EP 14
お湯を注ぐだけの奇跡
廃坑の横穴から引きずり出された女性魔術師は、冷たい草むらに仰向けになったまま、胸元の真鍮器具を抱きしめて離さなかった。
青ざめた唇を震わせ、自らの命より先に飛び出した第一声が「私の測定器、無事ですか?」である。
全身泥だらけの酸欠寸前でなお研究器具の心配をする姿に、マコトは呆れを通り越して職人特有の業のようなものを感じていた。
(現場で大怪我した職人が、救急車の中で『俺のノミはどうなった』って騒ぐやつと同じだな)
「ええ、傷一つついていませんよ。それより、まずはご自身の身体を心配してください」
マコトが声をかけると、女性はほっと安堵の息を漏らし、それから急激な脱力に襲われたのか、その場にぐったりと身を預けた。
ダンと二人で担ぎ上げ、ひとまず村の端にあるミラの家へと運び込んだ。
暖炉に火を焚べ、毛布にくるまらせて白湯を飲ませると、女性の顔色にようやく生気が戻ってきた。
艶やかな藍色の短い髪を指先で払い、彼女は深々と頭を下げた。
「……セルマ、と申します。土と水の魔法を専攻する魔術師です。不名誉な遭難の現場を救っていただき、なんとお礼を申し上げればよいか……」
「相沢誠です。マコトと呼んでください。……セルマさん、確認ですが、なぜあんな危険な廃坑の崩落跡に入り込んでいたのですか? あそこは通気も遮断された死の空間でしたよ」
マコトの問いに、セルマは膝の上に置いた円筒形の器具――真鍮の針と水晶の小瓶が複雑に組み合わさった測定器に指を触れた。
「この測定器の針が、異常な数値を指していたんです。数日前から、この山の一帯で、自然界ではあり得ないほど歪んだ魔力の揺らぎが観測されていて……その震源を辿っていったら、あの廃坑の奥に行き着きました」
「魔力の揺らぎ……?」
「ええ。ですが、奥へ進んだ途端に頭が割れるように痛くなり、足元がおぼつかなくなって……情けないことに、そのまま倒れてしまったようです」
セルマは自嘲気味に口元を歪めた。
「昔から要領が悪くて。……私は先月まで王都の魔導院に所属していたのですが、『お前の研究は成果が数字にならない』と切り捨てられ、追放された身なんです」
「成果が数字にならない、ですか」
「はい。派手な軍事魔法を開発したり、希少な鉱石を一瞬で精錬してみせる同僚たちばかりが評価される組織でした。私のように地道に地脈の歪みを測ったり、土地の環境を調査する基礎研究なんて、『予算を食いつぶす無駄飯食い』だと見下されて……。見返してやりたくて、一人で未踏の山の調査に飛び込んだ結果が、この体たらくです。結局、私は組織にとって何の価値もない人間だったんですよ」
自嘲するセルマの腹が、間抜けな音を立てて小さく鳴った。
セルマは顔を真っ赤にして口元を押さえ、隣で見守っていたミラと子どもたちが思わずクスリと笑みをこぼす。
「あ、あの、すみません……三日ほど携帯食をかじるだけで、まともに食事をとっていなくて……」
「まず、現状を把握しましょう」
マコトは胸ポケットの手帳に触れ、穏やかに立ち上がった。
「空腹と酸欠の病み上がりに、冷たい水と反省会は毒です。胃に優しくて温かいものを入れましょう」
ミラの家の台所を借り、マコトは鉄鍋に水を張って暖炉の火にかけた。
そして視界の端、【社内購買カタログ】のタブを開く。
現在の残高は65KP。第11話で本採用に昇格したことで、食品カテゴリのラインナップはさらに充実していた。
・フリーズドライ味噌汁(5食入り):1 KP
・塩むすび(2個入り):1 KP
(計2KP。経費精算の手間もない、実にリーズナブルな福利厚生だ)
マコトは心の中で承認を下した。
手のひらに淡い光が集まり、四角い銀色の小袋が五つと、竹皮風の紙に包まれた温かい塩むすびが実体化した。
残高は63KP。
「えっ……!? マコトさん、今の手から出た光は……空間転移の魔法ですか!?」
セルマが目を丸くし、毛布を跳ね飛ばして身を乗り出してきた。
「いや、魔法というか……福利厚生のようなものです。深く気にしないでください」
(説明しようとすると天界人事部の課長の話からしなきゃならん。業務効率上、割愛がベストだ)
マコトは素焼きの椀を二つ並べ、銀の小袋の端をピッと手で裂いた。
中から取り出したのは、厚さ二センチほどの、カチカチに乾燥した茶色い四角いブロックだ。底にコロンとそれを落とす。
「な、なんですかその干からびた泥の塊は……? それを食べるんですか?」
セルマがおそるおそる椀を覗き込む。ミラも後ろから不思議そうに小首を傾げていた。
「見ていてください」
沸騰した鉄鍋の湯を、木杓ですくって椀の中へと注ぎ入れた。
ジュワッ、と微かな音とともに、乾燥ブロックがお湯を吸い込んで一瞬にして解けていく。
同時に、ふわりと立ち上ったのは、芳醇な大豆の醗酵臭と、鰹節の澄んだ出汁の香りだった。沈んでいた具材が、湯の中でまるで時間を巻き戻すかのように瑞々しさを取り戻す。緑鮮やかな青ネギが広がり、ふっくらとした油揚げと、柔らかな白い豆腐が椀の表面にぷかぷかと浮かび上がった。
「う、嘘でしょ……!?」
セルマの群青色の瞳が、これ以上ないほど見開かれた。
「乾いたブロックにお湯を注いだだけで、青々とした野菜と、切りたての具材が蘇った……!? 乾燥保存の術式を瞬間解凍する時間反転の付与魔術……!? い、一体どんな魔力回路が組み込まれているんですか!?」
「ただのフリーズドライ(凍結乾燥)技術ですよ」
研究者特有の突飛な分析に苦笑しつつ、マコトは椀と塩むすびをセルマの前に差し出した。
「冷めないうちにどうぞ。お腹に優しいですよ」
セルマは震える両手で素焼きの椀を受け取った。
立ち上る湯気を浴び、香りを胸いっぱいに吸い込むだけで、喉が激しく鳴る。
恐る恐る口をつけ、熱い汁を一口すすった。
「…………っ!」
セルマの肩が大きく跳ねた。
「……おいしい……! なに、これ……身体の芯まで染み渡るような、深いコクと塩気……。それにこの具、まるで今朝収穫して刻んだばかりみたいにシャキシャキしてる……!」
勢いづいた彼女は、竹皮に包まれた塩むすびを両手で持ち、かぶりついた。
粒立ちの良い米の甘みと、キリリと効いた純白の塩。汁をすすり、米を頬張り、また汁をすする。
最初は行儀よく食べていた魔術師は、最後には椀を両手で抱え込み、一滴残らず汁を飲み干してふうと長く熱い息を吐き出した。
「……生きてて、よかった……」
ぽつりとこぼれた言葉には、魂の底からの実感がこもっていた。
その顔には、先ほどまでの土気色の暗さは微塵もなく、健康的な桜色の赤みが差している。
空になった椀を置き、セルマは膝の上でぎゅっと拳を握りしめた。
「私……魔導院を追い出されたとき、自分のやってきたこと全てを否定された気がしたんです。誰にも見向きもされない地脈の調査なんて、本当に無駄なことだったんじゃないかって」
「そんなことはありませんよ」
マコトは静かに、しかし断固とした声で返した。
「確認ですが、建物を建てるとき、もっとも費用と時間がかかって、完成したら誰の目にも見えなくなる場所はどこだと思いますか?」
「え……? 基礎、ですか?」
「そうです。地盤改良と基礎工事です」
マコトは自らの胸ポケットに差した、かすれたボールペンの軸をそっとなぞった。
「どれほど豪華で美しい城を建てても、足元の地盤が歪んでいれば、地震や大雨一つで呆気なく崩壊します。基礎を調査し、保全する人間がいるからこそ、上に立つ者たちが安心して腕を振るえるんです」
前職の工場や建設現場でも同じだった。
毎日の危険予知活動、設備の油差し、床の清掃、ヒヤリハットの収集。それらは会社の売上グラフに直接『数字』として跳ね返ってくることはない。経営陣からは『コスト』と片付けられがちだ。
だが、その数字にならない地道な積み重ねこそが、重大事故を防ぎ、人の命を守り続けているのだ。
「数字にならない仕事が、一番人を救っていることもありますよ」
マコトはセルマの群青色の瞳を真っ直ぐに見つめた。
「地脈の異変を察知して、危険を未然に防ごうとしたあなたの仕事は、決して無駄なんかじゃない。誇るべき現場の仕事です」
「…………っ」
セルマの目から、大粒の涙がぽろぽろと零れ落ちた。
王都で誰からも認めてもらえず、冷たく切り捨てられた自分の年月が、この見知らぬ青年の言葉によって、生まれて初めて温かく抱きしめられたような気がしたのだろう。彼女は袖口で何度も涙を拭い、嗚咽を漏らしながら頷いた。
そのときだった。
――フォオオオオオオオンッ!!
引き裂くような甲高い重低音が、村の外れから山肌を伝って響き渡った。
空気を震わせる、けたたましい角笛の警戒音だ。
ミラの肩がびくりと跳ね上がり、少女は素早く腰の投石紐を握りしめた。
「見張り台の角笛……! 敵襲です!」
扉を蹴破るようにして飛び込んできた狩猟隊の若者が、息を切らして叫んだ。
「マコト! ミラ! 牙猿だッ! 先遣隊の十数匹が、斜面を迂回して村の裏の段々畑に現れたぞッ!」
読んでいただきありがとうございます。
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