表面には泡立つ洗剤が何缶分も撒かれ、草むらには無数の空き缶が張り巡らされた。
そして朝の体操で習慣づけた点呼により、各配置についた戦士たちの無事と健康状態が、一分の狂いもなく確認されていく。
段取りは、完璧だった。
やがて太陽が山の端へと没し、月明かりのない漆黒の夜がロッカ村を包み込んだ。
風が止み、草木が擦れ合う音すら途絶えた不気味な静寂の中。
――フォオオオオオン! フォオオオオオン! フォオオオオオン!
村の見張り台から、空気を鋭く引き裂く角笛の音が、闇の底へと三度鳴り響いた。
読んでいただきありがとうございます。
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