㊵帰ろう
暗い闇の中を僕は1人歩いていた。
どうしてここにいるのかも、ここがどこなのかも検討がつかない。
右も左も分からないこの空間であるかも分からない出口を探して歩く。
途端1つの扉が現れた。
家の玄関の扉と同じ鉄の扉。
ゆっくり開けると中から光が漏れた。
5歳くらいの小さな女の子と母親らしき人物。
母親に頭を撫でられた女の子は嬉しそうにはにかむ。
その2人を僕は知っていた。
パラパラ漫画のように次の瞬間には女の子は10歳くらいに成長していて、母親も歳をとる。
そして徐々に扉の中で時間が経って女の子は莉愛になった。
学校の成績を母が見て嬉しそうに莉愛の頭を撫でる。
僕はこんな場面見たことがない。
だから夢だと気づいた。
最後に母に撫でてもらったのはいつだっただろうか。母が笑みを浮かべてくれたのは?
幼い頃から周囲よりなんでも出来た僕に、母親はいつだって期待を寄せていた。周囲に自慢していた。
だが、才能なんてものが通じるのは小学校まで。それからは母の期待を裏切らないために人一倍の努力をした。
母が「よくやったね」と褒めてくれるのが嬉しかった。
でもいつからか、母は褒める事はせず「次も頑張りなさい」言うだけになっていった。
母はは不良品が大嫌いだった。
昔から商品を買ってそうであることに気づくと激怒して店の人を困らせた。
いつからか「あなたたちは『不良品』にならないように」というのが口癖になっていた。
不良品は悪いこと。
だからそうならないように頑張ろうと思って来た。
※
消毒液の匂い。
うっすら目を開けると光が差し込んでくる。
まず真っ白な天井が見えた。
どうしてここにいるのか。
考えて、記憶を辿って、状況を理解する。
―――そっか。
また、だめだったんだ。
「大丈夫?」
不意にそんな声がしても驚かなかった。心に大きなダメージを受けているからかもしれない。
顔を傾けると
「莉愛...」
黒いセーラー服を来てこちらを向くのは妹の莉愛だった。姿勢よくベッド脇の椅子に座っている。
ただでさえ情けないのにこんなみっともない姿を晒してますます惨めな気持ちになる。
窓の外はいつの間にか真っ暗で倒れてからだいぶ時間が経っている事が分かる。
ゆっくり体を起こそうとすると莉愛が優しく支えてくれる。
普段ツンケンしているだけに久しぶりに見る優しい莉愛に違和感があった。
学校側が呼んだのだろうか。
母親は今日も仕事だ。恐らく夜中までは帰ってこない。だから莉愛が代わりに来てくれたのだろう。
「悪い...」
視線を毛布を掛けたままの足に向けたままそう言うと莉愛が立ち上がる。
そしてベッドの縁にちょこんと座った。
「莉愛?」
苺のような甘いフルーツの香りがふわっと香る。
2人の距離がグッと近づいて肩があと少しで触れそうだった。
名前を呼ぶと莉愛は頭を左に傾けた。近距離で視線が交差する。
「ちょっ...!?」
莉愛が右肩に手をそっと乗せてきた。
突然の行動に驚く。
うわっ、久しぶりにこんなに近づいたな。
昔はそれこそ、お兄ちゃん、お兄ちゃんって後ろをついてくるような奴だったのに。
莉愛は可愛いことで有名だ。それに加え、有名高校を目指せるほど頭が良く、努力家で、生徒会を務めるほどのカリスマ性も持ち、何事もそつなくこなせる。他にも莉愛の良いところを挙げるとキリがない。我が妹ながら本当に尊敬する。
そんな老若男女に人気者の莉愛が徐々に距離を詰めて来れば血が繋がっているとはいえ緊張した。
莉愛はどこまでも真剣な表情だ。
そして―――
ばっちーんっ。
「んんっ!?」
変な声が出た。
莉愛は僕の額に掌を当てたまま体温を確かめる。
「少し...熱あるね」
「あー...」
言われてみれば体がだるい。
莉愛が離れたあと自分で確認すると言われた通り少し熱かった。
風邪をひいていると気づくと途端申し訳なくなる。
なにしろ莉愛は受験生なのだ。
こんな大事な時期に風邪をうつすなんてことがあったら一生かかっても償いきれない。
「大丈夫」
そんな僕の気持ちを見透かしたように莉愛は言った。
「あたしのことは気にしないでいいから。好きでやってることだし」
そこまで言って「あっ」と莉愛が何かに気づいたかのように口を紡ぎ顔を赤くした。
「べ、別に変な意味じゃないから!家族として心配なだけ!」
分かってるけど。
どうしてそんなことを改めて言うのか分からずにいると
「ほ、ほら。帰ろう」
莉愛が立ち上がりスカートの皺をバサバサと手ではたいて直す。
促されるまま毛布を剥がし体の向きを変えると「あ、そうだ」と莉愛が振り向いた。
「それ、後でお礼言っとくんだよ」
指指す方を向くと壁際に僕のリュックサックとクラスのダンボールに入れていたはずの水筒が置いてあった。
リュックの持ち手に何やら見覚えがない白い紙が結びつけてあることに気づき外して広げる。
『とりあえずリュックと水筒は持ってきた。外履きは靴箱、内履きは保健室の外。余裕あれば起きたら一言でもスタンプでもいいから連絡くれ。 直樹』
鼻の奥がツンとなる。
ぽわんと胸の奥が温かくなった。
「あ、そうだ。...お兄ちゃんって彼女いたの?」
は?
「なんで?」
どうしていきなりそんな話になる。
まさか、莉愛も同学年女子と同じように直樹との関係を疑われている?
...って、そうなら彼女じゃなくて彼氏か。
「だってわざわざ荷物届けてくれるなんて彼女としか思えないしー」
ムッとして棒読みで莉愛が言う。
「いや、あのな?」
妹のあらぬ誤解を解こうと口を開く。
「可愛い人だよね。『長い髪も綺麗だったし』」
「んん?」
長い髪?
いや、直樹も男子にしちゃ髪長い方だけどさすがに僕の勘違いっぽい。
だが、荷物を届けてくれたのは確かに直樹だ。
同じクラスしか知らない僕の荷物の場所や水筒、靴箱から荷物を取ってくるなんて他のクラスの人には難しいだろうし、クラスの女子で親しい奴は残念だが誰もいない。
そもそも業務連絡以外でクラスの女子との会話がないけど。
だとしたら莉愛の勘違いだろう。
恐らく莉愛が来る前に直樹が来てその後『誰か』が来ていた。その人物と莉愛が出会った。
でも、誰だろう。
わざわざ来てくれるなんて。
「名前とか聞いてないか?」
「ん?え、だって...」
彼女だと信じて疑っていなかったらしく莉愛は首を傾げたが
「聞いてないけど。でもすごく綺麗な人だったよ。あたしが来たあとすぐ帰っちゃったけど」
「ふーん...」
話はこれで終わりだというように莉愛はベッドの反対側に回り込み僕のリュックに水筒を突っ込んで持ち上げた。
「いいよ、自分で...」
そう言い立ち上がるとふらっとよろめいた。
やっぱり調子が悪い。
「いいから。咲彩さんが車で来てくれてるからもう行こう。自転車はしょうがないから置いて帰ろう」
咲姉わざわざ来てくれたんだ。
「あ、そうだ」
壁を支えにしていると莉愛が近づいて来た。
そして精一杯背伸びをしてぽんと頭に手を乗せてきた。背伸びをしてもちゃんとは届かなかったらしく頭の上というより前髪の上に手が乗った。
そのままゆっくり、優しく撫でられる。
驚いたのと意識がモヤがかかったようにぼんやりしているのとでされるがままだ。
「無理してやんなくていいんだよ」
「無理って...」
何を言いたいのか分からず言葉を反芻する。
「自分のペースで歩けばいいって。誰かのためじゃなくて、自分のために」
何もかも見透かされているような瞳で優しく微笑む。
「あたしだって自分のために色々やってる。少なくとも今はね。誰かに押し付けられたんでも『代わり』にやってるんでもない。あたしのため。何としても成し遂げて、証明するの。家族の自慢になるの。だからね」
莉愛はゆっくり手をどける。
「頑張れ。今は受験が忙しいけど、たまには当たっちゃうこともあるけどさ。...あたしはずっと傍にいるし」
「妹だからね」と莉愛が付け足した。
普段と違う莉愛の姿に戸惑いがあった。でも、それを上回るくらい、嬉しくて―――
「ちょっ、泣かないでよー」
「な、泣いてないし」
鼻がズビッと鳴る。まるで説得力がない。
莉愛がハンカチを渡してくれてそのままジャージの袖を引っ張られた。
「行こう」
この日、大きく空いていたと思い込んでいた妹との距離は僕の勘違いだと気づいた。
心にぽっかり空いた大きな穴は少しだけど埋まったような気がした。




