64 憧れ
瞬間、時間の進みがゆったりとなった。
耳を劈くギャラリーの声も遠く、時間の流れに取り残されたように感覚が無くなる。
負けた。
分かりきっていたこと。
現役陸上部の富永は僕よりずっと長い時間を犠牲にしている。
部活時間以外に自主練もしているならもっと多く。
一方、僕はただでさえ1年近く陸上から離れていたし、毎日走っているとはいっても夜に1時間ほど。
練習量は雲泥の差だった。
それで僅差まで持ち込めたのはある意味奇跡だ。
必然的な負け。
なのに。
勝負直前にテンションが上がって「勝てるぞー!」と1人盛り上がっていたからかその反動がキツい。
初めから無理だったんだ。
だったらどうして無謀な勝負を受けた?
仕方ないだろ。断れなかったし、僕が降りれば祈が―――
言い訳だ。
自分を傷つけないように理由をつけているだけ。世の中結果が全てだ。お前は負けた。
うるさい。
事前準備をしていなかった?それはお前の怠慢だ。いつまでもウジウジウジウジ、過去のトラウマを引きづって1年間何もしなかった。逆に、富永は練習を重ね、お前に勝った。
ああ...
お前は負けたんだ。
ああっ―――
「ああああっーー!!『負けたァァッ』!」
言い訳をして目の前のことに目を逸らしそうな僕を言い負かす目の前の結果を受け入れさせようとする僕の議論が終局を迎えそうになったとき、すぐ近くから叫ぶ声がして意識が現実に引き戻される。
「クソッ!クソッ!クソッ!!」
地面を蹴って富永が髪を掻き毟る。
「は、はぁ?」
何を言っているんだこいつは。
そう思っているのは僕だけではないようでギャラリーも怪訝な顔を富永に向けていた。
その中でただ1人、簗場さんだけは全てを悟ったように困り顔だった。
突進でもされては適わないので少し離れた位置から僕は富永に声をかける。
「どういう事だよ。勝ったのは富永だろ」
「はぁっ!?」
冨永は何故か逆ギレしてずんずん距離を詰めてくる。
「俺は入学してから...いや、中学ん時から陸上やってんだ!自主練だってしてた!なのに...なのにそれでもブランクあったてめぇに『僅差』まで詰められたんだぞ!てめぇおかしいだろ!化け物か!ブランクあったってのは嘘なんじゃねぇの!?」
やたら興奮した様子の富永にグイッと距離を詰められる。
散々な言われようだ。
正直、そんなこと僕に言われても...と思ってしまう。
そんな事言われても困る。
僕はただ一生懸命ベストを尽くしただけなのだから。
「陸上を離れたのは嘘じゃないよ。僅差まで詰められたのは...ただ運が良かったのと火事場の馬鹿力...みたいな感じで」
「それでもだ!結果は結果だろ!」
「それを言うなら先にゴールラインを抜けたのは富永だ」
そう言っても富永は聞く耳を持たず
「ああッもう!!」
何を言っても聞いちゃくれない。
「まーた始まった」
いつの間にか簗場さんが傍に歩いて来ていた。
また?
「ちょー頑固なの、こいつ。一度こうだって思ったら完遂するまで絶対曲げない。普段は長所なんだけど押川くんのことになると短所だよね、これは」
簗場さんは物憂げに微笑み。
「ま、淳太が負けたって言うんならそれでいいじゃん」
「いや、でも...」
「こうなったらテコでも動かないよ?それに押川くんにとって好都合でしょ?賭けに勝った訳だし」
まあ、それは...
富永が会長を引き受けてくれるのなら都合はいいが...
でも、それでいいのか?
勝負は勝負。
僕は負けたのに。
「それに...実を言うと初めから賭けのことなんて考えてないよ。こいつは」
簗場さんの視線に釣られ富永を見ると富永は顔を顰めてフンッと鼻を鳴らしてそっぽを向いた。
「ほら、押川くんは勝った時のお願い言ってたけどこいつ何も言ってなかったでしょ?」
「え...」
必死に昼休みの事を思い出す。
『おい、押川。今日の放課後。着替えてグラウンドに来いや。そこで天才様の足を容赦なく折ってやる!』
『バカか!物理的に折るわけねぇだろ!例えだ例え!』
あ...そう言えば確かに勝負と言った割に何も賭けに負けた時のことを言われていない。
「どういうこと?」
「初めから、押川くんと走るのが目的だったんだよ」
「おい明空!」
簗場さんはその声を無視し
「同じ高校に入ったって知ってワクワクしてたのに押川くんが陸上部入らないって知って淳太落ち込んでた。まあ、私もだけど」
ちらりと富永を見るとバツが悪そうに視線を逸らされる。
「だからずっと機会を窺ってたんだ。それなのに押川くんこの前のマラソン大会でも手抜くし...。あ、でも今日のは偶然だよ?まさか押川くん直々に話しかけてくるなんて思っていなかったみたいだし。あの後淳太ちょー浮かれてたんだから。放課後になっても速攻準備してグラウンド出てさー」
「黙れよ明空!」
富永が大声を出し舌打ちする。
一方、僕は戸惑いと混乱を隠せないでいた。
簗場さんが説明してくれたおかげで状況は理解したけど...
何故そこまで僕にこだわるのかが理解出来ないでいた。
もっと技術が優れて、足の速い選手なんて多くいるのに。
「...なんで」
そんな声が漏れた。
2人が口を紡ぐ。
「分からないよ。僕は、そこまで思ってもらう程価値がない」
「それ、本気で言ってんのか?」
途端胸ぐらを掴まれた。
「ふざけんな!これだから天才はっ!!」
富永は言葉を詰まらせ何か言いたげにキツく睨みつけてくる。
そして荒らげた呼吸が落ち着くとフッと手の力を緩めた。
「...合同練習」
「は?」
「中2のときの合同練習で走った時だ。それまで俺はお前のこと涼しい顔で1位をかっさらっていくいけ好かない奴だって思ってた。傍から見てもお前は別格だったし凡人がどんだけ努力しても所詮天才には叶わないんだってな。でも、あの日、お前は誰よりも真面目だった。誰よりも走って、土だらけになってな」
富永の言葉を聞きながらその時の記憶を辿る。
あの時は毎日必死だっただけ。
自分が特別な人間だなんて、周りに天才だと持て囃されても調子がいいこと言って煽てているだけだと聞き流していた。
努力は裏切らないと信じて、周りの期待に応えるために頑張らないととなりふり構っていられなかった。
歩を緩めればコケると思っていたから。
『あの日』。全てを失ったと思っていた。
母やチームメイトの失望や怒りの目を見た時に。
みんなが必要としていたのは『結果を出す僕』だったから。
だけど、ちゃんと見てくれていた人達もいたんだ...
「自分の価値観が、変わったんだ。お前のせいで」
不機嫌そうな顔はそのままに、富永は頬を掻くと
「手が届かない『憧れ』だから俺も認めたんだ。納得出来たんだ。才能も努力も、敵いやしねぇ」
そう言って初めて笑った。
「先にゴールラインを抜けたのは俺だけど今回は俺の負け。俺の心がお前に負けたんだ。文句なんて言うなよ」
「言わないよ」
昼休みからずっと、互いに逸らしていた視線がようやく合った気がした。
「会長、引き受けてやる。だけど、それを言い訳にして練習は怠らねぇ。もっともっとお前に近づいてやる。...負けといてなんだけどよ。1つだけ、頼みを聞いてくれないか?」
その言葉に頷くと富永は周りに視線をやり
「ここじゃ、なんだからよ。明日クラスに行くわ」
「分かった」
僕はそう答えた。
勝負が終わるとギャラリーは1人、また1人と去っていく。
その輪の中に友人たちの姿を見つける。
最後まで残っていたのはこれからここで練習を始める運動部達と祈と詠子。
2人はスタートラインの位置にいるため声は聞こえないがふと振り向いた祈と目が合うもすぐに逸らされる。
「ありがとう」
そう言うと富永は「バーカ」とそっぽを向いた。




